第32話 失われた相場譚

 

 病院の入り口。ドアを開けて立ち止まり、加速を最大限にして行く先の様子を伺う。

 3階で階段の近くからエレベーターホールに向かっているナースが一人居るだけで、階段自体には、最上階まで人の気配が無かった。


 通常の5倍程度まで加速し、昇天する竜の様に階段を駆け上る売り方。


 しかし、ここまで加速しても現実には時間が掛かっている。

 母の姿の仕事は一瞬だ。既に事は終わっているかもしれない。

 自分のしている事は無駄なのではないか?


 そこで、売り方は意識の一部を左腕に向けてみた。

 まだ病魔を駆逐している感覚がある。そして、自分の外殻が削り取られ続けている感覚も。

 それは、母の姿が未だ仕手を少女の体から抜き取れて居ない事を意味している。

 諦めるべきじゃない、と自分に喝を入れたのと、最上階に着いたのがほぼ同時だった。




 ノックも無しに、殴る様に少女の病室の引き戸を開け放った。


 室内には、数人の医師とナース、院長、鬼女が居り、その全員が倒れていた。

 そして、少女のベッドの上に覆いかぶさっている青年。


 少女は、変わらず点滴や機器に繋がれていたものの、その顔色は、もはや別人かと見まごうばかりに血色の良いものになっていた。これならば健常人だと言っても嘘にならない程に。

 ただ、その瞼は未だに開かれていなかったが。


 少女の安息な様を見て気が抜けたか、売り方の体を加速状態のツケが襲った。

 頭と言わず手足と言わず、全身を激痛が駆け抜ける。

 その場に膝を付く売り方、たまらず加速状態を解除した。


「死神め、この娘に手を出すな!」


 通常時間に戻った売り方の耳に、中空に浮かぶ母の姿に向かって上げる、青年の怒鳴り声が飛び込んできた。

 どうやら、青年は気を失っていない様だ。


「……時間という、ほどのものは、掛かりません、じゃなかっ、たのか?」


 息切れと共に、喘ぐ様に皮肉を言う売り方。


「なんだ、この不縹緻ふきりょうなザマは」


 売り方は必死に考えた。どうやれば母の姿を追い払えるのかを。

 それには先ず、現状を理解しなければならない。

 母の姿は、なぜ青年に手出しが出来ていないのか?


(貴方は、何故……?)


 普段と同じ無表情のままだったが、その声(?)には明らかに動揺の色が混じっていた。


(ああ、あのクルマですか。まったく付喪神つくもがみというものは)


 動揺をウンザリに替えて、言い放った。


「それより、良かったじゃ、ないか。アンタを見て、くれる人間、が居て」


 ニヤリとして。


「今度は、黒いマントで、大きな鎌を持った、ガイコツか」

(この青年ですか? 確かに私を認識して下さっていますが)


 少し、俯き加減になって。


(正しくは見てくれていない様です。それに、この方は、相場の世界にはそぐわない人物であるかと)


 どんな業種でも、極める才覚やその可能性を持った者ならば、その世界の神を認識出来るものなのかもしれない。

 そして、売り方も、青年を相場に深入りさせるべきではないと思っていたので、母の姿の逡巡が理解出来た。


「そうか、それは、残念、だったな」


 軋む体に鞭打って立ち上がる売り方。中空に浮かぶ母の姿に正対する。


(そうでもありません。私には貴方がいらっしゃいますから)


 俯いていた顔を上げて。


(それに、この方の意識を奪って短い時間の記憶を消し去る事など、睫毛に付いたホコリを取り去るのよりも易い事ですので)

「な、あなたはいったい……?」


 ここでやっと売り方に気づいた青年、ベッドの上から体を起こし、売り方の方を見た。


(御免)


 この機会を逃さじとするかの様に、母の姿は、素早い動作で片腕を横薙ぎに振った。

 すると、青年の体がフワリと持ち上がり、彼から僅かな溜息を出させた後に、床に寝かされた。

 そしてその瞼は、少女のそれと同じ様に、ごく自然に閉じられた。


「お見事だな。だが、何故それを俺にもしないんだ?」


 そうすれば、いちいち邪魔をされないで済むだろうに。

 売り方は素直にそう思った。


(私は、私を認識して下さる人が居てくれないと、この世界に留まる事が出来ないからです)

「それでは、俺が寝ている時はアンタも寝てるのか?」

(寝るという行為は不要ですが、意識が無いという意味では似た様な状態なのでしょう)


 言いながら、母の姿はベッドの傍らに降り立った。

 右の掌を、包布が被せられた少女の胸元の上に翳す。

 いよいよもって、仕手を取り出そうとしている、売り方にはそう見えた。


 確かに、自分の外殻はもう殆ど残っていない。その実感がある。つまり、仕手も充分に取り出せる状態になっているのだろう。

 それ故に。


「なるほどな……よし分かった、それでは受け渡しを始めようじゃないか」

(え、受け渡しとは?)


 売り方の唐突な申し出に、意表を突かれた形の母。


(昨日の代償取引の事ですか。お受け下さるのですか?)


 意味が理解出来たのか、ゆっくりとその表情が明るくなる。


「無論だ。さあ、あの蒼いバイオリンを出してくれ」


 売り方は気づいた。

 相場の神は、相場の外でも神の力を使えると。

 そして、神の力に対抗し得るのは、やはり神の力だけなのだと。


(分かりました。では……)


 母の姿は、少女の胸の上に翳していた右手を自分の頭上に上げた

 すると、昨日立会場で見た蒼いバイオリンが、再び売り方と母の姿の間の中空に現れた。

 昨日と変わらず、出番への期待感に満ち溢れている。


(さあ、それを掴んで下さい。そうすれば)


「掴む事は出来ない。何故なら」


 無い左腕を前方に突き出す売り方。病魔を駆逐する感覚が纏わり付く。


「それを腕にするのだからな!」


 蒼いバイオリンの、期待感に応える売り方。

 俺の左腕になれと!

 道具として、その使命を全うしろと!

 車に対してそうしたように、その念を眼前の中空に浮かぶバイオリンに叩き付けた。


(な、なんという事を……)


 唖然とする母の姿。

 その目の前で、蒼いバイオリンは売り方の場服の左肩に張り付き、その中に消えて行った。

 そして袖が膨らみ、その先からは半透明の左手が覗いた。


「……そう言えば、まもなく9時だな」


 壁時計を見ながら売り方は左腕を振り、右手で左手を握ってみた。

 本当の左腕と同じというわけには行かなかったが、それでも有ると無いとでは大違いだった。


 それに何より、この左腕は蒼いバイオリンの付喪神が変化したもの。体の疲れや痛みが一気に無くなった事からも、その力量に関しては本当の左腕の及ぶところではない。

 売り方は、その予感をひしと感じていた。


「そろそろ立会場に戻らなきゃいけないんじゃないのか?」


 そして、付喪神が憑く程に愛用した道具といえば、売り方にはもう一つあった。

 それは病室の隅にあった。

 売り方は、それを使う様をイメージした。強く。憑いているものが反応する様に。


 すると、病室の隅にあったバイオリンケースの蓋が勝手に開き、中のメイプルブラウンのバイオリンと弓が舞い上がり、売り方の両腕に収まった。


「たぶん、相場はアンタを待ってるぞ」


 演奏を始める売り方。

 曲目は、初めて出会った街角で演奏した、あの“日経225の即興曲アンプロンプチュ”。


 懸念された左手指の動きは、意外にも売り方の期待を超えるスムーズさだった。

 それはある意味当然の事かもしれなかった。何故なら、元がバイオリンだから。

 そもそも、バイオリンがバイオリンを演奏するのなら、その動きに無駄が無いのは当たり前な事なのだから。


(お、お止め下さい)


 あまりの展開に、動揺を隠し切れない風の、母の姿。


(そんな事をなさっても、何にもなりません、から)


 母の姿の動揺を見て、ザラ場を思い出させる事は有効だと判断した売り方は、更に演奏の、音の密度を増やす事にした。

 演奏を止め、未だ中空に残っていた蒼いバイオリン用の弓を、それまで使っていたメイプルブラウンのそれと共に掴む。


 壁時計を見る売り方。


「開場したな。相場の欠損とやらが出るんじゃないのか?」


 母の姿を煽る売り方。

 相場は、昨日まで売り方が散々上下を繰り返させていた。

 その為、週末の前寄りである今は、多くの手仕舞い注文が出されている事が想像出来た。

 欠損という名の取引上のアヤも数多く出るに違いない。


 母の姿もそれを察知したのか、顔色を変える。

 その当惑しきりな表情を見ながら、売り方は弓二本使いの演奏を開始した。


 売り方の人差し指は、普通の人間のそれよりも僅かに短かった。

 いや、その横の中指や薬指が長いと言うべきか。

 それは、弓を持つ時に特有の癖という形になって現れた。

 そしてそれは、特にE線を弾く際に顕著となった。


 今は、親指と人差し指でメイプルブラウンの弓を、中指・薬指・小指で蒼い弓を保持している。

 アンバランスを承知で技法を磨くという、長年の工夫と努力の積み重ねが、弓二本持ちという一見不可能に見える事を可能にしたのだ。


(そ、その弾き方は……)


 母の姿は、仕手を取り出す欲求と、相場へ復帰すべきという使命感、それに眼前で展開される奇跡の様なバイオリンの演奏を見続けたいという強烈な興味に、行動を決めかねている様だった。


 売り方は、その母の姿の様子を見て、一段と演奏の質を上げにかかった。

 通常の4倍にまで加速し、複雑な弓の持ち方を制御する。

 4本の弦を同時に弾く事が可能となり、緻密で且つ豊かな和音コードを発生させた。


(まさか、四重音奏法クォドルストップ!)


「相場の神よ、立会場に還れ!」


 言い放ち、演奏を進める売り方。

 付け焼刃の奏法だったが、半透明の左腕の助けもあり、すぐにモノに出来た。

 そして、曲に更なるアレンジを加える。それは、聴く者に相場の理を想起させる様に。


(ミスター・フィドラー、悪夢の売り方と呼ばれた相場師よ。悪夢を欲する者など居ないという事を……)


 言って、母の姿は少女の方に右手を伸ばす。

 しかし、それを見た売り方が一段と音量を上げる。

 すると母の姿の右腕が、まるで巨大な磁石に引かれる様に下がった。

 更には体全体が何かに引き摺られる様に後ずさった。

 音が、管理者たる相場の神に、本来の居場所への帰還を命じる波動となっているのだ。


「仮に俺が居なくなっても」


 春のパートを弾き終わり、曲は夏のパートへ。


「取引の電信化が進めば、各個人が今の俺と同じ様に相場に参加出来る様になるだろう」


 フラウタート(指板に近いところで弾く。音が柔らかくなる)で、問い掛ける様に。


「そうなれば、参加者も増えて、アンタを見る事ができる奴も出て来るに違いない。それまで……」

(それまで? それまで待てと仰るのですか?)


 徐々にベッドから引き離されながら、母の姿。

 機器の間を抜け、後ろにはもうカーテンしかない。


「待つだけで良い結果が得られるのなら、誰だってそうすべきだろ」


 売り方は感じていた。自分の外殻がもう殆ど残っていない事を。

 このまま行けば、あと2分とかからずに、その全てを失ってしまうだろう。

 そして少女は完治し、自分はこの世から居なくなる。


 つまり、売り方も待っているのだ。自分が自分の人生の終着点に到達するのを。

 バイオリンを弾きながら、気が付けば目の前に転がっていた、其処に着くのを。


(貴方は、本当に酷い人です)


 詰る母の姿。

 その姿が徐々に変化していく。

 そしてそれは、売り方の驚愕の中で、少女の姿になった。

 売り方が最後に買い与えたスカートとブラウス、ニットを着けている。


(貴方が逝ってしまった後、残された者はどう思うでしょうか?)


 哀切を訴える表情になる、少女の姿。


(タダより高いものは無いと言いますでしょう。無償の愛というものは、無償であるが故に無限の重さを持つのですよ)

「……姿形は、自分では変えられないんじゃなかったのか?」


 動揺しながら、売り方。

 少女の姿で言われるには、その内容は重くキツいものだった。


(残された者は、きっと悪態をつくでしょう。そしてそれは呪いに変わります)


 売り方の演奏が弱くなった。

 それによって、少女の姿は体の自由をある程度回復する。


(貴方は、死して尚、呪われ続ける事になるのですよ!?)

「聞こえるのなら何でも良いさ」


 曲は夏を過ぎ秋から冬のパートへ。

 売り方は、少女の姿の動きを見て、演奏に力を入れ直す。


「悪態なんかは寧ろ、相場師にとっては賛辞に等しいからな」


 外殻は、たぶんあと30秒ほどで!


(……そうですか、それは残念です)


 そう言って少女の姿は、中空からあのチェロを取り出す。

 そして無造作に、弦の上に弓を走らせた。


「な、なにっ!?」


 売り方の目の前で、弦が飛び、板が粉々に砕け散るメイプルブラウンのバイオリン。


 少女の姿は、瞬時に、売り方の演奏の音にチェロの音を乗せたのだ。

 それは、タイミングは同じで周波数が違うもの。

 その周波数の違い(差分)の高調波が生まれ、バイオリンの中で発振・増幅する。

 そして、チェロから音の波という名のエネルギーが与えられ続け、強烈な衝撃波となって、バイオリン全体を破壊したのだ。


 衝撃波の力は、同時に売り方の体にも及んだ。

 それにさらされた売り方は、部屋の端(建物の端側)の壁にまで飛ばされてしまう。

 しとどに打ち付ける背中と腰、その痛みが売り方の意識を一瞬とばした。


 その瞬間、主の危機と見たか、バイオリンケースが売り方の前に飛んで来た。

 それはまるで、自らが壁となって敵の攻撃から主を守ろうとするかの様に。


(小賢しい)


 少女の姿は、持っていたチェロと弓を消し去り、軽く左腕を振る。

 それで、たったそれだけで、バイオリンケースもあっけなく壊されてしまった。


「あぁ……」


 壁にもたれて座り込み、完全に破壊された母の魂に愕然とする売り方。

 しかし、あと数秒で本懐を達成出来る。

 だが、その売り方の最後の希望も、少女の姿の次の行動で砕かれてしまった。


(取引の最中の物を、勝手に使用するのは感心しませんね)


 少女の姿は、神の時間にしたのだ。

 ほぼ時間が止まったに等しい状態。これでは、数秒後など永遠の先と同じだ。

 加えて、売り方の左腕に変化していた蒼いバイオリンを、売り方から引き離し、元の姿に戻してしまう。


(この取引は、凍結させて頂きます)


 そしてバイオリンを一旦中空に浮かべ、消し去った。


(ご本意に沿える様に努めてきたつもりでしたが、もう限界です)


 少女の姿に圧倒される売り方。

 しかし、外殻が無くなるというのはそういう事なのだろうか? その身じろぎの最中に、売り方は自分が神の時間の中で動ける事に気付いた。


(貴方には、寿命が来るその日まで私の相手をして頂きます。どうか悪しからず御了承下さい)


 それは、生身の相場師にとっては、煉獄に住まうのと同義だった。

 恐るべき相場の神の宣託。


「そうか……」


 足元に散らばった、バイオリンケースの中にあったものを見ながら。


「それなら、仕方が無いか」


 売り方を立ち上がらせようとしたのか、少女の姿が売り方に歩み寄り、右手を差し出す。

 しかし売り方は、その手を無視して言った。

 “相場の神よ、我が取引に応じよ”と。


 もう売れるものは持っていなかった筈。少女の姿はそう訝しみながらも、売り方の取引を受けた。

 幾らでもどうぞ、どんなものでもすぐに、10倍・100倍に買い上げて見せましょうと。


 売り方はニヤリとすると、足元に落ちていたものの中から一枚の証券を取り上げ、少女の姿に渡した。

 これを売ろう、と。


 左手で、それを受け取る少女の姿。

 そして、右手を頭上に掲げ、天井に向かって人差し指で円を描いた。

 すると、立会場で見せたものと同じ蒼い穴が天井に開いた。


 その穴に吸い込ませる様に、証券を放つ。

 そして指をパチンと鳴らした。

 普通なら、これで証券の価格は10倍100倍になって、蒼い穴に吸い込まれていくのだろう。

 だが、その証券はそうならず、ただ、床に落ちるだけだった。

 少女の姿は、小首を傾げながら、数度同じ事をした。

 しかし、その結果は全て同じだった。


 そして、少女の姿はようやく証券を見直した。

 それは、売り方がお守り代わりに持っていた、倒産株だった。


 驚愕に目を見開く、少女の姿。

 価格が1円でも付いていれば、少女の姿の思惑通りになっていただろう。

 だがこれは倒産株。即ち0円。

 0に何を掛けても、幾ら掛けても0でしかない。

 いみじくも、少女の姿である相場の神が言った通り、タダより高いものは無いのだ。


 恐らくは、相場の神としての役目上、一旦受けた取引を自分の都合では解除出来ないのだろう。

 少女の姿は、慌てた様子で中空を四角く切り裂いた。

 するとそこは、時空が繋がったのか、立会場を見る窓になった。

 そこへ倒産株を投げ入れる少女の姿。

 そして、神の時間を解除した。


 価格がゼロの銘柄に新たに値段を付けるには、現実時間の立会場で処理するしかないのだろう。

 青年や鬼女達が倒れている中、その窓と売り方を交互に見ながら、間に合わない事を知って愕然とする少女の姿。


 売り方は、薄れ行く意識の中でその様を愉快だと思った。

 自分は(騙し討ちながら)相場の神に勝利したのだと。

 自分をこの世に押し留めようとするその手を振り切って、最後まで我を通し切れたのだと。


 そしてその確信は、直後に現実のものとなった。



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