第12話 原油
『ようビッグセラー、調子はどうだ?』
インカム越しに聞こえてきた山師の声は、売り方の心中に反して非常に暢気なものだった。
「なっ、何だ、いったい」
ポケベルの着信を待っていた売り方は、うろたえた返事をした。
それを山師は、連絡が遅れた事の非難だと受け取った。
『遅れてスマン。昼のバスケットは売り買い均衡だが、かなり大きく入ったそうだ』
言下に話題を変える山師。
バスケット売買は、殆どが大口と証券会社との
証券会社はザラ場でその反対売買を行なう為、バスケットが大きいと後場寄りの出来高が増える。
立会場には、意外と外部の情報は入って来ないものなのだ。
「そうか」
売り方は、紙パと石油との裁定の正体を見た様な気がした。
バスケット売買は、日経平均先物などとの裁定である事が多いからだ。
「で、さっきポケベルに連絡が入ったんだが。6桁で500731。これ、そっちからなんだろ?」
『ポケベルへ? いや、送ってないが』
当惑した風の山師の声。
『3861の件は送った。追加の買い750円で2000枚』
「ああ、それは見た」
そして売り方は、買い注文は出さず、前場で買った分を売りに出している事、後場の硬直状態にある現況、非常に違和感を覚えている事などを伝えた。
『違和感ねえ。具体的には何だ?』
「いや、これというモノは無いんだが……」
山師からの連絡ではない事が分かった今、5007に拘る必要は無いのかもしれない、と売り方は思った。
5007は石油の元売りであり、製紙工場は油を石油元売から購入している。
その為、紙パ買いに対するヘッジならば、原油高でメリットが出る銘柄を買うのが常道。
しかし、5007は下げ方向なのだ。明らかに買われていない。
そこへ、売り方のポケベルが再度鳴った。
『今、ポケベルが鳴ったんじゃねえか?』
山師の声に、ポケベルを取り出して確認する売り方。12時57分。先程と同じ電話番号からのものだった。
その内容を山師に伝える。
『114106? 意味不明だな。完全に間違い電話じゃないか』
山師の指摘。
発信元の電話番号は、病院のそれでもなかった。
「ああ、多分そうだろうな」
『じゃあ、もうポケベル切っておけよ。俺は後場の間ずっと社内に居るからさ』
「いや、それは……」
病院から連絡が入るかもしれない。
売り方は、少し躊躇った。
『おい、どうした? 前場のキレが無いじゃないか』
不審がる山師。体調の心配まで始める。
それに対し、売り方は、初老が出てきた夢の件を掻い摘んで話した。
『おいおい、まさかそれ、信じてるんじゃないだろうな』
山師が心配げに。
「いや、単なる夢だと思ってるよ」
と言いながらも、未だ違和感を振り切れない売り方、電光掲示板を見る。
日経平均も為替も原油も、特に大きな動きを示してはいなかった。
『でも、どこか気になってもいる、ってところか』
「ああ、まあ……」
しかし、大きな動きが無い事自体に、違和感の原因がある様な。
売り方は、そんな矛盾じみた事を考えた。
『ひょっとすると有るかもしれない。そう考えるから怖くなるんだぜ』
「ああ、そうだな……」
大きな動きの無い日経平均、為替、原油……。
原油の価格表示を見た際に、売り方は、あっ、と声を上げた。
『な、そうだろ? おまえはまだ夢だとは思ってないんだよ。だから……』
「そ、そうだ、夢じゃないかもしれない」
今日は月曜。表示されている原油の先物価格を決めているのはウェスト・テキサス・インターミディエイト(WTI)で、それはニューヨーク・マーカンタイル取引所で取引されている。つまり現地では、いま日曜の夜24時頃だ。
普通は、売買されている時間ではない。
『ちょ、待てよ。そんな事を信じてると』
「夢の話じゃない、いま現実に起きてる事だ!」
売買されていなければ、表示自体されない。
しかし今、原油の価格は表示されており、その上、数セントの動きまであるのだ。
売り方は、カウンターの前でこちらを見ている従業員に向かって、5007の板を確認する様、手サインを送った。
『初老ってのが現れたのか!?』
「いや、違う。もっと厄介なものだ!」
先だっての湾岸戦争。その頃には、(現地での)日曜にもWTIは開場していた。
参加者の多くを占めるユダヤ人達にとって、休日は土曜なのだ。
つまり、日曜に相場が動く可能性は有るし、その場合は、ユダヤ人達にとって重大な事件が起きた事を意味している。
従業員が、5007の板の様子を伝えてくる。
大した内容ではなかったが、周囲の場立ち達の注意を、5007と原油の表示に向けさせるには充分だった。
「WTIが動いてる! 外国で何か起きてないか調べてくれ!」
『は? 原油が? 今日何曜日だと思って……』
そこで、ユダヤ教の安息日を思い出す山師。
『分かった、若いのに調べさせる』
インカムの向こうから、おい外電を原油中心に洗え、という山師の声が漏れてくる。
数人居る、若手の営業マンに調べさせる様だ。
「じゃあ一旦切る」
売り方は、再び上がり始めた3861の動きを見ながら、インカムを外そうとした。
『ああ、ちょい待ちな』
それを遮る山師。
「何だ?」
訝しむ売り方。
3861は後場寄りの810円を越えて、815円を付け始めている。
買い板も厚くなっている様で、売りを浴びせるには絶好の状況になりつつあった。
『生保の人間が、もう間もなく来るのよ。そしたら、さっきみたいに初老とかの話は出来ないからな』
傍で聞かれたら正気を疑われかねない内容なので、山師の配慮は当然だった。
「あ、ああ、分かった」
従業員に、3861の板を確認する様、手サインを出す売り方。
売り方の意識は、今はそちらに集中している為、生返事になった。
3861は、いよいよ818円の売り板を喰い始めた。
13時06分。売るなら今だが。
『なあ、ホントに分かってるのか?』
「分かってる、今は3861の売りに集中したい」
多少苛ついて、売り方。
しかし、山師は納得しなかった様で、続ける。
『その3861の売りってのも、初老とやらの言った事を信じてるからだろ』
「そうじゃない、原油が上がれば紙パは下げだから……」
『そんな薄い筋を気にしてどうする? ちょっと慌てすぎだぞ、後場のお前』
そこへ、従業員が3861の板の状況を報せてくる。
819ヤリの818カイ。
節目の815円は、1000枚余りの厚板になっている。
立会場も動き始めた。
連絡員達の、WTIの問合せや、5007への買いを促す声などが響いた。
周囲も、何か異変の前兆を嗅ぎ取っているのだ。
紙パと5007との裁定(?)を仕掛けている大口の存在も気になっていた売り方は、危機感を持ち始めた。
件の大口も、自分と同じ様に3861の売りを考えているのではないか?
それも板に注文を乗せずに、板の外から成りで注文を出す形で。
今、それを出されたら、目の前の儲けを丸々持っていかれてしまう!
「俺は正気さ」
落ち着こうとして、そんな事を言う売り方。
『そうか? じゃあ、その初老とやらの顔を憶えているか?』
「えっ?」
意表を突かれる売り方。
そういえば、と思う。彼の顔は明らかに父親のそれとは違うものだったが、それ自体は全く憶えていなかった。
全般的に無表情だったが、しかし、顔の造り自体は憶えていない。
「お、憶えていない……」
『そうだろ、夢だったんだよ。それか無貌の神か?』
茶化す様に言う山師。
しかし、今の売り方には、それは冗談と思えなかった。
もしあの初老が実在し、自分の要求通りに3861の値を動かそうとするならば、現在はそれが綺麗にお膳立てされた状態だからだ。
従業員が3861の板を報せてくる。
とうとう819円の売りが完食され、820円が数枚買われ始めた。
件の大口も架空の存在だが、ここまでの展開から考えて、確かな存在感がある。
確実に、間も無く売ってくる。
それが信じられるのに、何故初老の存在は信じない?
売り方は、自らの思考に恐怖した。
『だからさ、今は初老とか少女の事とかは忘れて、相場に』
「3861! 820の指値売りを全数成り売りに変更しろ!」
山師の声に被せる様に、大声と手サインで従業員に指示を出す売り方。
『うるせえ! 聞いてんのかっ!』
インカムで大声を聞かされ、流石に憤る山師。
「スマン、集中してるから3861を売ったんだ」
『何言ってるんだ!? まだ相場は上げ方向だろうが』
確かに、その時点で日経平均も為替も、ジリ上げで推移していた。
それに、まだWTIの件も分かっていない。
山師の疑問も、もっともだったが。
だが、そこで原油の表示が変わる。
一気に1ドル上げたのだ!(湾岸戦争時の最高値が1バレル当たり25ドル)
そこへ、従業員が3861の約定を報せてくる。
売り方の成り売りは、815円の厚板を半分喰ったところで吸収されていた。
平均で817円辺りか。
つまり、利幅47円×1900枚=8930万の利益確定だ。
決して悪い売買ではなかった。
「おい、クイック見ろ。原油が跳ね上がったぞ」
『なんだと!?』
売り方の指摘で、山師が、近くに有るであろうクイックの端末を覗き込む。
そのゴソゴソいう音が、売り方のインカムに聞こえてくる。
『す、凄いな……なんでだ?』
「知らんよ。WTIの件はこっちが聞いてるんだしな」
『いや、そうじゃなく、何故このタイミングが分かったんだ?』
「ああ、それはな」
売り方は少し考えてから、言った。
「相場に集中してたからさ」
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