第13話 場立ち
『言ってくれるじゃねえか』
「ああ、それとな」
山師の返しを軽く流して。
「5406の客と、今日買った小口の客全員に、とりあえず売っては如何と提案しとけ」
この時点で売り方は確信していた。相場はこれから下げに入ると。
その確信に応える様に、他社の場立ち達が3861への売り注文を出すべくカウンターの前に殺到した。
約定していた従業員が、カウンターの前から弾き出される。
時計を確認する。13時11分だった。
売り方が、3861の売りを成りに変更したのが概ね3分前。
つまり、売り方の先見通りの展開になった。
もっともこの下げは、売り方自身の売り浴びせが切っ掛けだったのだが。
『売らせろって?』
「そうだ、この下げはキツいものになりそうだからな。前場の買値を下回るかもしれん」
売り方は、従業員に5406の板を見る様に指示を出した。
電光掲示板では、まだ買値より遥かに上の値段が付いているが、売り方は、この下げは全業種に影響すると踏んだのだ。
『いや、気持ちは分かるんだがな』
「じゃあ悠長な事を言ってないで、さっさと客に電話しろよ」
暢気な山師の声に、僅かに苛つく売り方。
電光掲示板では、為替が再び円高方向に走り始めた。
『おいおい、俺らが今、何やってるか忘れちまったのか?』
「相場だろ」
何を今更と即答する売り方。
3861は、成り売りの連続で800円を割ってしまっていた。
『違う。客の注文を執行する証券業務だ』
「では、客に損させても構わないと?」
5406は、鉄鋼全体の上げの中で未だ値を保っているが、長続きはしない感じだ。
『あのな、オマエみたいな考えの人間ばかりじゃないのよ、株の客ってのはな』
「しかし、誰でも損するのは嫌だろ」
『そうじゃねえんだよ。例えば小口の4件、ありゃ全員貧乏サラリーマンだ。仕事中に株屋から電話が入るのを極端に嫌う』
「それでも」
『前場での約定は連絡したさ。昼休みの時間を狙って。喜んでたよ、全員な。それで俺らは手数料を頂戴して、この仕事は終わりだ』
山師の言っている事は、証券業を営む者としては至極真っ当なものだった。
「ん、まあ、小口はそれで良いとしても、2件の大口は?」
『彼らこそ、小まめに連絡を入れられる事を嫌う。自分の読みを否定されていると思う傾向にあるからな、ああいう連中は』
「…………」
自分の注文が勝手に弄られていたら、そりゃ良い気分はしない。
仮に、それで儲けが出たとしても。
売り方は、先日までの自分の売買を思い出し、納得せざるを得なかった。
『それとな、オマエさっき3861売っただろ。出来たのか?』
「ああ、約定した」
売り方は、それで得た利益を伝えようとした。が、それに被せる様に山師が。
『それな、問題だぜ。一度売られた事を知らない客が、再度手仕舞いしてくれと今日の内に言ってきたら、どうする
この場合、資金の額によっては、差金決済になってしまう。
現物口座で差金決済は出来ない。
「いや、それは最悪、
『言っただろ、新規の客だって。だから信用口座用の審査なんて未だやっちゃいない』
つまりパッチは出来ないという事だ。差金決済もまた然り。
『それにこの客は、あくまでも買いの注文しか出してねえんだ。値段はある程度の裁量を認める形だったがな』
そこまで聞いて、売り方は自分のミスだった事に気付いた。
慌てて、従業員に3861の板を見る様に指示を出す。
それで売り方は、また違和感を覚えたが、今は気にしない事にした。
「スマン、調子に乗ってた。昼の注文750円に乗っける形で、買い注文を出しとく」
『ダメだ、前場と同じ値段770円で1900枚買え。そうでないと拙い』
「そんなもん、最良執行をした、で通せよ」
従業員が板の状況を報せてくる。
現在790円で、その下は10円刻みの節目ごとに500枚前後の買い注文が有るだけで、スカスカの状態。
これで大きな成り売りが入ったら、770円などあっさりと突破して下がるのは明らかだった。
『もう言っちまってんだよ、770円で1900枚買えましたー、ってな』
それを聞いて、売り方は違和感の本体を見た様な気がした。
「ちょっと待て、その大口は幾ら口座に入金してるんだ? 差金はそれ次第だろ」
『え? あ、そうだな……』
3861は790円の買いを喰ったが、787円辺りで一旦止まっていた。
為替の円高と原油の高騰は継続していたが、売りの一旦の買戻しが入っている為。
それは、天井で売った後、動きを見せない売り方を他社の場立ちが警戒しているからだ。
『スマン、ちょっとド忘れしちまってな』
「おいおい、数人しか居ない大口の中身すら憶えてないのか?」
驚く売り方。
と同時に、売り方の中に或る予感が芽生えた。
『いやスマン、今からちょっと調べて』
少し狼狽した雰囲気の山師。
それに被せる様に売り方。
「まさか、その大口の名前も忘れてるんじゃないだろうな?」
『名前、って……』
憶えていない。
インカムが、山師の絶句を売り方に伝えた。
「それは、俺と同じ苗字じゃなかったか? いや、多分そうだ」
『そうだ! 思い出した!』
従業員が、再度3861の板を報せてくる。
785円の攻防に変わった様だ。
カウンターの前が賑やかになり始め、従業員が何度も弾き出されている。
「おまけに、そいつは70がらみの爺だ」
『そっ、その通りだ。凄いな、なんで知ってるんだ?』
憶えていなかった事の衝撃から解き放たれる様に、山師。
『あ、ひょっとしてオマエの親戚か何かか?』
「俺に親戚は居ない。知ってるだろ」
売り方の予感は、確信に変わった。
「恐らくだが、さっき俺が話した、例の初老だろう」
『初老って、まさか……』
インカムが、二度目の山師の絶句を伝える。
売り方は従業員に、3861を750円で2000枚の買い注文を手サインで送った。
それは周囲の場立ち達も見ていたが、有り得ないという表情が大勢だった。
ただ、カウンターの中の実栄証券達は、忙しそうに動き回っている。
「奴が俺の持ってる注文を知ってるのは、当然なんだ。なんせ、自分が出したものなんだからな!」
売り方は思い出した。
初老は、仮に相場の神だとしても、必ずしも相場の中だけにしか存在出来ないワケじゃない。
立会場には誘われたから来ただけで、最初に会ったのは、証券会社の店頭の路上だったのだから。
『有り得んっ! “相場の神”なんてモノが、居てたまるかっ……!』
そう言った山師の背後から、来客の旨を伝える声が聞こえる。
「俺に、相場の神の存在を教えてくれた人間の言うセリフか?」
『いや、アレは……単に相場に伝わる伝説と言うかだな……』
山師は完全に狼狽してしまった。
無理も無い、今まで手張りの言い訳として使われてきた架空の存在が、いきなり実在するという事実を突きつけられたのだから。
「差金の件は気にしないで良いと思う。なんせ注文を出した本人が相場を煽ってるんだしな」
山師を落ち着かせようとする売り方。
だが、その売り方の目は、カウンターの中に釘付けになっていた。
実栄達が動き回っている、正にその中。
インカムの向こうからは、山師への来客を告げる声が繰り返されている。
「それより、生保が来たんじゃないのか?」
『そ、そうだが……じゃあ、3861の件は、とりあえず任せて大丈夫だな?』
「ああ、大丈夫だ」
実栄達が着ている茶色のブレザー。それに紛れる様にブラウンのジャケット。
『ちゃんと買っておけよ』
「任せとけ」
『何か有ったらすぐに場電を使え。若いのに相手させっから』
「了解」
それで売り方は、場電を切ろうとした。だが。
『後場が引けたら、すぐに会社に来てくれ。生保への説明が要る』
「あいよ」
山師は、それでやっと場電を切った。
「さて、と……」
インカムを外し、席を立つ売り方。
カウンターへ歩み寄る。
その中では、実栄達が板の書き換えにテンテコ舞いだ。
売り方は、尚も残る、焦燥にも似た違和感を持て余していた。
どうやったら、この不快な気分を解消出来る?
時刻は、13時30分を少し回ったところ。
為替は、10銭程度の円高に振れている。
原油は、1ドル上げた後に数セントの上下を繰り返している。上げの原因は未だ不明。
相場全体は、それらの流れを受けて下げ方向に入っている。
業種では、紙パが特に下げている。
その中で3861は、売り方の750円買い注文が板に乗ると、それを待っていたかの様に売り注文が出され、一気に下がっていた。この時点で775円だ。
「どうしましたか!?」
場電を放置した事に驚いた従業員が、売り方の傍に駆け寄ってくる。
山師が生保との打ち合わせに入った今、場電の前に座っている必要は無いと、売り方は判断した。
しかし、WTIの件は未だ不明だ。連絡が入るかもしれない。
売り方は、それらの事を従業員に伝え、場電の番をする様に指示した。
「やっぱり、我慢出来なくなったんですね」
そんな事を言って、ブースへ向かう従業員。
売り方は苦笑いしてしまった。
欧州の早起き組が参加して来るのは、普段は14時頃だった。
それまでには、まだ時間が有る。
売り方はその間に、カウンターの中にチラチラと見え隠れする、初老めいた人物の腕を掴んでやりたくなったのだ。
しかし売り方は、その初老めいた人物を捕まえる事は出来なかった。
カウンターの中の、実栄達に混ざっている初老。
そのカウンターへ行く売り方。
しかし、売り方がそのカウンターの前に着くと、いつの間にかその初老は、そこから遠く離れたブースの前に居る。
そのブースに行くと、今度は真向かいのブースに居る、と言った具合。
しかも、移動した時間すら感じさせない。
まるで瞬間移動。
もっとも、その存在感が最初から揺らいでいるので、そもそも移動したのかどうかも怪しかったのだが。
まるで蜃気楼を相手にしている様だ。
時間の無駄を悟り、3861を扱っているカウンターに行く売り方。
1900枚の買い注文を出す必要がある。
場立ちを掻き分け、板を見ようとする。
しかし、その場立ち達から押し戻される。
売買が活発なカウンターの前に出るのは、ブースの中から見るのよりも、ずっと大変な事だった。
それでも、なんとかカウンターの前に辿り着く売り方。
しかし、他の銘柄の板が邪魔で、よく見えない。
それを見計らってか、カウンターの中の実栄証券が、3861の板を売り方の前に出してくれた。
773ヤリの772カイ。
770円の買い注文を出すなら、そろそろといった所だ。
「ありがとう」
素直に礼を述べる売り方。
しかし、首から下の動作は、それに準じなかった。
乱暴にその手首を掴む。
板を出した実栄の袖は、ブラウンのジャケットのそれだったからだ。
「捕まえたぞ、このエセ神もどきが!」
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