第27話 代償取引

 

「違法だと? それは、どの“法”に対してだ?」


 戸惑う売り方。証取も東証の役員も、違法性に関しては言及していなかった。

 そもそも何に対しての違反だと言うのか。


(いわゆる自然法です)


 陰鬱に、売り方から視線を外して話す黒い影。


「では、俺が人の道から外れる様な事をしたとでも言うのか」

(それに近い事です。貴方は、板の上で値を寄せる人の、その心を操りました)

「実栄か。そんな事をしたつもりは全く無いが」


 確かに、通常とは違う形での注文出しにはなっていた。

 しかしそれは、ただ単に速度が速かったというだけのものであり、黒い影がいう様な倫理に関わる様な事ではなかった筈。

 売り方は、影の思い違いではないかと訝った。


(つもりの有無は関係無く、結果が全てです。貴方は、相場に於いて最もしてはいけない事をしたのです)


 影の視線は更に下げられた。

 それはまるで、自分の嘘を自覚しているかの様に。


「結果が全てなら、優先されるべきは勝負の結果だろう」


 影の真意を読めない売り方、とりあえず話を元に戻そうとする。


「まさか、負けを認めたくないのか?」


 故意に煽る様な事を言う売り方。

 しかし、影はそれを無視して続けた。


(人が瞬きをする間に行なう注文出し、それはフラッシュトレードとでも申しましょうか。それで通された注文の結果がこの状況です)


 影は、右の手の平で、カウンターの辺りを指し示す。


 売り方は、影の右手が示す先を見た。

 そこには、影が更に場を加速させたのか、周囲の場立ちや連絡員達の心の声が鳴り響いていた。


(嘘だろ、こんな大損)

(また、客に自殺者が出る)

(どうする、どうすればこのマイナスを……)

(クソ、なんでこうなるんだ!?)

(誰だ、誰が売りぬけやがったんだ、畜生が!)


 それらは、後悔や怨嗟、負の感情。立会い場に渦巻いている。

 相場に不慣れな者がその場に立てば、確実に鬱になりそうなものが。


「こんなもの、相場では当たり前だろうが。損する奴も出る。俺の責任ではないぞ」

 売り方は、当たり前な事を言ったつもりだった。


(貴方は、私との勝負に勝てれば良かった。それは、例え1円のプラスでも良かったのです)


 売り方を無視する影は、もういっそ床に向かって話している様に見えた。


(しかし貴方は見送った。能力を持ってすれば非常に容易な、儲けの幅を小さくする手仕舞いを)

「単に損少利大で、売買の基本だ。相場で儲けて何が悪い?」


 損が出ている建て玉は極力早めに切り、利が乗っている玉は出来るだけ伸ばす。

 売り方が言った通り、相場では基本中の基本な心構えだ。


(そして、莫大なカネと名声を手にした貴方には)


 影は、まるで売り方が居ないかの様に続けた。


(何らかの懲罰が与えられるべきです)


 言い終わると、影はおもむろに両腕を真横に開いた。

 相対する売り方を、周囲の空間ごと固めてしまおうとする様に見える。


「な!? ちょっと待て」


 一方的な影の物言いに、動揺する売り方。


 そもそもこの加速状態では、売り方が望んでも自身の体は動かせなかった。

 その上で尚、影は売り方を拘束しようとしている。懲罰という言葉と共に。


(此処は立会場。違法が行なわれたのは、取引上での事。ならば、懲罰もそれらに則ったものになるべきと)


 変わらずに、売り方に視線を合わせずに訥々とつとつと語る黒い影。

 それはまるで、舞台の上で台詞を棒読みする、稽古中の役者の様でもあった。


(それ故に、貴方は私と、代償取引を行なわなければなりません)


 そこまで言って、影はやっとその顔を上げた。


(価値の違うものの売買を)


 言いたくなかった事を、やっと言い切ったという風で。


「代償売買だと? つまり物々交換と言う事か」

(そうです。そして売買の後、貴方の売り物の価値を貴方が買い戻せないほどに上げてしまいます)


 やっと売り方の問いかけに応じる、黒い影。

 しかしその態度には、未だに煮え切らないものが感じられた。

 それは、言っている事の裏側に有る真意に気づかせようとしている様に。


「そうか、そう言う事か。それなら」


 売り方は、ここに来てやっと影の意向を理解した。それはつまり、売り方の希望する取引を受けるという事なのだと。


「俺のバイオリンを売ろうじゃないか」


 黒い影は、何故かは不明だが、売り方との直接の取引が出来ない事情が有るようだった。

 それでも取引に応じる為に、事情を回避する状況を作り出す必要があったのだろう。

 影にとって、勝負の結果はどうでもよかった。

 神と呼ばれる存在ならば、一人の相場師の売買を粉砕する事など造作も無い筈だったから。

 寧ろ、それをせずに状況を傍観した事こそが、その証明にもなると。

 売り方は、そう考えた。


(言った筈です、これは懲罰であると。そして貴方は、今現在は取引出来るものを何一つ持ってはいない。それ故に――)


 拡げられた影の両腕。その右腕が振り下ろされ、同時に売り方の左肩に光の輪が発生した。


「う……!?」


 それは正に神の御業であっただろう。

 売り方の左腕、左肩から先が、服の袖ごと一瞬の内に消滅したのだ。


「ぐわああああああっ!!」


 光の輪も、左腕と同時に消え去った。

 次には肩から血飛沫が出るか。売り方はそう思った。

 だが彼の目には、左足と左わき腹、それに立会場の床が映っているだけだ。。

 出血の感覚すらない。

 売り方には、その事自体が異様なものに感じられた。


(い、痛くはない筈ですが)


 何故かうろたえた様な物言いに変わる、黒い影。

 同時に、その姿が何か別なものに変わり始めた。


「ああっ、クソ……」


 つい今しがたまで肩の先に有った左腕が、急に消えて無くなる。

 影が言った通り、売り方は痛みそのものは感じていなかった。

 だが、売り方の体はそうではなかった。


 いままで送受されていた血液、それに伴なう心臓の吐出量。それが問答無用で変更され、しかも左腕の末端の神経が伝えてきていた信号も無くなり、それらを統括する脊髄や小脳が一斉に違和感を訴えてきたのだ。

 売り方はその悪寒に蒼ざめ、床に両膝をついた。


(顔を上げ、こちらをご覧下さい)


 それは異様な光景だった。

 影と売り方の間、高さ1メートルあたりの中空に忽然と現れたモノ。

 専用と思しき弓が添えられた、一挺の弦楽器。


(そこに浮かんでいるモノを掴めば、取引は成立します)


 例えるなら、大海原の青。

 いや、満月の夜の空の蒼か。

 見る者の目を引き込む様な深みと艶を持つそれは、悪夢の売り方の二つ名を持つ者の片腕、その代償に相応しい、漆黒とミッドナイトブルーに彩られたバイオリン。


 今まさに演奏者の手で奏でられるその瞬間かと、予感に打ち震えるていで空中にあった。


「な、なんてこった……」


 顔を上げた売り方。

 この状況は彼に、自身の幼かった頃の事を記憶の底から引き上げさせた。

 それは、変わり始めた影の姿も関係して。


(今この場では、体を動かせる様にしてあります。さあ、掴んで下さい)


 古い病院の大部屋、月の明るい深夜。

 患者が一人しか居ない、大部屋の開け放たれた窓。

 その窓枠に腰掛ける、黒いスーツに身を包んだ、この世に在らざる者。

 ソレは、一人だけの患者―妙齢の女性―に話しかける。


「だめだ、それは……」


 男の問い掛けに答える女性。長く艶やかな黒髪を首の後ろで束ねている。

 疑念の欠片も無いかの様な、ゆったりとした首肯。

 そして中空に浮かぶ、メイプルブラウンのバイオリン。

 それを掴もうと手を伸ばす女性、何故か右腕だけを。


「掴んでは、いけないモノだ」


 売り方の記憶は、甦り繋がる事によって、彼自身が持っていた疑問を解消して見せた。

 即ち、売り方の父親は戦後の不況からどうやって工場の回転資金を得たのか。

 また、どうやってその借金を返済したのか。

 更に、父親は何故自分にバイオリンを与えたのか。

 そして、自分の持つ母親の記憶は何故途中で切断されているのか。


(貴方が売る事に拘ったバイオリン、それは貴方の左腕と言ってもいいものでしょう。ですが、私はその由来を知っています。到底売買に応じられるものではありません。故に、私は貴方の左腕そのものを――)


 呟く売り方を見下ろす、黒い影だった者。

 姿の変化を完了させた。

 白っぽい簡素な着物に、長い黒髪を首の後ろで束ねている女性。床から1メートルほどの高さに浮かび上がる。

 その姿形は、売り方の記憶の中に有る、若くして死んだ母親そのものだった。


「知っている、だと? 他人事ひとごとみたいに、っく……」


 悪態を吐こうとする売り方。しかし、未だ全身をさいなむおぞましさがそれを阻んだ。


 売り方には見えたのだ、バイオリンの由来が。

 死期が近い事を悟った母親は、命の有る内に夫と息子の為に何かを残そうとした。

 それは、恐らくはカネを生むもの。

 何らかの方法でこの世に在らざる存在との邂逅を果たした母親は、自身の体の一部をその存在に売りつけたのだろう。

 そして手にしたのが、いま売り方が所有しているメイプルブラウンのバイオリン。


「それは、オマエが売りつけたのだろう」


 おぞましさの中、やっとの思いで言葉を紡ぐ売り方。


「俺の、母親の左腕と交換で!」


 父親は、妻の形見にあたるものを売りに出す気にはならなかっただろう。

 しかし、先立つものが無ければ工場は回せない。

 そこで、借金の抵当として銀行若しくは金貸しに預けたに違いない。

 恐らくは、莫大な金額のカネを借りられただろう。


(私は、相場の中に居る者です)


 そして、自身の腕の良さもあって、工場の経営は安定、借金も返済出来たのだろう。知り合いの別荘を借りられる程度には、余裕も出来たのだろう。

 そこへ、息子が才能の片鱗を示す。

 父親は、妻の形見を借金の抵当という役目から外し息子に与えた、と。


(相場に関係無いその取引には、関与しておりません)


 売り方は、何故かその取引の様子を知っていた。

 それは、幼児がまま持つ神性のいたずらか。

 そして、母親に関する唯一の記憶だった見舞いの場面は、その後の出来事だったのだろう。

 しかし、母親の体からは、左腕が失われていた。

 売り方は、その事に衝撃を受け、無意識の内にその記憶を排除していたのだ。


「ふざけるな、そんな姿形をしておきながらっ……」


 死んだ母親の姿形をした者が、自分の左腕を奪う。

 あまつさえ、自分は関係無いと言い張る。

 その上で、懲罰的な取引を受けろと詰め寄る。

 売り方の憤りは尤もな話だった。

 だが、未だに体は悪寒の中にあり、それに耐えるので精一杯だった。


(辛いのですか? もしそうなら、そんな事を続ける必要は無いのですよ?)


 母親の姿は、自分の左腕を軽く上下に振って見せる。

 と同時に、青いバイオリンの隣に、服の袖付きの腕が現れた。

 それは間違いなく、奪われた筈の売り方の左腕。


(納得は行かないかもしれませんが、この左腕を掴めば、腕は元に戻り、勝負自体も無かった事になります)


 最初は青いバイオリンの真横にあった左腕は、僅かながら売り方の方にその位置を変えた。

 まるで、こちらを掴めと言わんばかりに。


(ミスター・フィドラー、稀代の相場師よ。貴方が掴むのは謝罪の証のフィドルか、または相場からの逃避を意味する、過去の自分の体なのか)


「そ、それは……」


 左腕を奪ったのは、選択を迫るという事に於いて、もっともシンプルで且つ効果的な方法だったのだと。

 売り方は痛烈に理解した。

 宙に浮かぶ、左腕と青いバイオリン。片手ではその両方は掴めない。それに加えて。


「両方とも、断るっ……!」


 売り方の右手には、既に別なもの―あの楽譜―が握られていたのだから。



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