第30話 遠くは避けよ
見知らぬ者を見る青年の視線、その冷たさ。
売り方は困惑した。少女が快方へ向かう事の実感と、懇意にしていた者からの冷酷な反応を同時に受けたのだから。
「何を言ってるんだ……?」
戸惑う売り方の、頭から足先までをしげしげと眺める青年。
腕組みをして、そこから握った右手を口元に当てる。
僅かによる眉間の皺。
「あ、ひょっとして、製薬会社のエンジニアの方ですか?」
「なっ……」
意表を突かれる売り方。そして更に困惑する。
青年は、いま自分が着ている場服が見えないのか?
いや、本当に自分を忘れてしまったのではないか?
「こんな時間までご苦労様です。薬の方は無事に出来たので、ちょうど今投与を始めたところです」
「なんだ、それは」
売り方の言葉に一瞬怪訝な表情を見せたものの、すぐに表情を戻す青年、点滴台に向かう。
吊るされている、橙色のクスリが入った袋。その下に有るネジを調整し始めた。
「初めて使う薬で、かなり強い筈ですから、とりあえず滴下速度を下げました」
一滴ずつゆっくりと落ちていく液体を見て、左腕の腕時計を確認する。
「これなら終わるのは4~5時間後、時刻で言うと9時頃になるでしょうか」
左袖を右手で捲った姿勢のまま、売り方を見る青年。
確認を求める様に。
「あ、ああ」
しかし、売り方はその時、経験した事の無い喪失感に囚われていた。
例えるなら、稲刈りが終わった直後の広い田んぼを眺めた時の様な。
冬の海辺で、刷毛で掃いた様なすじ雲がある、薄い青空を仰ぎ見た時の様な。
それらの際にふいているだろう、乾いて冷たい風に晒されている様な感覚。
「ところで」
売り方は、喪失感に耐えながら青年に問い掛けた。
「そのクスリは、どこから手に入れたんだ?」
青年は、何故か自分の事を忘れている様に振舞っている。
普通に考えれば、乱暴にされた事に対する、意趣返しとしての嫌がらせだろう。
しかし、ここまで執拗なのは異常だ。少なくとも、この青年の性格からして有り得ない。
ひょっとすると、このクスリの投与に関係しているかもしれない。神の仕手を変化させた、このクスリが。
そう思わせるほどに、この橙色のクスリが纏う不安な感覚には力強いものがあったのだ。
売り方は、それを確認する為に、あえて薬の出元について質問した。
まともな回答なら嫌がらせ、戸惑ったらクスリが原因か。
「え、何故そんな事を?」
狐に摘まれた様な表情になる青年。
「あなたが持ってきてくれたのでしょう」
「そう……か、そうだったな」
とりあえず、理屈は破綻していない。
いま自分は、青年の中では製薬会社の人間なのだから。
しかしこれでは答えにならない。それで売り方は質問を変える事にした。
「製剤に随分と時間が掛かったようだが、何かあったのか?」
これは、青年がクスリを持ち出した時から聞こうと思っていた事だった。
自分は12時間近く寝ていた。その間に何か起きていたのではないのか? と。
「いえ、特には。ああ、あなたの持って来てくれたカセットテープも、うまく使えました」
「カセットテープ?」
「はい、おかげさまで上手く製剤が出来ました」
確か、売り方が演奏したバイオリンの音の振動を、クスリを混ぜ合わせるのに使うとか言う話だったか。
売り方は思い出した。
しかし、これもまた筋は通っている。
「なあ、突き飛ばしたのは悪かったと思ってる。だから……」
焦れた売り方、青年に白旗を上げる。
しかし、その時少女の体をモニターしていた機器が、一斉に数値の変化を示し始めた。
「ちょ、ちょっと待って下さい」
慌てた様子で機器に取り付く青年。
と同時に、売り方の体にも再度の変化が起きた。
「こっ! これ……は……っ」
予感めいたものはあった。それが現実になった。
自分の外側を覆うものが削られ、左腕に供給される毎に、それに力がみなぎり、少女に取り付く病魔を潰していく。
その、無くしてはいけないものが無くなっていく喪失感と、今まで願っても出来なかった事が出来る、常識を超えた達成感とが綯い交ぜとなって、売り方の体と心を竦ませたのだ。
と、そこへ廊下から硬質な足音が聞こえてくる。
「容態に変化でも……?」
鬼女だった。呼びに行ったナースと共に、戸口に立っている。
「あ、ちょうど良い所へ」
機器を凝視していた青年、戸口の方へ顔を上げて。
「院長も! 取り急ぎこの数値を見て下さい!」
彼女らの後ろ、廊下の暗いところに居た院長にも部屋に入るよう促した。
室内に入ってくる三名。
院長とナースは、鬼女を追い越して、青年の居る機器の前に行った。
「えっと、こちらの方は?」
鬼女、戸惑った表情で青年に問い掛ける。
「え? ああ、そちらは製薬会社のエンジニアの方です」
戸口と売り方の間で立ち止まっている鬼女に向かって、青年。
言ってすぐに、院長たちとの会話に戻った。
容態の好転を示す数値に関し、興奮した様子で会話する青年たち。
それを横目で見ながら、売り方はまだ竦みに捕らわれたままだった。
機器の数値の好転と、病魔を潰す感覚がリアルタイムで同期しているのだ。
「製薬、エンジニア……?」
怪訝そうな目を売り方に向ける鬼女。
売り方を、頭から足先までを無遠慮な視線で眺め回して、言った。
「この人は証券会社の方ですね、それも場立ちです」
「え、そんな!?」
青年は、ギョッとした顔を鬼女に向ける。
「そんな筈はありません!」
「何を言ってるんだ。そっちこそ、なんでこんな所に」
竦みを堪えて、売り方。
鬼女の、見知らぬ者を見る様な目に嫌な予感を憶えつつ。
「家族を見舞いに来ておりますが」
そこで、売り方の体を更なる竦みが襲った。
それは、クスリが少女の体内に浸透し始めた事を意味するのか。
まるで遮断機が下ろされた様に。
これでもう後戻りは出来ないとでも言うかの様に。
「な、なにっ……」
「そういう貴方こそ、どういったご用件でこちらへ?」
売り方は、鬼女に場立ちだと言われ、現状は相場の様だと思った。
まるで、両建てをしている銘柄の値動きを見ている様だと。
高いところで売り建て、安いところで買い建て。各々同数。
相場がどう動こうとも、売り玉と買い玉のトータルの損益は常にプラマイゼロとなる。
しかし実際には、損を纏う方の玉を切る。そして、益を出している方の玉との値幅を更に拡げる様に建て直す。
そうして日々買い玉と売り玉の値幅を拡げながら、適当なところでそれらを同時に手仕舞うのだ。値幅そのものが儲けとなる。それが、リスクの少ない両建ての基本戦術。
「いや、俺は……」
だがこの橙色のクスリは、そうした外部からの制御を一切受け付けない。
ただひたすらに、売り方の外殻を削りながら少女の病魔を駆逐して行く。
このまま行けば、自分の外殻は無くなってしまうだろう。
しかしそれについては、特に問題とは思わなかった。
寧ろ、問題と思わない自分自身に対して違和感を覚えた程だ。
そして直後に、そんな風に相場に例える自分の思考が、かなり現実離れしてしまっているという事にも。
「と言いますか、貴方は何処のどなたなのですか?」
鬼女に誰何され、売り方はやっと理解した。
その、まるきり他人を見る冷たい視線の前で。
母の姿が言った、楽譜を使った者自身が欠損になってしまうという、その真の意味を。
売り方と鬼女のやり取りに気づいた院長が言った。
見ない顔だが、株の事なら後にしてくれ。今は忙しいのだからと。
気づけば、ナースまで売り方を冷たい目で見ていた。
部外者は出て行けと。
カネの亡者の出番は無いと。
株屋などという、不誠実の塊の様な者が居ていい場所ではないと。
加速状態に入っているワケでもないのに、まるで話しているかのごとく、相対する者達の心の声が聞こえてくる。
つまり、本音の部分では、そこまで強烈に株の関係者を卑下しているという事だった。
売り方は叫びそうになった。
株式の売買を否定しては、資本主義は成り立たない!
そもそも、自分はこの少女を救う為に身を投げうっているのだと!
いや、体がまともなら絶叫していたに違いない。
しかし、今まさに動いている、その少女を救うための仕組み。
その稼動が故に、売り方は彼らが心底から自分を忘れているという事が理解出来た為、言い返す言葉も行動も思いつけなかったのだ。
たじろぐ売り方。その目に、部屋の奥、窓のカーテン辺りに僅かな異変が映る。
それは、部屋の薄暗い照明でぼんやりとしか見えない布地の表面に沸き起こる、ヒトガタの影。
母の姿だった。
「どうして……」
母の姿は、周囲に一切の気遣いを見せず、少女のベッドの方に歩み寄る。
そして、青年たちの背後から興味深そうに少女を覗き込み、言った。
(まさか、これを使える人が居るとは……)
売り方をチラと見た後、来た時と同じ様に、まるで自分だけ別の空間に居るかの様な存在感の無さを振り撒きながら。
(受け渡しがあります、立会場へお越し下さい)
来た時と同じカーテンの中に消えて行った。
「どうして、とはこちらの台詞なのですが」
「ああいや、スマン、出て行くよ。それと」
苛つき気味の鬼女に向かって、宥める様に売り方。
母の姿には、楽譜が使用された事が分かったのだろう。
本来のものではない使い方。それを見て尚その事に言及せず、ただ取引の事だけを告げて去った。
それは、見逃してくれたという事なのだろう。売り方の少女に対する固執に、母の姿が折れてくれたのだと。
売り方は、そう思った。
「いろいろと、ありがとう」
青年と、その背後の、母の姿が消えて行ったカーテンの辺りを見ながら。
売り方は思い出したのだ。自分が倒れた際に介抱してくれた事に対する感謝の念を、未だ伝えていなかった事を。
院長が青年に、彼に何かしたのか? と問い掛けたが、青年は怪訝そうな顔で首を横に振るだけだった。
売り方は、それに少しだけ寂しさを覚えた。
病院の外に出た売り方。
外は未だ夜闇が支配している。
星の一つも見えず、そして寒い。
竦みは、遮断機が下ろされた様な感覚を覚えた時点で殆ど無くなっており、歩行を含め普段の行動に支障は無かった。
ポツポツと走っている、車のライトや街灯に照らされた吐息が白い。
売り方はそれを見て、クスリの効きに影響が出る事を懸念した。
存在しない左腕を、前方に突き出してみる。
その感触は、確かに少女の病魔を駆逐している実感に満ちているものだった。
そして、同時に外殻が、ゆっくりとだがしかし着実に削られてもいた。
自分の体が感じている寒さなど関係無かった。
だが、防寒着の必要性は感じた。
マンションの最上階、いわゆるペントハウスの玄関を開ける。
点けた電灯の白々とした明かりに浮かび上がる、ただ広いだけの質素な部屋。
部屋の隣にあるウォークインクローゼットへ入り、濃紺の外套を取り出す。
片腕しかない事に難儀しながらも、なんとか羽織った。
もう、この部屋に帰って来る事は無いかもしれない。
何かしておく事は無いのか? と自問した。
しかし、大したものがあるわけでもない。それに何より、住んでいた時間が短く、特に思い入れというものも無かった。
出よう。そう決めて部屋の入り口に行く。
部屋の明かりを消そうとした時、売り方の目に、テーブルの上にある白いプッシュホンの電話機が映る。
売り方は、ふと、やり残した事がある様な気がした。
マンションを出て、東証へ向かって歩き出す売り方。
東の空は白み始めていたが、青も蒼も見えない。
多分、曇っているのだろう。僅かに北風があり、それが刺す様に冷たい。
部屋の鍵を閉める際に、売り方は、道具のありがたさを噛み締めていた。
道具は忘れない。鬼女や院長達の様な、人間とは違う。
だから、使えば確実に仕事をこなす。鍵ならば開錠施錠だ。
そして売り方は、走っている車の中にタクシーを探しながら、一昨日まで乗っていたクルマの事を思い出した。
大気の中にもぐりこもうとするかの様な、流麗なフォルム。
有無を言わせない圧倒的な加速力。
走り出せば軽く扱えるハンドル、ミッションシフター。
速度を落とす事を否定するかの様な、思い切り蹴飛ばさないと効かないブレーキ。
今この場にあのクルマがあれば、と。
すぐに、今更求めても詮の無い事だと思い直したが。
売り方は荷物を持っていなかった。
左腕を失ったせいで、残った右腕には、体のバランスをとらせるので精一杯だったからだ。
それでも昨日よりは随分マシになっていた。歩くだけならそれほど不具合無く出来る。
ただ、始終ポケットに入りたがる右手を叱りつける必要はあったが。
マンションからも病院からも、かなり離れたところまで歩いてきた売り方。
もう既に、タクシーは諦め、最後まで歩こうと決めていた。
既に夜は明け、歩道を歩く人の数も増えた。
マンションを出た頃に思ったとおり、空は曇天だった。
日が差さず、寒さに拍車をかけているように思えた。
売り方は、暗かった頃よりも更に、周囲に注意していた。
前から歩いてくる者が、売り方を認識出来ていない様なのだ。
いや、厳密には見えている。
しかし、外殻が削られ続けているせいか、他者から見ると存在感自体が無くなりつつある様だった。
何度も前から肩をぶつけられ、そのたびに謝られ、必ず怪訝そうな顔をされる。
また、後ろから追い越される際にもぶつかられた事すらあった。
売り方は、ただでさえバランスの悪い体でもあり、何度も転びそうになったのだ。
そうして気をつけて歩きながら、売り方は、無い左腕に、前に突き出す様に力を込めてみた。
相変わらず、いや、病院を出た頃よりも病魔の駆逐が加速している感覚を得た。
どうやら、距離は関係無い様だった。
この、自分の外殻を費やして治療するという、橙色のクスリの仕組みは。
そして、少女は確実に快方へ向かっている。
その実感が、売り方の心に小さな灯を
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