第11話 後場

 

「す、すいませんっ!」


 売り方に叱責されたと思ったか、従業員が条件反射的に頭を下げる。


「あ、いや……」


 口ごもり、辺りを見回す売り方。

 いきなり寄り前の慌しい雰囲気の中に立たされ、面食らっている。


「なあ、俺は今、何をしていた?」

「は? ああ、えっと」


 予想外の質問に、今度は従業員が口ごもる。


「席に居て、何か紙をじっと眺めてらっしゃいましたが」


 取り乱してはいなかった様だったと、とりあえず安心する。

 そしてどうやら、周囲の人間には、初老は見えていなかった様だ。


「脅かして済まなかった、ちょっと他所事よそごとを考えていてな」


 片手を上げ、軽く会釈をして謝罪の意を示す。


「慣れない仕事で、お疲れなんですね」


 従業員のフォロー。

 それは居眠りの示唆を言外に匂わせるものだった。


 確かにそうかもしれない、と売り方は思った。

 自分には疲れが溜まっている自覚が有る。

 初老とのやり取りは、それが見させた白昼夢だったのではないかと。


 周囲を見回す。

 先程までの不思議な雰囲気は全く無く、鉄火場に相応しい、殺気立った場立ち達の動きと、冷えた空気が充満していた。


 売り方は、自分の頬を両手で叩いた。

 寝てるのなら目覚めろと。


「そろそろ時間だな。せんぱ、いや、社長は何と?」

「あ、社長はまだ帰って来てなくて。13時までには帰社されるそうです」


 腕時計を見る売り方。後場の寄り付きまであと10分だった。

 周囲やカウンターの前では、場立ち達が慌しく行き交っている。


「で、後場寄りはどうしますか? やはり5401の売りは外しますか?」

「あ、ああ、そうだな……」


 売り方は考えた。後場からは大口達が参戦してくるだろう。

 それで板が厚くなって、売りも買いも窮屈な展開になるだろうと。


「いや、5401の売りは、両方ともそのままにしてくれ」


 東証の職員から余計な詮索をされたくなかった。

 そのままにしていても、約定しなければ、注文を出していないのと同じだからだ。


「分かりました」


 従業員もある程度は予測していた様で、特に疑問を差し挟まなかった。


「では、3861王子製紙の買い注文を出しておきます」

「そうだな、後場寄りは、とりあえずそれだけで」


 そう言いながら、売り方は椅子に座ろうとした。

 それで、自分の足元に目をやる。

 そこには、他社の場立ち達が捨てた注文表に混じって、自分が描いた前場のチャートが有った。


「……いや、3861買い注文は待て」


 チャートを拾い上げる。形式は10分足のローソクだ。


「え、出さないんですか?」


 訝しげな従業員。


「ああ。逆に売りだ。前場で買った1900枚、全部」


 チャートを見直す売り方。それには、描いていない筈の後場のローソクが見えていた。


「ああ、繋ぎ売りパッチですね。で、幾らで指しますか?」


 それは、3861がローソク4本目、つまり13時10分以降、前場の買値より下がる事を示していた。


「いや、パッチか現物の手仕舞いかは後で決める。兎に角、寄りプラス10円で売れ」


 このまま持っていては損になる。たとえそれで追加注文が約定するとしても。


「え……」


 流石に驚く従業員。折角安く買えたのに、それは無いだろうという表情になる。


「いいから行け、もう始まるぞ」


 従業員をカウンターへと送り出し、席に付く売り方。

 チャートを見直す。後場のローソクは当然ながら描かれていない。


 テーブルに一つ溜息を落とす。

 売り方は、調子が良い時には、先程の様に30分程度先のチャートが見える事があった。

 所謂“先見さきみ”。しかし、今日は調子が良いとは言えない。

 

 十数年ぶりの立会場、慣れない客の金扱い、それに不思議な夢。

 疲れている上に混乱している。

 そこへ先程の先見。

 あれは自分の力ではなく、もしや初老のサービスではなかったのか?


 いや、と一度首を振って、自分の考えを否定する売り方。

 あんな白昼夢もどきを信じて相場を張る等という事は、してはならない。

 ましてや、今は他人の金を扱っているのだから。

 例えそれが10桁という、売り方から見たらハシタ金でも。


 12時30分。後場が始まった。

 売り方の読み通り、前場の活況を聞きつけた大口達の参戦が有った様で、どこのカウンターの前も大混雑となっている。

 そんな中、従業員が3861の売り注文の価格を、手サインで報せてくる。


 売り方は電光掲示板を見た。

 3861は、金曜の引けである800円から10円上げの810円で後場寄りしていた。

 そして、従業員が手サインで示してきた売りは、ピッタリ10円上の820円。

 従業員の読みの確かさに、売り方は親指を立てて見せた。


 他社の場立ち達は、今は自分達の注文を板に乗せるのに精一杯で、3861の売りには気付いてない様だった。

 その状況を見て、売り方は従業員に、5401の売りを外す様、手サインを送った。

 それを見て、了解の意を示してカウンターに張り付く従業員。

 その注文は、東証の職員には気付かれずに通った様に見えた。


 とりあえずの注文を約定させて、一息つく売り方。

 カウンターの前や他社のブースは、まだ賑やかだ。


 電光掲示板を注視する売り方。

 個別は頻繁にその値を変えるものの、値幅はごく小さいものだった。

 それを証明する様に、為替と日経平均もまた、出来高は多そうなのに小動きだった。

 このままなら、3861は新規の買い注文・750円までは下がる事無くザラ場を終えそうだ。

 売りも特に約定させる必要も無く、事実上、今日の仕事は終わったに等しい。


 しかし、売り方は何故か座りの悪さを感じ続けていた。


 先ほどの自分の先見が、自分で気になるのか。

 それなら、指値注文を成りに切り替えて、さっさと約定させてしまえば良い。

 そう思い、3861の電光掲示板を見る。

 今は805円で出来ていた。この状況ならば、ほぼ先見の通り。

 つまり、この後、後場寄りの価格+10円までは上がって来る。

 だから、成り売りに切り替えて、約定価格を下げさせて自ら儲け幅を減らす必要は無い。

 その筈だった。


 しかし、そう分かっても、謎の違和感は消えなかった。


 従業員をブースに呼び戻す。

 鉄鋼関連の板を見ていた従業員が、小首を傾げながらブースへやって来る。


「どうしました?」

「ああ、スマン……今、何か新しいネタとかは出ていないか? 他の場立ちからとか」

「自分はずっと5406の推移を見てましたんで、特に何も聞いていなかったんですが」


 従業員が、少し申し訳無さそうに言った。


「そうか……」


 そんな美味い話が転がってるワケないな、と呟く売り方。


 その呟きが聞こえたか、従業員が提案する。


「あ、それなら、今からそれとなく聞き耳を立ててきますか?」

「いや、そこまでの話じゃない」

「大丈夫です、ちょうどヒマしてましたから」


 従業員は、後場寄りよりはかなりマシになったとは言え、まだ喧騒の残るカウンター前に向かって行った。


 従業員の楽しげな足取りを見ながら、売り方は、違和感が焦燥感に変わりつつあるのを自覚した。


 為替や日経平均等に表される地合いは、特に変化は無い。

 個別の動きも、重く安定したものになっている。

 目先の注文も、とりあえず完了している。

 では何が自分をこんな気分にさせている?


 そう自問自答を繰り返していると、不意にポケットの中のポケベルが鳴った。


 500731


 6桁だけの通信。山師との取り決めでは、必ず10桁になる筈。

 それが6桁という事は、おそらく何らかのアクシデントで途中で送信してしまったのだろう。

 送信元の電話番号を確認する売り方。それは、見た事の無いものだった。

 それは多分、どこかの公衆電話。


 時刻を確認する。12時49分だった。

 山師が出先から掛けて来たのなら、微妙な時間だった。

 或いは間違い電話か、または混信か何かか。


 山師からの連絡だとして、と考え始める売り方。

 山師との取り決めでは、頭の4桁は証券コードを示す事になっていた。

 今回の場合は、5007=コスモ石油だった。

 電光掲示板を見る売り方。

 すると、石油関連は目立った動きは無いものの、5007だけは下げ方向だった。


 31は株価を示すが、その時点で出来ているものとは、余りにもかけ離れた数字だった。


 紙パと石油との裁定を仕掛けている大口が居るのか。

 そう考えた売り方は、おそらく来るであろうポケベルの着信を待った。

 しかし、先に場電が着信を報せた。

 時刻は、12時53分だった。



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