第29話 見えざる手

 

「クスリ? 何の事だ?」

「え……?」


 質問を質問で返され、面食らう青年。


「……貴方が今、手にもってる物ですが」

「まさか、コレが見えるのか!?」


 今度は売り方が面食らう。

 まさか、自分以外にこの楽譜を認識出来る人間が居るとは、と。


「え? もちろんです」


 一瞬怪訝そうな表情をして、歩み寄る青年。

 彼から見て、売り方の虚ろな左袖は正面に位置しているが、その事に言及は無い。


「すみませんが、それをもっとよく見せて頂けませんか?」


 楽譜を食い入るように見つめる青年。

 その半ば夢遊病者の様な雰囲気に、売り方は気圧されてしまう。

 青年なら、自分が隻腕である事に疑問を持つのではないかと思ったのだが。


「あ、ああ」


 青年の意識は、この楽譜に集中しているのは明らかだ。

 ならば、青年が今は左腕の事を気にしないのも止むを得まい。寧ろ気にしないで居てくれるのは幸運かもしれない。今の自分には説明する気力も体力も無いからだ。

 そう思い、楽譜を青年に渡す売り方。

 その時、楽譜が青年に吸い込まれる可能性が脳裏をよぎり不安になる。


「こ、これは……」


 だがそれは杞憂だった。

 楽譜は、青年の中に吸い込まれる事は無く、また、売り方の手の中にあった時の様な身じろぎも見せていなかった。


「本当に、それがクスリに見えるのか?」


 楽譜を掴むように持って凝視する青年に、問い掛ける売り方。

 先程から続いていた刺すような頭痛が、更に酷くなるのを感じた。


「は、はい……」


 楽譜を凝視したまま、青年は生返事を返す。


「なんという事だ……」


 頭痛と悪寒の中で考える売り方。

 確かに、母の姿が言った通り、自分にこの楽譜は使えなかった。

 それは、自分がこれを楽譜だと見ている所為ではないのか?

 もし、これを別な何かに見る事が出来れば、もっと違う使い方が出来るのではないか?


「いえ、こんな薬瓶に入ってるものなら、薬だと思うのが普通でしょう?」


 売り方の感嘆めいた言葉に、返事をする青年。

 だが、視線を売り方に向けたのはほんの一瞬だ。再び楽譜を凝視し始める。


「ヤクビン、だと?」


 売り方がその楽譜を掴んだ際には、紙の見た目とは違う、金属質な手触りを感じていた。それも棒状の。

 ガラスのビンだと言われれば、そうかもしれないと思えた。


「はい、見た通りの」

「それで、見ただけで中身が分かるものなのか?」

「え? ああはい、外側に色々と書いてありますので」


 どうやら、青年が言うところのビンには、ラベルが貼られているようだった。

 凝視していたのは、その内容を読んでいたからなのか。


 母の姿は楽譜ではないと言っていたが、同時に、正体に関してはっきりとは明かしていなかった。

 そもそも、彼(彼女?)の姿にしても、自分の感情によって変わっていたではないか。

 それが作り出した、若しくは執行するモノだから、見る人間によって変わるのも或る意味で当然の事かもしれない。

 売り方は増々悪化する体調の中で、そう考えた。


「これは……凄い、こんな組成が有り得るのか」


 思わず、といった風で感想を漏らす青年。


「それで、そのクスリは使えそうなのか?」

「このままでは使えません、今は嚥下出来ない状態ですから。それに……」

「エンカ? 飲み下せない……つまり固体なのか?」

「え、ええ、正確には粉状ですが。……本当にこれが見えないのですか?」


 青年は、今度こそ視線を売り方に戻した。

 薄く疑念がかかった目で。


「い、いや、そういうワケじゃないんだが」


 少し慌てる売り方。

 やっと手に入れたものだ、ここで疑いを持たれるのは拙い。


「……ともかく分散系ですから、懸濁状にする必要があります。それは静脈への……」


 段取りを話し始める青年。

 その、製薬に関する事と思しき説明を聞きながら、売り方は、青年に任せるべきと思い始めていた。


「……製薬会社から機械を入れてもらったのは、これの為ではなかったのですが……」


 夢中で話す青年。

 それを見ている売り方の視界には、次第に黒っぽい紗がかかり始めていた。


「き、気づくのが遅れて申し訳有りません、顔色が真っ青じゃないですか!」


 売り方は、平衡感覚を失い、ベッドの端にもたれかかったのだ。

 慌てて手を貸そうとする青年。


「俺の事はどうでもいい、ただそのクスリを確実に……」


 その場に崩れ落ちる売り方。

 与えてくれ、と言ったつもりだった。

 が、実際には最後まで発声出来たかどうか分からなかった。

 青年が何事か怒鳴っているのは分かる。

 しかし、その内容も不明だった。


 売り方を起こそうとしたのか、或いは手助けの誰かを呼んだのか。

 説明の確かさから、青年に任せて大丈夫だと思った瞬間に意識を手放してしまった売り方には――




 右腕に、小さく鋭い痛みを感じる。

 瞼の向こう側が、眩し過ぎる光に照らされているのが分かる。

 ただ、それらは酷い悪寒の中で、瞼を開かせる程のものではなかった。




 暗闇の中、傍らに誰かが立っている。

 明かりは一切無い筈なのに、不思議とその人物だけは浮かび上がる様に見えていた。


 自分は何処かで横になっている様だ。

 立っている人物が、自分を覗き込む形になっている。


 その人物は誰なのか。

 目を凝らすうち、徐々にその顔が明らかになってくる。

 それは、七十絡みの初老だった。

 死んだ父親や病院の院長に似ているが、同時にそれらのどちらにも似ていない。


 彼は仕事の話を始めた。

 やらなきゃならない事ってのは、たいてい突発的に起こるものだと。

 そして、それをすべきなのは、それから一番近くに立ってる奴だと。

 だから、そいつの仕事だと。


 初老に向かって異議のない事を伝えようとする。

 しかし、口は思うように動かなかった。


 初老は、今度は鎖の話を始めた。

 曰く、強いコマには、弱いコマに対して責任と義務があると。

 今は、それらを果たすべき時であるのだろうと。


 そうしているつもりだ、と伝えようとする。若干の苛立ちと共に。

 しかし、金縛りに掛かった様に身じろぎ一つ出来ない体では、それは不可能だった。


 返事を待っている風だった初老の傍らに、新たな人影が浮かび始める。

 今度は、死んだ母親に似た、妙齢の女性だった。


 女性が問い掛けてくる。

 それは、絶対にしなければならない事なのですか? と。

 あなたがしたいと思う事をするのが一番なのだけど。

 でも、それをしたら命を落とすと分かっているなら、逃げても良いのですよと。


 献身の事を言っているのか。

 逃げてもロクな事にはならない。仮に命を投げ出す事になっても。

 伝えようとしても、一言も声を発せなかった。


 辛そうな、悲しそうな顔で見下ろし続ける、二人の人物。

 彼らは、姿勢や表情をそのままに、徐々に背後の闇の中に溶け入り始めた。


 それを急いで止めようとする。

 まだ一言も返してないと言うのに!

 しかし、体はピクリとも動かせない。

 いや、胸の辺りから力を入れられる様になってきて……


「待ってくれ」


 思ったよりも、はるかに小さな声しか出せなかった。

 白い壁、白々とした蛍光灯の明かり。

 そして、驚きの表情で覗き込んでいる青年。


「お目覚めですね」


 売り方は、素裸でベッドの上に寝かされていた。

 それは異様に幅の狭いもので、売り方の足首の辺りと腹部の辺りは、医療用のベルトでそのベッドに縛り付けられている。

 青年は、その右腕と共に締められていた腹部のベルトを、緩めているところだった。


「……ここは?」


 口の中がカラカラに乾いている売り方、やっとの思いで声を出す。

 見回すと、どうやら見覚えのある部屋だった。


「私の部屋です、病院内の」


 被せられていたのだろう、包布をベッドと壁の間に押しやりながら。


「さ、これで起き上がれます」


 両方のベルトを外し、更に、右腕に刺さっていた点滴の針も抜いて。


「あ、ああ……」


 起き上がろうとする売り方。

 しかし、まだ左腕が無い事に慣れてないせいか、上手く体を起こせない。

 それを見かねたか、青年が抱きかかえる様にして、売り方をその狭い診察用のベッドに腰掛けさせた。


「では、少し失礼して」


 聴診器を売り方の胸に当て、簡単な診察を始める青年。


 売り方は、素裸でいるので、肌寒さはあった。

 しかし、倒れる前よりは、遥かに体調が良くなった事を感じていた。

 壁の時計を見る。

 4時2分。

 12時間は寝ていた勘定だ。


「問題無い様ですね」


 血圧計を外す青年。


「何か不快に思われることは有りませんか?」

「尿意がある」

「それでは先ず、その横の籠に入れてある下着を着て下さい。洗濯してありますから」




 トイレの後、ハンガーにかけられていたズボンを履く売り方。

 ワイシャツも洗濯されていた。

 アイロン掛けもされていたそれを着て、ネクタイを締める。

 同じくハンガーに掛けられていた場服を着て、元通りとなった。


「鬼女さんですか、あの人と院長が見舞いに来られてました」


 暗く静かな廊下を歩きながら、青年。


「寝顔を覗き込んで、お二人とも凄く心配そうでしたよ」


 それであんな夢を見たのか。

 青年と並んで歩きながら、売り方はそう思った。


「そうか」

「実は、あの後すぐに集中治療室に入って頂きまして、そこで対処をしたのですが」

「ふむ?」

「その時に見た貴方のその左肩が、どうしても不思議なのです」


 青年も、他の人間と同じく、売り方が隻腕である事に疑問を持っていなかった。

 ただ、体全体のバランスが異様だと。

 これではまるで、数時間前に左腕を切り落とされて、即座に完璧な外科手術が行なわれた上、更に数年間の時間分の治癒が起きた様にしか見えないと。


「それは、気にしなくて良い事だ」


 青年なら、左腕を憶えていてくれるかと思っていた売り方、若干の失望を感じながら。


「それより、クスリはどうなった?」


 気になる事を尋ねた。


「それは、ここです」


 立ち止まり、目の前のドアを指し示す青年。

 薬局だった。

 ノック無しで中に入り、程無くして出てくる。

 手には、橙色をした液体の入った袋が。

 それは、何か不安を呼ぶ程に鮮やかな。


「あれが、こうなったのか」


 感心しながら、売り方。

 昨日の朝の、製薬会社の社員のセリフを思い出し、新しい製薬の機械はこの部屋に据えられたのだと理解した。


「そうです。ですが……」


 再び歩き出しながら、青年。


「このクスリは一体何処から手に入れたのですか? 中身をビーカーに移し変えると、同時に瓶が光の粒になって消えてしまったのです」

「そうだったのか」


 売り方は、さもありなんと思った。

 なにせ、あの相場の神の仕手なのだ。そういう振る舞いもして見せるだろうと。


「……これを手に入れるのに、大変な苦労があったのは想像出来ます。貴方の体の疲労具合は、信じられないほどに酷いものでしたから。ですが」


 その青年の言葉にかぶせる様にして、売り方は。


「ヤボは、聞きっこ無しで頼む」


 と言った。

 橙色の液体が放つ不安感。それを気にしないようにと、自分自身に言い聞かせる様でもあった。


「そうですか……」


 具体的な答えは期待していなかったのか、青年はそれ以上尋ねてこなかった。


 エレベータで最上階まで上り、非常口を示す明かりだけが頼りの廊下を、突き当たりに向かって歩く二人。

 足音が陰鬱なリズムを生んでいた。


 少女の病室は、戸が開いていた。

 中には、巡回中と思しきナースが一人。

 青年を認めたナースが青年に話しかける。

 売り方が目覚めたら院長室に連絡をして欲しいと。

 見舞いの女性が待っているから、との事だった。


 青年は、恐らくは鬼女であろうその女性が待つ院長室へ、直接行くようにお願いした。

 それは、その女性を気遣ったものと同時に、人払いの意味でもあっただろう。

 その病室の中は、主である少女を除けば、売り方と青年の二人だけになった。


「実は、新しい機械には」


 持って来た橙色の液体が入った袋を、ベッドの傍らの点滴台に付けながら。


「貴方の演奏されたバイオリン曲を使用出来る様になっているのです」

「何故、そんな事を?」


 売り方が感じていた、橙色の液体から放たれる不安感。

 それは青年が点滴台に付けた時から、一段とその濃度を増していた。


「聞いた事はありませんか? 畑の作物にクラシック音楽を聴かせ続けると、生育が良くなると」


 青年は、ベッドの横の機器から細いケーブルを数本取り出しながら。


「それを参考にしたのです。そうすれば通常の薬でも、貴方の不思議な力のある演奏と同じ効力を持つ様になるのではないかと」

「そうだったのか」


 相槌を打ちながら、売り方は沸き上がって来る不安感を押さえ切れなくなっていた。

 それまでは橙色の液体から放たれていたものが、自分の内側から膨れてきている。

 これが何かの警告ではないとするなら、それはきっと。


「それは無駄ではなかった様です。この薬の仕上がりを見ても」


 ケーブルを少女の腕や額に付けながら、青年。


「上手くいったのは疑い様のない事の筈です。……その筈なのですが」

「何か問題でも有るのか?」


 相場で偶に使えていた“先見”の能力。その発現ではないのか?

 この、橙色のクスリを使うのは危険だと。


「私は、怖いのです」


 起動し、何かの表示を始めた機器を背にして。


「いえ、この薬には疑問を持っていません。貴方が持ってきてくださったものですし、加工に関しては自信すらあります。ですが、なんというか……」

「ふむ、それはな」


 母の姿は言っていた。これを使った者は、それ自身が欠損になってしまうと。

 それは左腕の消失が確定するという意味ではなく、もっと直接的な表現だったのではないのかと。

 売り方は、焦燥にも似た感覚の中でそう思った。


「それを使うのは、キミの仕事ではないと言う事だろう」


 売り方は、自分の左肩の不自然さを見抜いた青年の、医師としてのセンスを認めていた。

 院長の意見と同じく、将来は立派な医師になるのだろうとも。

 しかも今は、この橙色の液体の危うさにまで感づいている。

 しかし、いや、だからこそ。


「そんな! 私はこれでも医師の端くれだと思っています」

「それでも、今回のこの件に関しては俺がすべき事なのだ」


 青年を押しのける様にして、点滴台の横に立つ売り方。


「このコックを捻れば、クスリが入っていくのだな?」

「そ、そうですが、ダメです! それは私が……!」


 踏み込んでくる青年の前側の足を踏みつけ、売り方は更に右腕で青年の肩を払った。


「あっ」


 人形が倒れる様に、青年は簡単に床に尻餅をついた。


「悪く思うな」


 コックを開く売り方。

 同時に、売り方の体に変化が起こった。

 それは、外見に関わるものではなく、売り方自身の感覚の変化。


「くっ、これは」


 橙色のクスリは、まだやっと少女の血管の中に入り始めた段階。

 しかし、売り方を襲った変化の速度には、圧倒的なものがあった。

 失われた左腕に、未だに感じる痛みや痒み。

 それらと同じレベルの感覚が、少女の体内に入って行っている実感という形で、売り方の脳に伝わってきているのだ。

 しかもそれは、売り方の何かを削りながら、少女の病魔を駆逐する予感に満ちたものだった。

 

 それは、今まで少女の病気の進行を見ているだけだった売り方にとって、非常に喜ばしい事だった。

 ただし、その事だけならば。


「う、くっ……」


 立ち上がる青年。

 その、売り方を見る目が、先程とはまるで別なものに変わっていた。


「あ、貴方は」


 それは、欠損するものの正体を表す様に。


「貴方は、誰ですか……?」



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