第23話 小夜曲
「酷い奴だな、オマエ」
山師の会社。売り方がその部屋に入った瞬間、浴びせかけられる山師の罵声。
「甥っ子は、豚箱にぶちこまれるかと思ってラフな服を着たそうじゃないか」
「何だそりゃ!?」
面食らう売り方。
クルマを見送った際の神妙な気持ちは一瞬にして吹き飛んでしまった。
部屋の中は、従業員や他の営業マン達が引っ切り無しに掛かってくる電話の応対に大わらわだった。
「だが実際に連れて行かれたのは、豚箱どころかキチンとした服装が当然なとこばかり」
20畳ほどの部屋。従業員達の中にいた山師は、戸口に立っている売り方に歩み寄り、部屋の中に引き入れた。
「オマエは甥っ子に恥をかかせたかったのか?」
部屋の中ほどに、事務机が向かい合わせに8つ。
部屋の右端には大きなソファと小さなテーブル、観葉植物。その横に小物やファイルを収めるための棚。
左端にはドアが二つ。社長室兼応接室とロッカールーム。
全般的に手狭で、且つ煙草のヤニなどで薄汚れた部屋だ。
「そんなつもりは無かったぞ」
売り方は、胸元を掴んでいた山師の手を引き剥がす。
「彼が勝手に誤解しただけだ」
青年は、従業員達に混じって事務机の電話で何処かと通話をしている。
通話先は病院なのだろう、医学の専門用語らしき言葉の連続だった。
それを見て、売り方はふと思った。彼は今日、行く先々でこんな風に電話をしていた。
早々変わるわけでもないだろう少女の容態を確認する為に。または投薬などの指示を出す為に。
そこまでの責任感と、その一方で、塀の向こうに行く覚悟を固めた心境は、果たして同居し得る物なのだろうかと。
更に、実は売り方の全財産が自分に移譲される為の手続きなのだと知った時の心持ちは、どの様なものだったのだろうかと。
「ふむ、まあ良いけどな。それより」
売り方をソファへ連れて行く山師。
「銀行の、例の
鬼の裁定師の事を、山師は鬼女と呼んでいた。
相場での通称と違うのは、売り方がそう言っているのを倣ったからだ。
「なんだと?」
動揺する売り方。座ったばかりのソファから立ち上がってしまう。
「アイツは、この件には関係無いぞ」
「甥っ子の口座は鬼女の銀行にあるんだろ。それの絡みじゃないのか」
まあ座れ、と売り方に諭す様に身振りをする。
「いきなり大金が入ってきたかと思えば、即座に俺の会社に振り替えられたんじゃ、そりゃ理由を確認したくもなるだろ」
裁判所の職員や弁護士らは、理由に関して詳しい説明を殆ど要求しなかった。
税務署員(弁護士が呼びつけた)に至っては、理由の説明自体を要求しなかった。
売り方がアカの他人である青年に移譲した金額は、税抜き後でも12桁だ。
それ程のものでも理由を問われない事を訝しんでいた売り方だったが、クルマのディーラーと話して納得がいっていた。世間では(金額はともかく)こういう事は別に珍しくないのだと。
「それで、なんて言ったんだ?」
ソファに座り直しながら、売り方。
青年の口座は、鬼女の銀行の支店に有った。
それは、鬼女の居る本店から出入り禁止を言われている売り方にとっては都合が良かったのだが。
「いやあ、彼は今日休みだから分かりません、って白ばっくれたさ」
「アイツがそれで納得したか?」
「してなかったっぽいが、それ以上は聞いて来なかったな」
しかし、何故青年のカネの動きに売り方が絡んでいると鬼女にバレたのか、それは謎だった。
そこへ事務の女性が、お茶と茶菓子を載せたお盆を持ってやって来る。
定時を僅かに過ぎた時間の筈だが、妙に機嫌が良い。
テーブルにお盆の上のものを置き、売り方に、お休みの日にお疲れ様です、とねぎらいの言葉まで残して自分の事務机に戻った。
「ああ、これはな、きょう主管の銀行の次長さんが、紫の風呂敷包みを持ってすっ飛んできてな」
いきなり大金が振り込まれたのだ。銀行の上層部から、内情を偵察して来いとでも言われたのだろう。
しかし金額が金額だ。下手な手土産では話もし辛い。
そこで高級な茶葉と和菓子のセットを。それも余るほどに。
それは、ビル内で共用されている給湯室での、事務の女性の地位向上に繋がったか。他社の女性達への振る舞いという形で。
売り方は、その一連の流れを想像して苦笑した。
「流石に美味いな」
お茶を一口飲んで、売り方。
一日中、方々で雑多な事務処理をして疲れた体の中を、仄かな甘みと清涼感が癒していく。
「しかし、面倒事はゴメンだぞ」
山師は、事務の女性からお茶と茶菓子を振舞われる青年を見ながら言った。
「証券関係のゴタゴタは、甥っ子には荷が重過ぎる」
「彼をこの世界に引き込む事には反対しないクセにか?」
程よい大きさに切られた、有名な老舗の羊羹を頬張りながら、売り方。売り方と青年は、まだ夕食を摂っていなかった。
「そりゃ、今朝の電話でその事を言われた時は面食らったさ」
山師も和菓子を齧る。白色を土台に、淡い鶯色と桃色に彩られた落雁だ。
「だが、昨日帰るときに、そんな様な事を言ってただろオマエ。だから心の準備は出来てたよ」
そして、周囲の者達が危惧したとおり、粉をボロボロと零してしまう。
「でもまさか……ああクソ……甥っ子を絡めてくるとは予想外だったが」
上着の裾に零れた粉を、忌々しそうに払いながら。
「俺、昨日そんな事を言ったっけ」
「言ったさ。だいぶ疲れてたみたいだったから、半分グチ混じりだったがな」
「そうだったか」
売り方は、昨日夕刻の山師とのやり取りを思い出してみた。
確かに、生保とのやりとりに関しては愚痴を零した覚えがあった。
しかし、具体的にカネを山師の会社に入れるという意味の事を言った記憶は無かった。
「そうだよ。いや実際、感心してるんだよ。オマエがもうそういう境地に至ったか、ってな」
「境地って何だよ、大袈裟だな」
「まあ普通は、ある程度稼いだら、その後は会社を興すなり何なりで、社会に貢献する方向に向かうもんだろうが。俺がそうだったしな。それをオマエは一足飛びに」
「一足飛びに、何だ?」
「何だろうな、言わば仙人の境地か?」
「何だそれ、カスミ喰って生きてろってか? 給料はアテにしてるぞ」
「給料……? ああそうか、オマエうちの社員だったな」
「おいおい、本気で忘れてたんじゃないだろうな」
「忘れるワケはない、ただ忘れていたかっただけだ」
笑いあう二人。
多くの電話の声に掻き消されながらも、それはひととき場の空気を和ませた。
その後、入れたカネの処理についての打合せが行なわれ、その際に、売り方に現状の説明がなされた。
金額の数割分は株を新規発行し、青年はこの会社の支配株主になる事。
莫大な金額の為、東証や日証金へ連絡を入れた事。
更に、大幅な株数の拡大になる為、緊急の株主総会を開催せねばならない事。
(引っ切り無しにかかってくる電話の殆どは、その絡みだった)
その他、業務に関わる細かな事柄など。
「今日は、これから生保の連中が来るから、打合せだ。電話で話した限りじゃ、株を貸し出す事については問題無さそうだったし、すぐに話はつくだろう」
「そうか」
「念の為に
「……そうか」
売り方は、大きな話になった事に戸惑いを覚えていた。
元々は、初老に自分のバイオリンを売りつける為の単なる方策だったのだが。
しかし、ここまで来ると後には引けないのも事実。
そして、山師の言った“フリーハンド”という言葉に、誇らしいものを感じてもいた。
それは、相場の世界では、売買を極めた者に贈られる称号だったから。
「それにしても、税金はたっぷり取られたんだろ?」
「ああ、なんだかんだで半分近くな。ただ、不動産は右から左ってワケにはいかないから、まだ名義は完全に変わってないが」
「やっぱりな。だがそれだけの額を納めたんだ、年末には税務署からお歳暮が来るんじゃねえか?」
「止めてくれ、願い下げだよそんなもの。……しかしな」
「ん?」
「俺はてっきり叱られると思ったんだよ、何勝手な事をしてるんだってな」
「いや、さっきも言った通り、甥っ子に累が及ばなければ問題無いさ。しかし、本音を言うと、俺名義で移譲してくれればもっと良かったかな」
「そ、それもそうだな……」
「ん? まさか考えてなかったのか?」
「いや、考えてたさ。ただ、どうせなら未来ある若者の方が期待出来るだろ、色々と」
ソファの上、売り方の隣で、電話を終えた青年は疲れが出たのか舟を漕いでいる。
電話の様子から、少女の容態に変化は無い、というのは分かっていた。
売り方は思った。自分は何故、山師の事を考えなかったのだろうかと。
普通は、その方が話しの通りもカネの流れもスムーズになるのに。
「酷い言い草だな。俺はまだまだ若いつもりなんだが」
「社会貢献が主目的だったんじゃないのか?」
「……違いない」
うたた寝をする、青年の整った横顔を見る売り方。
そして思った。山師には少女は救えない。それが出来るのは、この青年医師をおいて他には居ないと。
昨日の病院で、青年に力を与えるべきだと、ボンヤリと思った事。
それは普段の思考をしている浅いところではなく、意識の下の無意識の部分、心の奥深くから出てきた発想。それはまた、相場で先見をする時の感覚にも似ていて。
売り方は、改めてその判断に間違いは無いのだと思い直した。
「じゃあ、あと気になるのは鬼女だけか」
山師は、甥である青年の事を心配している。
その憂慮は取り除いてやるべきだろうと、売り方は考えた。
「ああ、そうだが。まあ気にするほどの事でもないぞ」
「何言ってやがる。……とりあえずこちらから電話してみる」
確かに出入り禁止は宣告されていた。
だが、電話での連絡は別に禁止されていなかった筈。
売り方はそう屁理屈をたてて、鬼女の銀行に電話をかけた。
「どうだった?」
電話を終えた売り方に問い掛ける山師。
「どうやら、アイツは俺がここに居る事を察知したらしい」
「は? なんで、どうやって?」
売り方は、電話に出てきた、彼女の上司らしい男性の言った内容を山師に伝えた。
それは、ついさきほど鬼女が、店の前を通るシルバーのスポーツカーを見て、いきなり帰宅すると言って出て行った、というものだった。
シルバーのスポーツカーとは、時間的に言って売り方のものだったクルマの事だろう。
それを売り方ではない人間が運転している。
しかもそれは兜町の方から走ってきた。
彼女は、それが売り方の所有物だと知っているから、売り方が兜町に居ると判断するのは当然の流れだ。
「マズいな。今日はもう帰れ」
「え、いやしかし、良いのか? この後生保の連中と打合せが」
「一昨日もそうだったが、連中との打合せにオマエの出番は無いさ。それより、銀行からの因縁付けに甥っ子を晒さないでくれ。それが希望だ」
「……うむ、分かった。じゃあ今日はこれで」
「急げよ、あの銀行の本店からここまでは、大した距離じゃないからな」
ソファの上でついに横になっていた青年を起こす売り方。
そして、未だ電話のやり取りを続けている従業員達に挙手で挨拶をし、まだ足元のおぼつかない青年の手を引いて山師の会社を辞した。
「前から聞きたかったんですが」
夜の兜町の路地にタクシーは走ってこない。
それを拾うために大通りへ出る途中、青年が売り方に問い掛けてくる。
「貴方は何故売りに拘るのですか? 買いの方が圧倒的に有利でしょうに」
外は既に夜闇に包まれていた。
しかも気温も下がっている。青年の息が白く見えるほどに。
「……何故、そんな疑問を?」
「あ、いえ、私も株主という立場になるわけですから、基本的な疑問は解消しておくべきかと」
「ふむ……」
歩きながら話す二人。
青年が言うには、1円の株が100円になったら100倍の儲けだが、100円の株を空売りして1円で買い戻しても2倍の儲けしか得られない。それ故、株は買いを中心に行なうべきだ、というものだった。
売り方は苦笑しながら答えた。
確かに、買いなら配当や優待を受けられる可能性がある。その点では有利だろう。
しかし、100倍や2倍という風に考えてはいけない。仮にその1円の株を一万株買ったとして、100円になったら99万円の儲けで、100円で1万株空売りしても、1円で買い戻せば、やはり99万円の儲けだ。変わりは無い。
売り方が苦笑したのは、それが株の初心者を諌める時に使う単純なロジックだったからだ。
「そう教えてくれたのは、院長だったのですが」
「ああ、なるほど」
あの院長ならば、そこら辺のプロ裸足だ。だからズブの素人を諌めるなど朝飯前という事か。
「院長はキミの事を心配して言ってくれたんだろう。別にウソは言ってないしな。ただ、出来るだけ絶対値で考えるようにした方が良いぞ」
「は、はい……」
青年は、未だ釈然としない面持ちで続けた。
「こんなんで、私は株主としてやっていけるんでしょうか」
「クルマの中でも言ったが、株主だからと言って、具体的に何かをしろって話ではない」
念を押す様に、一旦立ち止まって、青年の目を見ながら。
「簡単に言うと、証券で一任勘定は違法になったからだ。だから当面はキミの名前を借りる形だ。無論、譲ったカネは全てキミのものだが」
「は、はい」
「だから、医者としての仕事に専念して良いし、そうして欲しい」
「分かりました、と言いたいのですが、金額が大き過ぎてなんというか実感が……」
そこへ、ビルの壁面を叩く様に響くパンプスの足音が。
「とりあえず、今は走れ!」
売り方は青年の腕をつかんで走り出した。足音から離れる方向に。
「待ちなさい!」
足音の主からの声。それは明らかに鬼女のものだった。
兜町の路地で行なわれる鬼ごっこ。しかしそれはすぐに決着がついた。
大通りまでもう少しと言うところで、売り方がビルの壁に張り付いたからだ。
「はっ、はっ、なんで、逃げる、のよ」
「ふう、ふう、そりゃ、オマエが、怖いから、さ」
持って来ていたバイオリンケースを、足元に置く売り方。
そして、ビルの壁に埋め込まれているインターホンを操作する。
鬼女から少し遅れて、銀行のカウンターレディが息を切らせながら到着した。
「何が、怖い、ものですか」
「どうせ、カネの出し入れに、いちゃもんつける、つもりなんだろ」
青年は膝に手をつき、息を切らせながらも、売り方と鬼女を見ていた。
そして、街灯に鬼女の横顔が浮かび上がったとき、それが知り人の様な反応を見せた。
「そんなもの、どうだって、良いわよ」
「え? じゃあなんでだ?」
「私は、そこのお兄ちゃんに、話しがあるのよ」
売り方は、青年を庇う様な仕草をして、言った。
「それがダメだというんだ。コイツは我が社の筆頭株主様だぞ」
「アナタね、何に引け目を感じてるのか知らないけどね」
売り方では話にならないと思ったか、その肩の向こう側に向かって話しかける鬼女。
「お互いの同意の上での事なら、何も問題は無いんじゃなくて?」
「ちょっと待て、何故オマエがその事を知っている?」
驚く売り方。
しかし、その動揺はすぐに青年によって打ち消される。
「それこそ当人同士の間だけの話です、部外者は口出ししないで下さい!」
売り方は、青年の凜とした返答を見て、また驚いた。
青年も、彼なりに覚悟を決めていたのだと。
青年が売り方に耳打ちする。
曰く、この女性は病院で何度も会って話をした事があると。
少女の、米国のクスリの手配も彼女の仕事だったのだと。
更に、少女の見舞いも幾度となくしてくれていたと。
そんな鬼女に向かって、青年は拒否の言葉をぶつけたのだ。
「部外者は黙ってろ、との事だが?」
「部外者なものですか。アナタんとこの院長は、ウチの信託の顧客だったんだから」
売り方は、なるほどと思った。
だったという事は過去形。つまり、鬼女の銀行からカネを引き上げて山師の会社に入れたのは、院長の方が先だったという事だ。
それでも、彼女が少女にしてくれた事にはありがたいものが有った。
それ故、機会を見つけて感謝の気持ちを伝えようと思った。
しかし、それはこの時ではなかったが。
「ああ、そう言えばな、会ったぜ、相場の神って奴にな」
言いながら、背後で薄く開いたドアの方を見る売り方。
「しかしありゃあ、神とかいう様なもんじゃなくて、精霊とか妖怪の類だろうがな」
「え、それはホントなの!?」
驚きに目を見開く鬼女。
「ああ、本当さ」
振り返って、ドアの向こうに居るガードマンらしき人間に何事か話しかける売り方。
すると、ドアが大きく開けられ、青年と売り方が招き入れられた。
「ちょっと、私も入らせなさいよ」
しかし、ガードマンに押し戻されてしまう鬼女。
それを背後で見ながらオロオロしているカウンターレディ。
そこは、東証の通用門だったのだ。
「ああ、その相場の神ってのは音楽が好きみたいだから、ピアノでも演奏していれば、そのうち向こうから出てきてくれるかもな」
ドアが閉じられる寸前に、鬼女にむかって言う売り方。
結局、悔しそうな鬼女の表情を張り付かせて、その通用門は閉じられた。
「アイツが諦めて帰るまで、中を見学しよう」
売り方は青年に、東証の内部を案内して回った。
僅かな常夜灯に浮かび上がる、無人の立会場。
その上にある食堂・ビュッフェ。
人気が無いせいか、初老の気配は全く感じられなかった。
売り方としては、今ここでバイオリンの売買をしても構わなかったのだが。
諦めて、更に上の階にエレベータで上る二人。
そこは、東証の職員用の食堂だ。
残業をしている職員の為か、そこだけは煌々と明かりがついていた。
外は屋上になっている。端には幾つかのベンチと植え込みの緑。
高い塀のおかげで、言われなければ、そこが地上数十メートルの空中庭園だとは分からない造りになっている。無論無人だった。
「ああ、これは良いな」
屋上に出て、売り方。
角度の都合で、下を走る車の音が、まるで砂浜に打ち寄せる波の音の様に聞こえる。
風も無く、空気自体も地面のそれよりは綺麗だ。
それになにより、13日くらいだろうか、中空に差し掛かり始めた月が綺麗だった。
「1曲どうだ?」
月に見惚れていた青年に向かって、売り方。
バイオリンケースを開けてバイオリンを取り出す。
辺りに漂う松脂の匂い。
売り方は、叩いた音叉を青年に持たせ、バイオリンの調弦を行った。
「リクエストは?」
調弦を終え、バイオリンを構えた売り方が青年に問い掛ける。
「クラシックとかはあまり詳しくないので……」
売り方の腕前は、カセットテープを聴いていたので、青年も知っていた。
ただ、アレを自分の実力と誤解されているのは、売り方自身にとっては少しプレッシャーになる事だった。
だが、それでもバイオリンを弾きたい気持ちは止められなかった。
それは、全財産を始末して気持ちが軽くなった所為か。
或いは、単に月が綺麗だからか。
売り方は、詮の無い事を考えるのを止めて演奏に集中する事にした。
その頃、入館を拒否された鬼女とカウンターレディは、諦めきれずに通用門の前に居た。
そんな彼女らの頭上に降ってくるバイオリンの調べ。
曲目は、ムーン・リバー。
滑るような音の響きが、聴く者の心を溶かす様だった。
「これだから、Vn(バイオリン奏者の事)は嫌いなのよ」
屋上の辺りを見上げながら、吐き捨てるように、鬼女。
「いつも一人だけで、自分だけ勝手に……!」
そして、再び通用門のインターホンに向かって行った。
「こんなものでどうかな?」
サンライズ・サンセットを弾き終えて、売り方。
青年は、ただただ感心した風だった。
「ピアノがあれば、もっと良い感じになるんだがな」
無い物ねだり。
しかしそれをしたくなるほどに、売り方の心は高揚していた。
「こんなに月も綺麗だし」
そこへ、背後の食堂からピアノの音が。
「……おいおい、ウソだろ」
開け放たれた食堂のドアと窓。
食堂の中にあった白いスタンドピアノ。その前に座る鬼女。
ピアノの横には、ガードマンと、それに向かってペコペコと頭を下げ続けるカウンターレディ。
奏でられる澄んだ音。曲目は、フライ・ミー・ツー・ザ・ムーンだ。
ジャズっぽいアレンジが加えられている。
思い出される歌詞と、鬼女の微妙な表情とのマッチングが、売り方を苦笑させる。
曲のほぼ終わりの辺りで、鬼女はポルタメント風の処理をした。
まるで、ここから入って来いと言わんばかりに。
売り方はすぐにピンときて、瞬時にキーを探り出し、同じ曲の演奏に入る。
だが、鬼女のアレンジでは、思った以上に窮屈なコード進行になる。
特に、E線の入りがタイトになる。
そしてそれらが、演奏を楽しむ事を勧めるかの様に、売り方の心の弦を軽く弾いた。
冷たく澄み切った大気の中、凍りそうなほどに青白い月の光に滲む様なピアノとバイオリンの二重奏。
それは、ガードマンや残業中の東証の職員たちのささくれ立った心を優しく癒しながら、暫く続けられたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます