第22話 断捨離

 

 明けて水曜日、17時過ぎ。兜町の細い路地。


 茜から紺へのグラデーションに染まる空の下、狭いところには夜の闇が蔓延り始めている。

 そろそろ寒さの混じり始めた空気の中、仕事途中の証券マンが三々五々歩いていた。


 その中を縫う様に進んで来る、背の低いシルバーの車。

 妙に長いボンネットに、相対的に短いキャビン。

 大排気量と思しきエンジンから薄い鉄板を引き裂いた様な吸気音が、左後ろのタイヤの前に突き出たテールパイプから10個以上のバスドラムが同時にロールされた様な排気音が、両脇に立ち並んだビルの壁に叩きつけられる。


 それらビルから、大勢の人間が音の主を確認しようと窓を開ける。

 彼らは、有鉛ハイオクが燃えた変に甘い臭いの中で、それは意外なほど小さな車だと確認する事になった。


 その車は、路地の中ほどの一際古ぼけたビルの前で止まる。

 エンジンも止められ、街中のざわめきを取り戻す周囲。

 そして右側のドアが開き、人が出てきた。


「着いたぞ、降りてくれ」


 売り方だった。

 宵闇が寄り集まった様な、プルシャンブルーのスーツを着ている。

 慣れた手つきで左側のドアを外側から開けた。


「す、すみません」


 小さなキャビンから外に出ようともがいているのは、青年医師。

 多忙な医師は私服に無頓着になるのか、ざっくりしたブルゾンに、ベージュのチノパンというラフな出で立ちだ。


「気にするな、掴まれ」


 元々競技用として造られた車の為、190センチを越える身長の青年に、その必要最小限のドアは小さすぎた。

 先に上半身を出すべきか、足を先にすべきか、決めかねる青年。

 それでも、売り方が手を差し伸べているので動かないわけにはいかず、結果として無理な動作になってしまい、その体は再びバケットシートの中へ飲みこまれた。


 売り方は昨晩、少女の病室に泊まった。

 院長に頼み、青年の分と合わせて二台のベッドを設えてもらった。

 当初は面食らっていた青年も、疲れが頂点だったのか、強い反対はしなかった。

 寧ろ、少女の傍に居られる事での安心感もあったかもしれない。それは売り方も同じだった。


 確かに、少女の容態が思わしくない事と、他の医師に任せる事への不安は、二人の心に影を落としていた。だが、二人ともこの日の朝7時まで熟睡し(ナースに起こされた)、疲れは完全にとれている筈だった。

 少なくとも、売り方の体調は回復していた。

 それなのに、青年のこのぎこちない動作。


 売り方に引っこ抜かれる様にして、やっとのていで道路に降り立つ青年。

 売り方は、少女をこの車に乗せた時の事を思い出した。

 その際には、お嬢様をエスコートする執事宜しく、スマートに乗り降りを補助できたのだが。


「このクルマは、キミには合わないか?」

「確かに、私には少し窮屈かもしれません。それより今は」

「ああそうか。キミの叔父さんの会社は、このビルの4階だ。看板が出てるだろ」


 売り方の指し示す方を見上げ、了解の意を示す青年。

 しかし、そのビルに入ろうとした二人を、いつの間にか集まっていた十数人の証券マンたちが取り囲んでいた。


「どいてくれ、見世物じゃないぞ」


 粗野な仕草で野次馬たちを追い払う。

 申し合わせた様に質素な背広姿。場服姿の者もいる。

 そんな地味な集団の中に、場違いな仕立ての良いスーツ姿が一人。


「駐車違反じゃねえのかよ」


 集団の中からの声。半分はやっかみか。


「うるさい、いま停車中だ。いいから散れ」


 今度こそ野次馬を追い払う売り方。

 ビルの入り口まで行った青年が、来ないのか? という表情で売り方を見る。

 売り方は、車と、近くの交通標識を指差して言った。


「後から行く」


 一度だけ頷いて、ビルに入る青年。

 野次馬たちも、ぶつぶつと文句を言いながら離れていった。

 仕立ての良いスーツ姿の一人を残して。


「夜そちらへ行く、と連絡した筈だが」


 スーツ姿は、中肉中背、頭に白いものが目立つ五十絡みの男性だった。

 綺麗なお辞儀をしてから、売り方の問い掛けに答える。


「はい、伺っておりました。ですが」


 年季の入った営業職を思わせる、嫌味のない恭しい態度。

 それも、庶民には手が出ない高価な品を扱う様な。


「都内を凄い車が走り回っている、という話を聞きまして。よく聞いてみると、それはどうも貴方のお車の様で。それで、貴方ならこの辺りで待っていれば会えるのではないかと」


「ふむ? それでもディーラーらしく、店で待ってれば良かったんじゃないか? 只の名義変更の依頼なのだし」


 疑問が解けない売り方、続けて尋ねる。


「俺が何処かへ逃亡する、とでも思ったか?」

「まさか」


 僅かに目を剥いたものの、すぐに落ち着いた眼差しを取り戻すディーラー。


「私が、早く貴方にお会いしたかっただけの事です」


 売り方は、ディーラーの物言いに対し居心地の悪さを感じた。

 会いたがるという事。

 何もかもお見通し、といった雰囲気。

 それは、例の初老を髣髴ほうふつさせて。


「まあいい、横浜そちらまで行く手間が省けたからな」

「一緒に乗っていらした青年が、このお車の、次の名義人になられるのですね?」

「ああ、そうだが」


 この日の売り方と青年は、多くの公共機関へと赴き酷く忙しかった。

 いちいちタクシーを拾うヒマは無かったし、距離も然程でなかったという事も有る。

 その為、売り方は自分の車に最後の仕事を与えたのだ。

 だがそれは、必ずしも同乗者への、車の所有権の移譲を意味するものではない。


「分かるものなのか、こういうのって」

「ええ。貴方が今日、いらっしゃられた先も概ね」


 ディーラーは、この日の売り方の行った先と、その目的を述べた。

 銀行、区役所、不動産屋、法務局、家庭裁判所。資産・財産の移譲の為。

 そしてそれらは、細かいところ(実際には弁護士事務所にも行っていた)を除けば、殆ど合っていた。


「何故だ? なんでそこまで分かる?」

「それは、私が貴方に会いたくなった事に繋がるのですが」


 そこへ、数人の証券マンが売り方とディーラーの間を通り過ぎる。

 話を中断させられた格好の売り方は、車を見るために立ち止まろうとする証券マン達を追い払う意味も込めて、車の傍へ歩み寄った。

 それに従うディーラー。

 頷いてみせる売り方に応え、話の続きを始める。


「この様なお車を多く扱っている関係で、お客様の多くは資産家と呼ばれる方達です」


 美麗なラインを描くボンネット。それをなぞる様に手の平を翳すディーラー。


「その方達も、永遠にお車を所持されているわけではありません。いつかは手放される時が来ます」

「それはそうだろうが」

「理由は様々です。ですが、割合として最も多いのが、“モノの無い生活を手に入れたい”というものです」


 ディーラーの言った事に、売り方は腑に落ちるものを感じた。

 彼が証券会社に勤めていた頃は、多くの資産家と呼ばれる客達と付き合った。

 その客達が相場から離れる際の理由もまた様々だった。が、最も多かったのは、いわゆる破産による退場などではなく、ディーラーが言った様な、俗世からの離脱を意味する事だったのだ。


「ああ、それは分かる。証券の世界でもそうだからな。だが、俺は別に隠居するつもりは無いぞ?」

「お客様の御年齢ならば、そうでしょう。ただ、世間には、引退はしなくとも身の回りの整理を為される方もいらっしゃいます。それは……」


 そこへまた、通行人がやって来る。

 今度もまた証券の関係者、但し女性の二人組みだった。

 晩秋の宵の道端で変な車を背に話し込む男二人を、怪訝そうな目で見る。

 ディーラーは、彼女らが通り過ぎるのを待って話を再開した。


「ヨガの行法ぎょうほうに、断行だんぎょう捨行しゃぎょう離行りぎょうというものがあります。貴方は、それを行なおうとしている様に見えたのです」


「おいおい、ヨガって何だよ藪から棒だな。俺は別に悟りを開くつもりじゃ無いぞ」


 驚く売り方。自分はそんな浮世離れした空気を纏っているのかと。

 それを消し去ろうというのか、大袈裟な手振りで否定してみせる。


「貴方がこれを弊社に御注文された理由は、御尊父の憧れの車だったとか」

「そうだったかな。それがどうした?」


 売り方の父親は、無趣味な男だった。

 工場の離れ、粗末な家に売り方と二人暮らし。

 だが、その父親の部屋の中で異彩を放つもの。

 それは、この車の写真だった。

 ル・マン24時間レースの記録映画のフィルムから引き伸ばされたB3大のそれは、簡素な部屋の中で唯一、色を持ったものだった。

 

 中学生の頃から就職して家を出るまでの間、売り方はその写真を眺め続けたのだ。


「車は機械ですが、使う人間の愛情によって、その動きを変える面を持っています。良く出来た車なら特に、そういう傾向が強いものです」


 父親の死後、その写真は葬儀の際に父親の遺体と一緒に燃やした。

 その後、証券会社を辞めて金儲けをした際に、知人から車の購入を勧められた。

 売り方には車を所有する必要も興味も無かったのだが、この車だけは別格だった。


「身の回りのモノを手放して身軽になり、自分の仕事や、やりたい事に集中したいと考える方は多いです。資産家と呼ばれる方達には特に」


 初めて乗った際に、売り方は不思議な気分になった。

 父親は、この車に関して話を始めると止まらなかった。

 その夢見る少年の様な目。

 だが売り方は、オリジナルをほぼ完璧に保持しているその車を実際に走らせて、その中に父親の憧れを見出す事は出来なかった。

 運転にも維持にも手間隙が掛かり過ぎる。単なる移動手段としては最悪だぞと。

 

 だが、かつて実家があった近くでこの車を走らせると、まるで写真の中から自分を乗せてこの車が飛び出してきた様な錯覚に襲われて。

 父親が喜んでくれている様な気までして。


「そんな方が自分の車を手放される。その時、車への興味も愛情も減少した状態でしょう。それで実際に多いのです、最後のドライブで事故をおこされる方が」

「だから、俺が事故ると思ったと?」

「貴方の腕前は存じ上げております。昼間の都内で、平歯でノンシンクロのミッション車を振り回せる方は、そう多くありません。ですが」


 そこで何故か、少し申し訳無さそうな表情になるディーラー。


「自分がすべきと思った事は、実行しないと後悔の元になりますから」


 恐らくは、過去に似たような事例があったのだろう。

 ディーラーは、そんなつまらない経験を重ねたくないと思っているに違いない。

 売り方は、父親が憧れたこの車が自分を裏切る場面を想像してみた。

 それは、ゾッとする様な光景だった。


「クルマ一台に、大袈裟なことだな」


 そう言って、足元に一つ息を落とす売り方。

 確かに、この車を足代わりに使った今日の運転は、昨日までとは違って雑なものだった様な気がしてきた。

 それは、青年の車への乗り降りにも表れていなかっただろうか?


「それでも、有難う」


 と、素直に礼を述べた。


「あの青年、良いですね」


 重くなった空気を変えようとしたのか、ディーラーが話を振る。


「何か求道者の様な凜としたところがあって。彼が貴方の後をついで相場師に?」

「いや違う違う、アイツは医者だよ。しかもまだまだヒヨッコだ」


 慌てて否定する売り方。世間からはそういう風に見えるのか?


「しかし、貴方は資産の全てを彼に譲ったのですね?」

「そ、それはそうなんだが」


 困った表情を隠さない売り方。経緯を上手く説明できる自信も無く、戸惑うばかりだ。


「ああ、そういう事ですか」


 破顔一笑、ディーラーの雰囲気が柔らかくなる。


「“そういう”間柄だとは思っていません、ご心配無く」

「ホントかい? いやまあ、そう思われても仕方ないのかもしれんが」


 実際に、売り方は資金や資産の殆ど全てを青年に譲り渡した。

 この日にやった事は、その手続きだったのだ。

 段取りは、証券会社に勤めていた頃の、大口の客との仕事で学んでいた。


 結果、売り方は今、事実上の無一文になっていた。


「しかし、あの青年にこの車は難しいのでは? 色々と」

「ああ、そうだな。俺もさっきそう思ったところだ」

「この車が得体の知れない若者のものになったとしたら、英国のクラブからクレームが来そうです」


 それは、このディーラーの仕事が上手く回らなくなる原因となるかもしれない。

 売り方は、このひたすら親切な営業職に迷惑をかけるべきではないと思った。


「それでも、名義変更だけはしてくれ」


 意表を突かれた表情のディーラーに向かって、言葉を続ける売り方。


「そして、海外のオークションにでも出して、手に入った現金を青年に渡してくれ」

「分かりました。そうして頂けますと、非常に助かります」

 そう言って、ディーラーは手に持っていたアタッシュケースを横にして持ち上げ、テーブル代わりにした。


 そして売り方は、青年から預かっているハンコなどで、名義変更用の書類に記入した。


「印鑑証明は二通だったな」

「はい」


 手続きに必要な作業は、意外なほど簡単に終わった。


「車内にお忘れ物は有りませんか?」


 問い掛けるディーラー。

 しかしその時には既に、売り方は車内からバイオリンケースを取り出そうとしていた。


「これで大丈夫だ。車検証などは先ほど渡した通り」

「はい確かに」


 それではまた後日連絡致します、と言って、スムーズに運転席に乗り込むディーラー。

 売り方はその鮮やかな身のこなしに少し驚きながらも、簡単なコクピットドリルを伝えようとする。


「普通に左上がロー。オイルポンプはクセがあるから、音が小さくなるまでクランキングは待ってくれ。それとエンジンが熱い時はクランキングは長めに。それからクーラントのポンプがヘタリ気味だから……」


 売り方の決して簡単ではない口上を、微笑みながら聞いているディーラー。

 急いで売る必要は無いのでは?

 いつまでもお手元に残しておかれては?

 売り方には、ディーラーがそう言ってる様に思えた。


「まあ、以上だ。細かいところはプロであるそちらの方が詳しいだろうしな」

「恐れ入ります」

「じゃあ、宜しく頼む」


 ディーラーの操作で簡単に息を吹き返した車は、すっかり暗くなった兜町の裏路地を、爆音を響かせながらしずしずと進んでいき、そして見えなくなった。


 売り方は、金や債券など全てを青年に移譲したこの日の中で、初めて寂しさを覚えたのだった。




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ヴィラ・デステの自動車コンクール

http://www.asahi.com/car/gallery/110527italy/15.html



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