第25話 桐一葉
「無茶だと? 正当な注文だろうが……」
聞き覚えのある声。売り方は、隣のブースから発せられたその声を初老のものだと思った。それは間違いではなかったが。
「オマエは?」
急速にセピア色に染まる周囲。その中、売り方の座るブースの横に立つその姿は、黒く薄ぼんやりとした人の影。
(一昨日、貴方から取引を持ち掛けられた者です、ミスター・フィドラー)
右腕を胸の辺りに当てて、お辞儀をしてみせる黒い影。
「……今日はやけに顔色が悪い様だが、風邪でもひいたのか?」
売り方は
なぜ今日に限って、いつもの初老の姿ではないのか?
更に、何故か声が出せない。だが意思の疎通は出来ている。
(風邪などは)
売り方の冗談めかした問い掛けに、肩を竦めて直言で返す。
(それよりも、まさか貴方がこんなにあっさりと
「周りからも散々言われてるんだが、俺はそんな風に思ってはいないぞ」
従業員の方から影の方へ向き直ろうとする売り方。
しかし、何故か動けない。まるで体全体が砂の中に埋められたかの様に、身動きがとれなくなっていた。
(今の私を認識されている事が、その証です)
影は、売り方に向かって両手を突き出した。
(無理に動こうとしない方が良いです。今は私と同じ時間の中にいらっしゃいますので)
「む……どういう事だ?」
首から上だけを影に向けている売り方、首から下を、影に正対させる事を諦める。
気がつくと、瞬きすら容易ではなくなっていた。
(もの凄く短い時間の中だという事です。無理に動けば、簡単に音速を超えて酷い事になります)
そう言って、後ろを向く黒い影。そこには他社の場立ちや連絡員が居る。
(ご覧の通り、周囲の方々は殆ど動かれていないでしょう。逆に言いますと、今の貴方の頭の回転が極端に早くなっているのです)
「では、もう少しノンビリ構えれば、オマエの姿も一昨日までの様に見えるのか?」
売り方は、一昨日までの、初老が現れた時の状況を思い出した。
それは、背景がコマ送りの様に動いていた。
つまり、今日はコマ送りの止まっている状態を継続出来ているという事だ。それほどに自分は集中出来ているのかと、売り方は自分の事ながら感心した。
(以前にも申し上げました通り、私の外見は見る方の主観によって決まります。時間の長短は関係有りません)
両手で自分の体の端を押さえてみせる影。頭部から腹部、腰、太腿へと。
(今の貴方に、私はどういう風に見えているのでしょうか?)
「ただの影だ。ああ、ただの人の影」
売り方は、影が昔、蒸気機関の計算機に見られていたと言っていた事を思い出し、敢えて“人の”と付け加えた。
(影ですか。もしや、その背丈や雰囲気は貴方のものに似ていませんか?)
「ん? そう言えば……」
影の言う通り、その背格好は自分のものとほぼ同じだった。
売り方は特に意識していなかったが。
(つまり、御父上に対する
「そんな事は余計なお世話だ。それより」
微妙に慇懃無礼なところがある。それを例の初老の証と受け取った売り方は、本題に入る事にした。
「一昨日の話の通り、持ってたモノを全部投げ捨ててきた。これでこのバイオリンを買い取ってくれるな?」
(そ、それは……)
逡巡を見せる黒い影。
「それは、何だ?」
売り方は、自分に似ているそれが煮え切らない態度をとっている事について、苛立ちを覚えた。
開悟したと褒めそやしながらも、一方ではこうして当て付けの様な事をする。
(お怒りは御尤もです。ですが、そのバイオリンを取引の具にしてはいけない事も、また事実なのです)
「またそれか。ではどうすれば取引に応じてくれるんだ?」
苛だちを増す売り方。彼の脳裏には、刻一刻と命の時間を減らし続ける少女の白い顔が浮かんでいた。
途轍もなく短い時間の中とは言え、全く時間を消費していないわけではないのだから。
(取引以前に、少女の事を忘れる、という選択肢はございませんか?)
「無い!」
まだそんな事を、と言わんばかりに即否定する売り方。
その気迫に押されたか、視線を合わせたまま動きを止める黒い影。売り方は言わずもがな。
そのまま、交渉は平行線に入るかと思われた。
(では、こうしましょう。ここは立会場ですし、今はザラ場中ですので、相場で勝負をつけるという形で)
少し俯き加減になって、黒い影。
「ん? つまり、株の売買で白黒つけようというのか?」
(そうです)
「俺が勝てば、取引に応じてくれると言うのか?」
(そうです)
「では、俺が負けたら? 言っておくが、このバイオリン以外には本当に何も持っていないぞ」
(その場合は、あの少女の事を忘れて頂きます)
「ふむ……」
悪い提案ではない。筋も通っている。だが簡単に乗ってしまって良いのか?
仮にも相手は、相場の神と呼ばれた存在。それに勝負を挑むなど。
売り方は、考え込む際の癖で腕組みをしようとした。
しかし腕は動かせず。眉間に皺を寄せるのが精々。
事実、売り方は従業員に手サインを送ろうとして、両腕を肩の高さまで上げた中途半端な姿勢で止まっていたのだが、動かせないと言うのはつまり保持する必要も無いという事であり、特に疲れや不具合は感じなかった。
それ故、不自然さを気にしなければ、この超高速の世界は考え事をするには寧ろ好都合だった。
「面白いな。だが勝敗の判断基準は?」
(売買ですので、大引け時でのお金の増減という事で)
「うむ。では対象にする市場や銘柄は?」
(銘柄は、貴方が一昨日売買されていた銘柄群で如何でしょうか。市場は勿論
30の銘柄。これらは、後に“トピックス コア30”と呼ばれるものだ。
それほどに時価総額や流動性が高い。売り方と影の勝負には申し分ない選択だ。
「構わないが、俺はともかく、オマエは口座を持っていないだろう?」
(私は貴方の売買に相対します。つまり、貴方が1円でもお金を増やせば貴方の勝ちという事です)
相変わらず、俯いたままの黒い影。
それを見る売り方は、影があまり乗り気ではないと感じた。
「よし、それでいい」
勝負を受ける売り方。
普通に考えれば絶対に勝てる相手ではないが、今なら勝機はあると踏んだのだ。
(お受けになりますか)
唖然とした様な、若しくは少し諦めた様な雰囲気を放つ黒い影。
売り方はそれを見て、自分の判断に間違いが無かった事を確信した。
ただ、なぜ乗り気になれない提案をしてきたのか、その理由は不明だったが。
(では、ただ今から開始します)
売り方の居るブースの横から離れる黒い影。
(開悟した貴方の実力、拝見しましょう)
開き直った様に言って、黒い影は周囲に紛れるように消えていく。
それを追いかける様に、辺りに満ちるいつもの喧騒。
同時に、思い出した様に楽になる呼吸。
売り方は現実世界に戻ってきた。
時刻を確認する。14時01分。黒い影の言った通り、殆ど時間は経っていなかった。
「注文ですか?」
売り方と目が合っていた従業員が、売り方の元に駆け寄ってくる。
「ああ、そうだ」
急に重みを増した両腕を下げながら、売り方。空気を震わせる声を出せる事を有り難く感じた。
そして周囲を見回す。黒い影の気配は無い。
恐らくは、未だ相場に参加して来ていない、欧州の早起き組みの元に行ったのだろう。
そして、そこで例のチェロを演奏して、連中に買い注文を出させるのだろう。
売り方はそう思った。
「いよいよですね。いえ、朝から調子が悪そうでしたんで、今日は動かないのかなと思ってたんですよ」
従業員がブースに戻ったのを見て、応援の営業2人もブースにやって来る。
「そう見えたか?」
売り方は、正直に言ってガッカリした。自分自身にだ。
感情を他者に読まれるのは相場師としては失格だからだ。
それで、今朝の夢見が悪かった事は出来るだけ行動や表情に出さない様に心掛けていた。少なくとも、そのつもりだったのだ。
「ああいえ、そんなはっきりとではありませんでした。ただ、一昨日までとは感じが違うな、ってだけで」
慌てた様子で、両手を顔の前で振ってみせる従業員。
「それで、注文の内容は?」
取り繕う様に付け加えた。
「売りを仕掛ける。一昨日の30銘柄だ」
売り方は、上着のポケットに入れていた注文票を出しながら言った。
この従業員は、サラリーマンの身でありながら、相場師というものを本質的に理解している。だから、こちらとの受け答えから自分が言い過ぎたという事を瞬時に理解して、発言を訂正する様な事を言う。
少なくとも、年齢の割には、かなりのところまで相場に通じているのは明らかだ、と売り方は思った。
「分かりました、いきなり大相場ですね。それで各々の株数と価格は?」
「……今から書く」
従業員の、他人事の様な言い方に苦笑する売り方。
お前もその片棒を担ぐ事になるんだぞと。分かってるのかと。
そして、注文票を書き始める。
そこで売り方は、今までとは違う自分に気がついた。
余裕が有るのだ。
本来であれば、相場の神と呼ばれた存在と勝負であるとか、総額で13桁の売買だとか、とんでもなく緊張しそうな要素満載の状況である筈なのに。
今の売り方には、そういう気負いの様なものが全く無かった。
寧ろ、それに気付いた自分自身に驚いているほどだ。
今でも、少女の事を考えると切迫感を覚える。
それは強迫概念と言っても良いほどの。
それで、今朝の夢見の悪さを切っ掛けとして、焦りが続いていた。
だが、相場に集中する事によって事態が好転するのなら話は別だ。
売り方は、影からの勝負を受ける事で自縄自縛から抜け出し、昨夜の楽な自分を取り戻していた。
それならと、売り方は或る事を試そうとした。
それは、影に会っていた状態の再現。
思考や認識を加速させる事で、それを為し得るのではないか?
「とりあえず、これを応援の二人と協力して注文出ししてくれ」
売り方は、注文票の束を従業員に渡す。
「は、早い……」
呆然としながら、それを受け取る従業員。
従業員の、溜息と共に出た感想は、至極真っ当なものだった。
売り方は、影と相対していた時の頭の動きを再現し、その状態に再び入ることに成功したのだ。
今、売り方が行なおうとしている売買は、紆余曲折あったものの、事実上自分のカネを使った証拠金取引に他ならなかった。
つまり、それでスッても、自分が損するだけ。
しかも、この時の売り方は、既にカネに対する欲は皆無だった。
ただ、少女を助けたい。その為に例の楽譜を手に入れる事だけが目的。
それで、余計な力の入ってない状態で集中した為、一人で影の居る時間に入り込む事が出来たのだ。
「えと、11、12……全部で15枚しか有りませんが?」
高速で書かれた注文票を数えながら、従業員。
実際には、売り方は影の居る時間にまで加速はしなかった。体を動かせなくなるからだ。
それで、その100分の1程度の加速状態にしたのだが、それでも従業員の目には止まらない速さだった。
「残りの15枚は俺が出す」
そこで、売り方は従業員の顔を見て、指示を追加する事にした。
「その15枚の売り、建値から1パー逆に行かれたら、即座に損切りの買戻しをしろ」
「え? そんな、それじゃまるで貴方に向かう筋や大口が居るみたいじゃないですか!」
そこへ、応援の営業マン2人がやっとブースに戻って来る。
それを従業員は、他社の場立ちだと勘違いしたか、小声で付け加える。
「今は、貴方に乗っかろうとしてる奴らばかりですよ。それに、もしそんな超大口が居るとして、そいつが買いを入れて上げて来てから売った方が有利でしょうに」
「みたいじゃなく、居るんだ。そして、そいつが買いを入れて来る前に、こっちは出来るだけ提灯を付けて売り叩く」
営業マンたちに気付く従業員。彼らの目でのやり取りが納まるのを待って。
「これは通常の売買とは違う。それを肝に銘じてくれ」
売り方は、従業員の相場の空気を読むセンスを認めた。
この若い場立ちなら。
「わ、分かりました」
売り方の勢いに押されて、従業員。
30絡みの、まだ青年っぽさの残る顔に動揺が広がる。
「1パー逆行で損切りを出します」
「ああ、それな、ヤバいと思ったら1パーまで待たずに即損切りで構わないから。そこら辺の判断は任せる。頼んだぞ」
ある程度の裁量を与えても問題は無いと、売り方は判断した。
「りょ、了解……しかし、ホントに居るんですか、こんな総額5000億ほどの売り注文に向かう奴が」
「居るんだって、だから売りを掛けられる。さあ、さっさと出してこい」
売り方は、従業員の暗算の早さに感心しながらも、けしかける様に言った。
従業員は、一礼をすると、両脇に営業マンを引き連れてカウンターに向かって行った。
売り方も、自分の分の注文を出すべく別のカウンターに向かう。
周囲で聞き耳を立てていた他社の場立ち達が、蜘蛛の子を散らす様に居なくなった。
カウンターの近くに着く売り方。
周囲は他社の場立ちで溢れている。
辺りには、未だ黒い影の気配は無かった。
「すまんな」
カウンターの前を空ける他社の場立ち達。売り方の注文を見る為だ。
それに乗じて、売り方は注文出しをしようとした。
そこへ、離れた位置にあるカウンターから、取引の一時停止(板寄せ)を知らせる笛の音が、ざわめきと共に聞こえてくる。売り方は、注文票に成りでの売りを指示していたのだ。
色めき立つ、売り方の周囲の場立ち達。
売り方が莫大な額の売りを仕掛けたのが、はっきりと分かったからだ。
それなら、わざわざ売り方の注文を見る必要は無い。
注文は先に出した者の勝ちだ。
場所を空けてくれたかに見えた場立ち達が、再び売り方の前に出ようとする。
売り方は当惑したが、しかしそれも一瞬の事だ。
笛が吹かれているカウンターの方を見る実栄、その目が自分に戻ってきた瞬間に、売り方は影の居る時間に入った。
今度は200分の1程度の速度だ。
注文票を書いた時よりも更に遅いのは、注文を受け付ける実栄が、認識出来る速度で無いと意味が無いからだ。
もっとも、それも売り方の当てずっぽうだった。経験の無い、初めて行なう事だから。
実栄に向かって、手サインで注文を出す売り方。
売り方にとっては、早く注文を出せればそれで良かった。だが、意図しない効果も有った。
それはその高速さから、サブリミナル効果を伴なって実栄の脳内に刻み付けられるというものだった。
そしてそれは、周囲で見ていた場立ち達も同様だった。
視覚で認識する以上に、頭の中に入り込んでくる高速の注文出し。
場立ち達と実栄は、噂となっていた“悪夢の売り方の本気”に、畏怖の念を覚えた。
戦慄したのは、彼らだけではなかった。
売り方を監視していた、東証の役員と証取の出張者。
笛が吹かれた瞬間に、売り方が株式市場に莫大な金額で入った事を理解した。
そして頭の中に刻まれる注文出し。
このままでは売り方に相場を壊されてしまう!
別の銘柄の注文を出す為、隣の実栄の前へ移動しようとする売り方。
その際にも加速状態を使った。
ほんの数歩の距離だが、周囲に居た場立ち達は、タンカーが起こす寄せ波に踊らされる小船の様に売り方に場所をあける。
それは、亜音速で動く売り方の気圧に、迫力が重なっていた所為か。
東証の役員と証取は、先ず笛が吹かれているカウンターの前に行った。
そこに見たのは、従業員達3人が手分けして大型株に成り売りを入れている様と、それに乗ろうとしたものの乗り切れず、右往左往している他社の場立ち達の姿だった。
とり急ぎカウンターの中に入り、板を確認する役員達。
笛を吹いた実栄の判断は適切なものだった。薄い買い板に、巨大な成り売りが掛けられている。
従業員達を見るも、彼らは業務の一環だと言わんばかりの涼しい顔だ。
役員達は、売り方の真意を探るべく彼の居るカウンターの前に行った。
売り方は、自分が受け持った分の注文出しを丁度終えたところだった。
「困るんだがねえ、無茶な発注は」
笛や喧騒の中で、普通の声では聞こえない。
そんな中で、不機嫌さを知らしめ様として、ドスの効いた声を声量を増して出す証取。
元々ヤクザめいた顔が、一段と凄みを増したものになった。
「何の事だ?」
そ知らぬ顔で応える売り方。
「向こうのカウンターのアレは、オマエんとこの発注だろうが。元々売りは国債の先物だけじゃなかったのか」
証取(証券取引等監視委員会)は、いわゆる証券ヤクザ(当時はこう呼ばれていた)を相手にする事も多い為、ヤクザに対する刑事よろしく、相手を上回る極道っぽさを纏うケースが多い。この証取もその例に漏れなかった。
「心配しなくとも、間もなく買いの注文が入って相場になる。大丈夫だ」
「なに? あの注文数に相対する口が居るってのか? まさか仮装売買(権利の移転や金銭のやりとり等を目的としない取引の事。他の参加者の動揺を誘う事が主眼)じゃあるまいな」
「そんな酔狂な奴は
売り方は、
場電の事もあって、いつまでもブースを空にしておくわけにはいかないからだ。
「キサマ、そんな事を言って良いのか? もしこの注文の」
ブースに着いた売り方に向かって、付いて来た証取が言った。が。
その時、従業員達が詰めているカウンターの前で、一際大きな歓声が上がる。
どうやら買い注文が入って、売り方の売り注文が約定し始めた様だった。
「……必ず尻尾を掴んでやるからな」
吐き捨てる様に言い残して、証取は従業員のカウンターへ向かった。
その証取と入れ替わる様に、東証の役員が売り方のブースにやって来た。
彼は、カウンターの中で、売り方自身が出した注文が実栄によって板に記入されていく様を興味深そうに見ていたのだが、従業員のカウンターで歓声が上がったので、それを見に行く途中で此処に立ち寄ったのだ。
「まるでヤクザ者だな、アレは」
辟易した風で、売り方。
東証の人間なら例え役員と言えど、証取よりも“こちら側”の為、まだ気楽に話し易い。
売り方の砕けた物言いはその為だったが、別に証取に対して臆しても気遣いをしてもいなかった。
「まあまあ」
長身の売り方よりも、更に背の高い役員。
仕立ての良さそうなダークスーツを着こなしており、品の良さが滲み出している。
「貴方も負けてはいませんでしたよ?」
チクリとやる事も忘れない。
「あんなのと一緒にされてもな」
憮然と言い返す売り方。
そこで、売り方が詰めていたカウンターの前でも歓声が上がる。
そちらの銘柄にも買いが入ったのだ。
方々のブースから、各々の連絡員から指示を受けた場立ち達がカウンターに群がる。
その様子を見て売り方は、影の動きが思いの外に早いと感じた。
彼は、この勝負を真剣に行なっているのだと。
「貴方は、向こうへ行って応援してあげなくて良いのですか?」
役員が、従業員のブースを指差して。
「ん、まあ大丈夫だろう」
その際の指示も出してある。それにあの従業員なら機転も利くし、期待して良いだろう。
売り方はそう思っていた。
「それに、俺はそもそも連絡員としてこの場に居るんだからな」
「そうですか」
呆れた様に役員、続けて。
「ただ、こんな注文の出し方は……」
役員の言う事を聞き流しながら、売り方は壁の電光掲示板を見ていた。
従業員達に任せた銘柄の値動きが見える。
それは、火山が噴火するかの如くの上げだった。
流石に心配になる売り方。
そこで、例の加速状態に入って従業員のカウンターまで移動しようとした。それなら時間が殆ど掛からないからだ。役員の話はどうでも良かった。
しかし今度はしくじった。焦った所為か、加速し過ぎたのだ。
これは影と会っていた時と同じ速度。
つまり、空気が砂型の砂の様に硬く重くなって、体の自由を奪う。
売り方は急いで速度を緩めようとした。だが。
(だから無茶すんなって言っただろうが、まったく証券屋ってのは)
目の前に居る役員の心の声が聞こえる。
いや、正確には“感じる”。まるで影の声を聞く様に。
そしてそれは、役員のものだけではなく、周囲の場立ちや連絡員、実栄達のものまで感じられた。
ただ、そこへ心のフォーカスを合わせるだけで。
椅子に座り、従業員のカウンターの方を見ている姿勢の売り方は、その速度のまま、従業員達の方へフォーカスを合わせた。
すると、従業員と応援の心の声が聞こえてきた。
更に、他社の場立ちや証取のものまでも。
それらを総合すると、急に入ってきた買い注文は、どうやら欧州筋からのものの様で、板寄せ状態は解消され、場立ち達は動揺しながらも注文出しを行い、証取は違法行為を見つけられず右往左往している模様だった。
また、従業員は、予告された買い向かいが入ってきた事に少なからず驚きながらも、慌てて買戻しの注文を出そうとせず、買いの注文が落ち着き、一旦利益確定の下げに入るのを虎視眈々と狙っている様だった。
そうだ、それで良い。
売り方は、そう一人ごちながら加速状態を解こうとしたが、止めてしまった。
その視界の中に動くものを見つけたからだ。
それは、例の黒い影。
彫像の様に微動だにしない人の中を悠々と歩き回り、カウンターの中の板の様子を見ている。
多分、売り方の注文状況を確認しているのだろう。
その動きは、不気味や異様を通り越して、もはや物理の外を感じさせるものだ。
その中、売り方は不意に影と目が合った様な気がした。
売り方はその時、影の心が読めないかとフォーカスを合わせたのだ。
それがこの加速状態の世界では何かのサインになるのか、影が売り方の意識に気付いた風だったのだ。
(勝負の最中です、お話は後でまた)
影はそう言った。
そして、その直後に消えてしまった。
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