第21話 休むも相場

 

 ブースの中の従業員たち3人を含め、立会場に居た人々は驚愕に包まれた。


 立会場の端、テラスの下辺りに立っている売り方が、カウンターの方へ向かって右腕を伸ばすと同時に株価が急落。

 そして何事か叫びその手を握った瞬間に、彼の出していた買戻しの注文が悉く約定したのだ。


 株価は需給。注文を出す者の恣意によって動くもの。

 板に有るのは指し値の注文。そこへ成り売りの注文が出されると、指し値の売り注文は置いてきぼりを喰らう。それが仮に僅かな注文数であったとしても。


 上げの途中なら問題は無い。誰かが一旦現金化したのだろうと見るだけだ。

 だがそれが、参加者の多くが相場の方向性を見失った時だったとしたら?


 参加者一人ひとりの出す注文数は、相場全体のそれに比すると僅かな額だろう。

 それ故、自分の出す注文が相場を動かしていると言う実感に乏しくなる。カネが集まる大型株なら尚の事。

 だから、迷っている最中に目の前で成り注文を出されると、どうしてもその方向に乗ってしまいがちになる。

 客の注文で動いているので、約定出来ないのは下手な損切りよりも拙いからだ。


 後場からの上げの原因を掴めずにいた参加者たちは、ふと心をよぎった下落ガラの予感に同期する様な、成り売りの増加にパニックを起こした。

 最も単純な形での集団心理、その発露。

 その下げは、多くの参加者たちが儲けを縮小するどころか、損を切るレベルにまで続いた。


 そしてそこへ、売り方の奇行。


 彼の動作は、まるで相場そのものを動かしているという風にも見えた。

 その日の高値で売りを約定させ、更にその日の安値と同値で買い戻しを出来させる。

 腕を伸ばして掴む動作。それは、文字通りの“把握”を意味していて。


 噂には聞いていた、売り方の相場師としての能力。

 しかし、まさかこれ程とは。

 参加者たちは、自らの見込みの甘さも合わせて戦慄した。


「貴方は、いったい……」


 売り方は、気が付くと従業員に左肩を支えられていた。

 全身が痺れている。初老を捕まえようと伸ばした左腕は特に酷い。


「俺は、どのくらいの間、此処に居た?」


「え、えっと……」


 予想外の問い掛けに、僅かに戸惑う従業員。


「たしか30分ほどです」

「そうか……」


 初老と会っている間は、時間の流れ方が歪になるのか?

 話をしていた時間は実際には短く、別れ際の時間は長かったのか?

 それで、妙な疲れが体に溜まったのか?

 売り方は、その間に自分が周囲からどういう風に見えていたのか気になった。しかし。


「社長からの伝言です、今日はもう上がって下さいと」


 肩を支えつつブースに戻ろうとする、従業員の言葉に遮られた。


「な、ちょっと待て」


 腕時計を確認する為、従業員から離れる売り方。

 時刻は14時48分だった。


「まだ場中じゃないか」


 驚くと同時に、少し安堵する売り方。

 おかしなポーズは、3分と続けてはいなかった様だった。


「買戻しの注文が出来る寸前だろ」

「いえ、つい今しがた約定しました。全ての銘柄が」


 何を言ってるんだ、という様な表情で従業員。


「それも、貴方が株価を引き摺り降ろした様に見えましたが」

「俺が? バカな事を……」


 電光掲示板を見る売り方。言われた通り、買戻しをかけていた全ての銘柄の価格が下がり、約定していた。

 しかも、引け際の手仕舞いが入っている様で、現在は僅かに上げの状況に入っている。

 なるほど、あのタイミングでこの状況なら、自分が相場全体を引き下げた様に見えてもおかしくは無い。

 だが、幾らなんでもそれは。


「引け後の事なら大丈夫です、会社から応援を貰いましたから」


 売り方をブースに戻すべく、再び売り方の肩を支えようとする従業員。

 その背後からは、他社の、場立ち達の視線が。


「いや、大丈夫だ」


 従業員の手を遮り、歩き出す売り方。


 実際には、大丈夫などと言える状態ではなかった。

 しかし、立会場全体からの注目を集めている今、ここで肩を借りてヨタヨタ歩いては、まるで本当に相場を鷲掴みにして操作した様に、それで体力を使い果たした様に見えるから、売り方は何事も無かったかのように振舞うべきだと考えた。


 ブースに辿り着く売り方。

 呆然として見つめる二人の応援社員に片手で挨拶し、椅子に座り込む。

 出来るだけ疲れを表に出さない様に、スムーズに。


「約定したぞ、本日の安値で全数」


 そしてそれがさも当然であるかの様に、インカムを耳に押し当てて、この日の結果を報告する。

 自分が、何か怪しい技を使って相場を動かした、と思われない様に。

 それを周囲にアピールする為に。


『聞いた。凄かったそうだな』


 場電は繋がっていた。こちらも呆然としているらしい山師が言う。


『“悪夢の売り方”が魔法を使って相場を曲げた、って評判だ』

「いや……別に俺が何かしたワケじゃないんだが」


 場電が繋がっているとは思っていなかった売り方、狼狽する。


『分かってるよ』


 山師の口調には、からかう様な色があった。


「く……、そもそも何だ、その魔法ってのは? センスの無い」


『悪かったな、センス無くて』


 どうやら、魔法云々は山師の個人的な印象だった様だ。


『だがな、兜町界隈はとっくに大騒ぎになってるぞ』

「だから俺は何もしてないって」


 未だ周囲からの視線に晒されている売り方、山師の状況連絡を否定しようとする。

 当然ながら、山師の声は周囲に聞こえてはいなかったが、相場操縦ととられる会話は場立ちとしては法度であるし、忌避するのが当然だったからだ。


『ま、それは兎も角、今日はもう上がんな』

「いや、大引けまでは」

『言っただろ、界隈で騒ぎになってるて』


 少し呆れた風で、山師。

 大引けまで立会場に居ると、帰りは当然、他社の場立ち達や新聞記者などに揉みくちゃにされる可能性が大だった。

 売り方は、そんな簡単な事にも思い至れない程に疲れていた。


「……分かった、今すぐそちらへ行く」


 腕時計を見る売り方。14時52分だった。

 山師は、何だかんだ言っても自分を気遣ってくれる。それは会社の仕事を回す部下としてではなく、古くからの友人として。

 だから、会社宣伝の絶好の機会を逃してまで、自分に早上がりしろと言ってくれているのだ。

 売り方はそれに感謝しつつ、椅子から立ち上がった。

 ショルダーバッグと、結局出番の無かったバイオリンケースを掴んで。


「じゃあ、スマンが後は宜しく頼む」

「お疲れ様でした」


 ブースの横に居た従業員と挨拶を交わす。

 そして、立会場の出口に向かって歩き出す。

 その周囲に集まっていた他社の場立ち達が、一斉に動いて人一人分の道を作り出した。


 まるでモーゼの十戒だな。売り方は、疲れで揺れる視界の中でそう思った。



 ◆   ◆   ◆   ◆



 16時頃、病院。

 斜めに西日が差し込む玄関フロアに、売り方が入って来る。

 フロアは広く、診察時間を過ぎたせいか通院患者たちも居らず、閑散としていた。


 フロアの奥側には、長いカウンターがある。

 その中で行なわれているのは、恐らくは医療事務なのだろう、数人の女性が電卓やキーボード等を叩く音を響かせている。


 その、不縹緻ふきりょうな音が満ちる黄色く染まった中、売り方はその奥にある、入院棟へ続く渡り廊下に向かう。


 カウンターの前にさしかかった時、売り方はカウンターの奥に居る女性と目が合った。

 軽く会釈をする女性。売り方も同じ事をして返す。

 その女性の様が、売り方に山師の会社の事務の女性を思い起こさせた。


 山師の要求は実にシンプルだった。“疲れてるようだから、明日は休め”


 渡り廊下を抜け、入院棟のエレベーターホールに着く売り方。

 今日は二つとも動作している。

 売り方は、手前の来客用エレベーターを1階に呼び出した。


 山師の要求に対し、売り方は異を唱えなかった。

 相場では、注目されても良い事は一つも無い。増してや今日の様に、他の参加者から畏怖の念を持たれるなど最悪だ。

 何故なら、その後の相場に於いて、注目されている者は一挙手一投足に至るまで監視され身動きが取れなくなるからだ。

 

 山師は、その辺りも見越して休めといってる様に、売り方には思えた。

 少しほとぼりを冷ませと。


 最上階で時を止めていたエレベーターが、売り方の呼び出しを完遂した。

 中に入り、再び元居た場所への移動をリクエストする。

 上昇し、売り方のヒザに軽く掛かる荷重。

 それすら辛く感じる体調で、明日も相場などとても現実的な選択ではなかった。


 山師の会社で場服からスーツに着替えた売り方に、山師は少し休んで行けと勧めた。

 だが売り方は、それは固辞した。

 そのソファで寝てしまったら、恐らく数時間は起き上がれなかっただろうから。

 それなら、もう少し頑張って、少女の病室でと。


 最上階に到着。開くドア。

 売り方の望みまで、あと数十メートル。


 病室のドアは半分開いていた。

 中で待っていたのは、ベッドの上で昨日よりもその本数を増やしたチューブに繋がれた少女と、ベッドの横の簡素な椅子の上で俯いて何事か呟いている青年だった。


 少女は未だ意識を取り戻していなかった。

 だが、薄暗い部屋の中でもはっきりそれと分かるほどに白い包布は、昨日と同じ様に上下している。

 売り方は、少女の希望と絶望をない交ぜにした様な無表情を見て、安堵と失望を同時に感じた。


「容態は?」


 ノロノロと頭を持ち上げる青年。

 その視線は、売り方のほうには向かっていない。


「疲れている様だな、こちらだ」


 青年の横に立ち、顔の前で手を振ってみせる。


「……あ、はい……」


 ようやく売り方のほうを見る青年。


「その後の容態は?」

「……よ、容態ですか」


 視線は自分に向けられている。だが、その焦点は合っていない。

 売り方は、青年のそのやつれた様を見て、自分よりも疲れが溜まっていると感じた。


「ああ、そうだ……昨夜から、この娘にどんな処置を施した?」

「そ、それはですね……」


 売り方の趣旨を変えた質問。纏めたものの要求ではなく、具体的な行動の羅列へと。それなら考える事が無いので、喋り易いだろうと。

 その売り方の思惑通り、青年は昨夜、売り方と別れた後からの事を滔々と述べ始めた。

 もっとも、それらの大部分は医療の専門用語で満たされていたので、売り方には殆ど理解出来なかったのだが。


「つまり、悪化を抑える事には成功した、と理解して良いのか?」

「あ、はい……一言で言うとそういう事になります。ですが……」


 言ってから再び俯く青年。

 数日中にどうのこうの、という状況ではないものの決して回復に向かっているワケでなはい、という事らしかった。


 青年は赦されたがっている。少女を抱いた事に関して。

 他者からそれを得られないと理解した昨夜から、彼は自分の行いの中にそれを見出そうとしたのだろう。

 しかし、少女の容態は肯定を返さない。

 このままでは、少女より先に青年の方が逝ってしまうかもしれない。


「唐突でスマンが、明日休みを取ってくれ」


 昨夜、青年を突き放したのは自分だ。

 だから手を差し伸べる義務もあるのではないか。

 売り方はそんな事を思った。


「……休み、ですか? そんなの無理です」


 売り方は、青年の拒否を無視して続ける。


「キミには、俺と一緒に行かなければならない所がある」

「それは、何処ですか?」


 含みを持たせた売り方の物言いに、青年は思い当たるものを感じ、少し怯えを見せた。


「裁判所だ」



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