第26話 三役反転

 

「……今後は控えて頂きたい」


 売り方は現実の世界に戻ってきた。

 影が消えたのは、加速状態から離れたからと判断した為だ。


「ん? ああそうだな、善処する」


 時計を見ながら、気に留めていなかった東証の役員に向かって適当な返答をする。

 時間の経過は殆ど無いと言っていいものだった。


 だが、妙な疲れを感じる。

 それは役員に返答した瞬間から、売り方の体を襲った。

 影から誘われる形と、自発的に加速状態に入り込むのでは違いが有るのだろうか。

 売り方は、ブースの椅子に座り込んでしまった。


「いえ、そんな気にされなくとも……」


 ブースのテーブルに肘をつき、頭を抱える売り方に驚く役員。


「じ、持病の癪だ、気にするな。それより」


 刺す様な頭痛に襲われる売り方。その中で、加速状態は極力控えるべきだと思った。頻繁に行なっては体が保たない。


「証取の居る方に行かなくて良いのか?」

「あっちも、貴方の発注が元でしょう。そもそも癪というのは」


 そこへ、売り方のブースに近いカウンターの辺りから、笛の音と大きな歓声が沸き起こる。

 売り方が注文を出した銘柄に、大量の買いが入ったのだ。

 それで話の腰を折られた役員は、もう大した内容も残っていなかったのか、軽く挙手してそのカウンターの方へ歩み去った。


 売り方は、役員を排除してくれたその買いに感謝した。

 だが、売り方の出した注文も約定しており、恐らくは笛の後の板寄せにより、かなりの価格上昇を見せるだろう。

 だが売り方は、注文を出した場立ちと実栄達が織り成すその鉄火場を見る事は出来なかった。

 今までに経験した事の無い、鋭利な頭痛がそれを許さなかったからだ。


 …………


 しばらくして、場電が着信を報せる。

 ノロノロとインカムを掴み、装着する売り方。


『今、どうなってる?』


 山師だった。声が高揚している。


「……凄い買いが入った」


 やっとの思いで、それだけを搾り出す売り方。


『ああ、やっぱりな。いやな、国債先物の板が一斉に薄くなったらしいから、何か起きてるのかと思ってな』

「そうか」


 言いながら売り方は、頭痛が少し引いている事に気付いた。


『で、そっちは現状どうよ?』

「ん、まあ……」


 時計を見る。14時20分。売り方は、15分程テーブルに突っ伏していた。

 株価の電光掲示板を見る。売り方が注文を出した銘柄群は、約定した時点から3%ほどの急上昇をしていた。


「まあ、ボチボチだ」

『ボチボチって何だよ。まあ、詳しいところは場が引けてから聞くか。こっちはかなり儲かったぞ。さっき今日の前場の結果が出たんだが』

「そうか。じゃあ後でな」


 従業員の方が気になる売り方、早急に場電を切ろうとする。

 だが、その視界の端を黒い影が横切る。

 それは賑わうカウンターを通り過ぎ、他社のブースの在る所に行った。

 位置は、カウンターを挟んで売り方のブースの真向かいだ。


『おい、ちょっと待てよ。何を急いでるんだ?』

「どうやら、国債先物からのカネは、今からこっちに入りそうだからさ」


 言いながら、従業員のカウンターの方を見る売り方。


『何故それが分かるんだ? じゃあ、今そっちに入ってるのは何処からのカネなんだ?』

「早起きの欧州筋だろ。間違いは無い筈だ」


 従業員のカウンターから、従業員が駆け寄ってくるのが見える。

 売り方は、いよいよ場電を切る必要に迫られた。


「スマンが、詳しい話はまた後でな」

『いや、待てって』


 山師の声が聞こえていたが、売り方はそれを無視する形で場電を切った。


「社長から何か?」


 ブースに着いた従業員。向こうからも売り方の様子を見ていた様だった。

 それはつまり、目先の売買は終えていた事を意味している。


「いや、特には。国債で大儲けしてウハウハだって事くらいか。それよりも」


 未だ残る頭痛を堪えながら、売り方はテーブルの傍らに居る従業員に向かって言った。


「そっちの玉はどうなった? 損切りをし終えたのか?」

「はい、つい先程」


 従業員は、青い数字が追記された注文票を取り出した。

 株式売買の場合、青色は損を確定させたという意味になる。

 (因みに、利益が出た場合は赤色)


「見せてくれ」


 注文票を受け取り、内容を確認する売り方。


 それら15枚の内容を総合すると、概ね1.2%ほどの損に納められていた。

 買いが入ってきてからは一気に+2.5%まで跳ね上がったのだ。それを焦らずに利益確定の売りが出るまで辛抱したこの結果は、上出来の部類に入るものだった。


「よし、よくやった」


 注文票を従業員に返す。


「それより、そちらの方は如何ですか? 顔色が優れないようですが」


 褒められる事に慣れていないのか、若しくは損を出した事を褒められるのに違和感を持った所為なのか、照れ隠しの様に売り方の売買を気にする従業員。


「ん? ああ。注文が約定して、それっきりだ」


 従業員の売買が思ったよりも上手く行っていたので、安心する売り方。

 それで無意識に視線を横にずらす。そこは向かいのブースが在る方向だ。


「何ですって!?」


 売り方の暢気な返答に驚く従業員。


「てっきり、あの手の早さで利が乗っている内に買い戻したと思ってましたが」

「いや……手仕舞いはしていない」


 向かいのブースに、蠢く一体の黒い影。

 周囲の連絡員や場立ちは、それに誰一人気付いていない様だった。


「し、しなくていいんですか!?」

「良いって事はないが」


 黒い影を目で追いながら、売り方。

 影は、近くに有った空き椅子の上に堂々と腰を下ろした。

 それでも周囲の人間は気付かない。


「じゃあ、しましょうよ手仕舞い! このままじゃ損が膨らむだけで」


 従業員は、売り方の視線を追いかけて言った。

 向かいのブースの更に後ろの壁には電光掲示板。そこには、売り方が注文を出した銘柄群が並んでいる。

 従業員は、売り方がそこを見ていると思ったのだ。


 従業員の焦りは、もっともな話だった。

 現在は、買いが一段落して、+2%前後。損を切るのなら今しかない。

 だが、肝心の売り方は、青ざめた顔で電光掲示板を見たままだ。

 誰の目にも、売り方の体調急変は明らかだった。


「では、私が代わりに!」


 従業員が、思い余った様に言う。


「いや、こっちはな」


 そこで、言葉を切る売り方。

 向かいのブースの黒い影が動きを見せたからだ。


 何処かから、例のバロックレプリカのチェロを取り出す。

 そして、射手がライフルに頬を寄せる様に、半身をチェロへ寄せた。

 弓も持っている。完全に演奏する体勢だ。

 アレが演奏されるという事は、つまり――


「ああいやスマン、手仕舞いを頼もう。但し」


 向かいのブースとの間に在るカウンター。

 そこに居る、東証の役員と目が合ったのだ。

 今回の様に、大きな額を引けに成りで手仕舞うのはマズい。

 少なくとも役員や証取達は、そういう無茶な売買は止めろと言ってるのだから。


「14時50分までの間に、分割してユックリとだ」


 それで、そういう指示になった。


「ゆっくりなんて、そんな悠長な」

「お上が五月蝿いのさ」


 椅子から立ち上がり、場服のポケットから注文票を取り出す売り方。

 そこへ、黒い影の演奏するチェロの音色が辺りに満ちてきた。


「おう、これは間もなく次の買いが入るぞ」


 上を見上げて、売り方が言う。

 立会場の天井辺りから、例の楽譜が舞い降りてき始めたのだ。


 普通の人間には見えない、謎の楽譜。

 それは、いつもの様にカウンター内部の板やそれを管理する実栄、場立ち、連絡員、東証の職員に至るまで、全てのものに吸い込まれて行き、僅か十数秒で相場を買い上げる方向へ加速させた。


「まさか、これから更になんて」


 と言いながらも、周囲の雰囲気の変わり具合に驚きを隠さない従業員。


 そこへ、奥のブースから、目の色を変えた場立ちが従業員の背後を駆け抜けた。

 黒い影に煽られた所為で新規の注文が入ったのか、兎に角その場立ちの肩が従業員の背中に当たり、従業員は売り方の方に倒れ掛かってきた。


「おっと」


 咄嗟に従業員の両肩を支える売り方。

 それで、手に持っていた注文票の数枚が床に舞った。


「クソ、なんだコラ!」


 カウンターに走り去る場立ちに悪態を吐く従業員。

 そのカウンターには、その他の場立ち達が再び集まり始めている。


「あ、スンマセン、拾います……?」


 従業員は何故か、妙に納得の行かない表情になった。


 注文票を拾い、それを見せながら簡単な指示を従業員に与える。


「何か分からない事があるのか?」


 売り方は、いま一つな表情の従業員に問い掛けた。


「いえ、分からない事は無いのですが、ただ……」

「なんだ、気になるな。言えよ」


 催促する売り方。

 話の流れから、従業員が無意識の内に先見をしようとしていた様に見えた。

 それに興味が有ったし、その上、売り方自身も妙な違和感を覚えたからだ。


「いえ、変な話なんですが、貴方に両腕が有る事に不思議な感じがして」

「何だそれ? 俺が片端かたわだって言うのか?」


 藪から棒な話だった。

 だが売り方には、何故か意外さを感じられなかった。

 寧ろ、図星を突かれた様な感覚すらあった。


「いえっ、決してそうじゃなく、ただ何か妙な感じがしたってだけで」

「変な奴だな。まあいい、基本はさっき言った通りだ。手仕舞いしてくれ」


 当惑しながらも、売り方。

 先ずは目先の売買を決着させなくてはならない状況だ。


「わ、分かりました。残り15銘柄、注文票の内容通りに手仕舞いを行ないます」

「よし行け」


 従業員をカウンターへ送り出す売り方、とりあえずブースの椅子に座る。

 時計を見る。14時31分。

 あと20分ほどの間に、15銘柄を全て手仕舞い。従業員なら不可能ではないだろう。応援者も居る。

 ただ、影によるチェロの演奏と、楽譜の乱舞は未だ終わっていない。売り方は、それが気になった。


 従業員は、離れた位置に在るカウンターで板を監視している、応援の営業マン達を大声で呼び寄せた。

 駆け足で従業員の元にやって来る二人。そのうちの一人が何かを上着のポケットから取り出す。

 どうやら関数電卓のようだ。

 それを見た従業員が、そんなものに頼るヒマなんか無いぞ、と怒鳴りつけている。


 そんなやりとりが行なわれているカウンターの向こう、向かいのブースでは、未だに影がチェロの演奏を行っていた。

 彼は、どうやら更に相場を押し上げるつもりの様だった。


 実際に、売り方が注文を出した銘柄群は、売り方の注文が約定してから、既に+5%余りの上昇となっている。

 売り方の注文分も、従業員のものと同じく約5000億円分だった。つまり、250億円分の損がこの時点では出ている。

 従業員の分(1.2%=60億円)と合わせると、実に310億円分となる。

 それでも尚、影は手を緩めようとしてはいなかった。


 その様子を見ながら、売り方は、先程の違和感について考えていた。

 従業員は、自分に両腕が揃っている事に疑問を持った様だった。

 そして自分は、それについて全く違和感を持たなかった。

 持たなかった事に気付いてゾッとした、というのが本当のところだった。

 自分は、どちらかの腕が無いのが当たり前なのか? ――バカな。


 テーブルの下を覗き込む売り方。そこにはバイオリンケースが有る。

 もし自分に片腕が無いのだとしたら、このバイオリンを弾いてきた自分は一体何だ?

 辛い時も楽しい時も、ずっと一緒にあったバイオリン。

 この、自分の片腕と言っても良いものが、現実には存在しないのだとしたら、確かに自分は隻腕なのかもしれない。だがしかし――


 売り方は、自分が変な思考の迷宮に入り込んでいる事に気付いた。


 頭を振って、変な考えを追い出そうとする売り方。

 今はザラ場の真っ最中だぞ、それも相場の神と思しき黒い影との勝負だ。

 しかも総額一兆円ほどの売買の。

 他所事を考えている場合ではない。


 そう考えている売り方の目の前を、例の楽譜が舞い降りてくる。

 反射的に手を伸ばして掴む。

 いや、掴んだかに見えた楽譜は、以前と同じ様に売り方の手をすり抜けてしまった。

 そして、それは隣のブースの連絡員の肩辺りに吸い込まれていった。


 売り方は、その様を見て、まあそうだろうなと言って溜息を吐いた。

 影が言った通り、自分のカネでの売買でないと、この楽譜を手にすることは出来ないのだろう。


 そう思う売り方の横で、隣の連絡員が自社の場立ちに買いの手サインを出す。

 それは追加注文の様だったが、電光掲示板は、何故か下げに転換した事を示していた。

 売り方は時計を見る。14時45分。

 そして、カウンターの前を見る。従業員達が手仕舞いの注文を出している。

 順調そうで、売り方の出番は無さそうだった。


 カウンターの向こう、チェロの演奏に余念の無い黒い影が居るブース。

 それと自分の居るブースは、カウンターの列という名の川を挟んだ対岸の様に思えた。

 まるで彼岸ひがん此岸しがん

 どちらがこの世で、どちらがあの世か?


 決着がつくまでは、どちらも同じか。

 そうして売り方は、先程と同じ事を呟いてまた溜息を吐いた。


 14時50分。従業員達が売り方のブースに戻ってきた。


「残り15銘柄の手仕舞いが完了しました」


 紅潮した顔で、従業員。

 他の二人は、青い顔で、肩で息をしている。


「おつかれさん、よくやったぞ」


 三人を労う売り方。


「幾らで約定したか、注文票を見せてくれ」


 それで、従業員が売り方に差し出そうとした注文票の束を、横から変に派手なスーツの袖が奪い取った。


「……結局、ただのロングショートだったのか!」


 証取だった。驚きに目を見開いている。

 注文票には赤色の数字が追記されていた。


 ロングショートとは、マーケットニュートラルとも言い、相場手法のごく初歩的なものの事である。

 無論、正当な売買の形式だ。

 同業種内で、上がり過ぎていると見た銘柄には売りを、下げ過ぎていると思った銘柄には買いを入れる事によって、相場全体がどちらに動こうとも、儲けを出す事が可能となる。

 但し、その場合には、相場と逆方向になった建て玉を、極力早く切る事が必要となるが。

 今回の場合は、影がどちらか一方にしか相場を操れない事を逆手に取った形だ。


 売り方の、自分の注文分は全て買い玉だった。

 電光掲示板は、この時点で+2%前後の値を示している。つまり、売り方の注文分の売り手仕舞いによって、かなり下げたのだ。


「よこせ」


 証取から注文票を奪い返す売り方。

 内容を確認。どうやら、平均+2.5%で売り手仕舞いと成った様だった。

 つまり、従業員の売り損切り分1.2%を引いても、+1.3%は儲けで、それは65億円となる。


「大した儲けではない」


 証取に向かって言う売り方。


「だいいち、違法行為なんか無かっただろう?」


 何かを言い返そうとして、それでも言葉に詰まる証取。

 その間に東証の役員が割って入る。


「いや、素晴らしい。今日の事は相場譚となって後世に語り継がれて……」

「よせよ、そんなつもりじゃない」


 役員の胸を押す売り方。


「そちらの人を連れて行ってくれ」


 証取を指差して言った。


 結局、役員はブツブツ言う証取を宥めながら、共に立会場から出て行った。

 もう、売り方が今日のザラ場で売買する事は無いのは明らかだったからだ。

 だが売り方にとっては、これからが正念場。


 時計を見る売り方。14時54分。

 気がつけば、既に黒い影の姿は無く、楽譜も一枚も舞っていなかった。

 そして、自分の体調も殆ど元に戻っていることに気付く。

 例の楽譜が、何らかの好影響を与えたのかもしれなかった。


 注文票を従業員に戻し、大引けまで一息入れろと告げる。

 そして、一昨日と同じ様に、立会い場内の、テラスの下辺りに移動した。

 その辺りは、この日も人が居なかった。


 影が居たブースの方を見て、独り言の様に言う売り方。


「俺の勝ちだな」


 その瞬間、周囲の風景がセピア色のそれに変わる。

 そして現れる黒い影。

 その様子は、勝負を始める前と同じ様に、いや、あの時よりも更に陰鬱の度合いが高くなっている。

 売り方は、それが元々畏怖すべき存在だという事を思い出し、今更ながらに緊張した。



(いいえ、残念ながら貴方のそれは違法行為であり、結果は無効です)



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