第10話 主観と客観

 

「あの時の大手の奴の顔ったら、なかったっすよ」


 11時30分。3階にある食堂。

 大勢の男達。その熱気と喧騒。

 ザラ場中の立会場よりも騒々しかった。


「ザマミロ、って心の中で何回も叫びましたね!」


 その中で、きつね蕎麦を啜る売り方。

 隣の席には従業員。

 前場の売買について熱く語っている。


「おい、いい加減食べないと冷めるぞ、そのカツ丼」


 照れ臭くなった売り方が言った。


 思った以上に疲れた売り方は、食欲が無かった。

 前場は、明らかに上手く行き過ぎた。

 好事魔多しと言うし、地合い自体が不安定で、午後からは円高で下げるかもしれない。

 その為、前場で買った現物について、パッチを当てる(同数の繋ぎ売り)必要が有ると考えていた。


 そんなこんなで、何かしら腹の中に入れておかなければならない。

 更に、アゲがソバに来ます様にと、売り方なりに縁起を担いでもいた。


 売り方の言葉に素直に頷いて、食事を始める従業員。

 そこへ、売り方の上着のポケットの中のポケベルが着信を報せた。

 取り出して表示を確認する。


 3861602021


 これは、山師との間で取り決めた事柄。

 山師が出先に居る時や、売り方が場電の前に居ない時に連絡を取る為に、売り方のポケベルを使う事にしていたのだ。

 左から4桁が証券コード、その次の2桁が株価の下二桁、更にその次の3桁が数量。

 今回の場合は、202=20×10の2乗=20×100=2000枚(200万株)。

 最後の一桁は、1=買い、2=売り、0=取り消し、としていた。

 つまり、今回の通信は、3861王子製紙を750円で2000枚買い、という事を意味していた。


 恐らく、今朝に3861の買いを注文してきた、新規の顧客からのものだろう。

 午後から超大口の客が来社するというのに、自ら客先回りをする山師の義理堅さにも驚くが、前場で下げていた銘柄に、更に追加の買いを入れて来るこの客も中々のものだ、と売り方は思った。


 普通の人間なら、株は上がってる時に買いたがり、下がってる時に売りたがる。

 つまり、絶対値としての価格を見ずに、相場の雰囲気に釣られてしまうのだ。

 しかし、現実には逆にするべきだ。

 スーパーマーケットなどでの買い物でも、安売りの時に多く買うのと同じ様に。


 これは、分かっていても中々出来る事ではない。

 それを、この新規の顧客はやって見せている。

 しかも、二度に分けて買え二度に分けて売れ、の基本まで実践している。

 こういう客は長続きするし、落とす手数料的に考えても、大切にするべきだと。


 売り方は、そこまで考えて、自分もかなり山師に毒されたか、と苦笑した。


 ポケベルを従業員に渡し、内容を確認させる。

 売り方達は、相変わらず周囲の注目を浴びていた。

 後場の寄りには知れる事でも、出来るだけ時間は稼いだ方が良い。

 事前に知れてるのと、寸前に判明するのとでは、情報として雲泥の差があるからだ。


 従業員も、数字の見方は知っていた。

 従業員は軽く頷くと、ポケベルを売り方に返し、自分は一旦会社に戻ってまた来ます、と言った。

 山師の地場証券は、東証のごく近くにあった。

 それで売り方は、立会場でまた会おうと言って、食堂を後にした。



 11時45分。立会場。

 ブースの椅子に座る売り方。

 立会場は照明が半分落とされ、薄暗い。

 従業員の様に、一旦会社に戻っている者が多いのか、閑散としていた。

 カウンターの中には、実栄と思しき茶色のブレザーが一人、何か作業をしている。


 売り方は、目を閉じて前場の展開を反芻した。

 一言で言うと、出来過ぎだった。

 波に乗れているとも思えたが、それでも自分の建てに対する反応が余りにも良過ぎた。

 それはまるで、誰か第三者が恣意を持って相場の流れを作っている様に……


 首を振り、目を開く売り方。

 目の前のテーブルには、前場の状況を表した資料が配布されていた。

 売り方は、おかしな方向に行きかけた思考を直すべく、その資料を使って、前場の簡単なチャートを注文用紙の裏に描く事にした。


 5406と3861、それに日経平均の10分足のチャート。

 それを見つめる売り方。


「…………」


 それもまた、普段とは違う、言葉では上手く言えない不思議な雰囲気を纏っていた。


 昔、山師が言っていた事を思い出す。

 チャートの隙間から滲み出る様な不自然さ。宛がわれた様な空気感と、それから類推される欠損の存在。

 誰が作って、誰が埋めたのか……?


(ようやく来られたのですね、ミスター・フィドラー)


 売り方はギョッとした。

 20メートルは離れているカウンターの中に居た実栄が、いきなり目の前に現れたのだから。

 いや、その実栄は、未だカウンターの中に居る。

 しかし、目の前にも茶色の、いやブラウンのジャケットを着た人物が。

 それらは同じ人間の様に見えて、同時に別の存在の様にも見えた。


「……どうやら待たせてしまった様だな」


 相場師としての本能か、動揺を悟られまいと、とりあえず話を合わせる売り方。


(いえ、お呼び立てしたのは此方こちらですから)


 その人物の後ろの風景が、いつの間にか変化していた。

 数人居た場立ち達が、皆その動きを止めている。

 更に、彩度と明度、遠近感までもが下げられ、それはまるで舞台の書き割りの様に。


「それでも、また会えて嬉しいよ」


 売り方は思い出した。

 この銀髪、風貌、所作、言葉遣い、それに纏った不思議な空気。

 この男は、証券会社の店頭で逢った、チェロ弾きの初老だと。


「今日はチェロを弾かないのか?」


 動揺が収まらない売り方は、とりあえずの疑問を口にした。


(楽器の演奏をした覚えはございませんが)


 何の事だという表情で答える初老。


「何を言ってる? あんな立派なバロックレプリカを持ってるくせに」


 実際には、ベースとなったモデルは無く、オリジナルなのだろう。

 少なくとも、売り方は、あんな奇天烈なチェロは見たことも聞いたことも無かった。


(貴方が見事なフィドルを演奏されていたのは拝見しましたが)


 何かと勘違いしているのか? という表情で答える初老。

 ヨタ話をしてる場合ではないだろう、という意味だと思った売り方は、本題を切り出す。


「この前、なんでも買えば良い、と言ったな。あれは本当か?」

(本当です)

「では、なんでも売ってくれるのか?」

(相場で扱うものならば)


 即答だった。

 売り方が何を聞いてくるのか、まるで事前に分かっていたかの様に。

 それは、売り方に或る一人の人物を想起させた。


「では、命を売ってくれ」

(それは既にお持ちでしょう。有る物は売れません)


 或る一人。それは、売り方の父親。

 まるで父親が息子にモノを教える様な、当たり前を当たり前と伝える、疑問を差し挟ませない毅然とした言い方だったから。


「一つで良いのだが」

(命とは、既に有るところに加えても一つにしかなりません。追加は無意味です)


 初老の物言いに、苛つくものを感じる売り方。

 息子が父親に対するように、口調がぞんざいになる。


「足したら、その分力強くなるんじゃないのか?」

(そういうものではありません。言うなれば口座と同じです。命とは中身の為の枠の様なものなのです)


 命とは体の中に有るもの。つまり命にとって、体こそが枠の様なものだと認識していた売り方には、それは意外で且つ理解出来ない考え方だった。


「じゃあ、無くした時の為の予備って事で良いだろ?」

(中が空ろな枠に意味は有りませんし、意味の無いものは存在出来ません)


 結局売れないんじゃないか! と切れそうになるのを、売り方はすんでの所で堪えた。

 それで。


「禅問答をしたいわけではない」


 と、とりあえず不毛な押し問答を一旦切る事にした。


 薄暗い部屋、空ろな目でベッドに居る少女の姿を思い浮かべる売り方。

 ここで話が終わったら、やっと逢えた初老をまた逃がしてしまう。

 それだけは避けねばならなかったから。

 売り方は、少し間を取って冷静になろうとした。


(失礼しました。持っていない人にしか売れないものも有る、と言い直させて下さい)

「い、いや、こっちこそ」


 意外な気遣いに、戸惑ってしまう売り方。

 それで、気まずい空気が両者の間に流れる。


(私の方からも、一つ質問をさせて頂いて宜しいでしょうか?)


 空気を嫌ったか、初老から問い掛けてくる。

 売り方は、軽い首肯で応えた。


(何故、売りに拘るのですか?)


 それは、今までに数え切れないほどされた質問。

 そして、答えた回数もまた無数。

 それ故、解答は容易だったが、今回は少し状況が違った。


「別に拘泥してるつもりは無いが」


 売り方は、数々の解答の中から、最も無難なものを選んだ。

 売りもやれば、買いもする。

 直後に何かを言おうとした初老が、何故か口を閉ざした。

 被せる様な言い方を自重したのか。


(それは……嘘ですね)


 3拍ほど間を取って、やっと話す初老。


(貴方はセラーとして名を馳せていらっしゃいます。これは紛れもない事実です)

「そんなもの、パドック雀が姦しいだけだ。現実には売りっ放しという」


 事は有り得ない、と言おうとしたところで、初老が手の平を売り方に翳して見せてきた。


 発言を遮るその動作。

 売り方が話すのを止めたのは、初老の動作の所為だけではなく、その手を見たからだ。

 節くれだったゴツい手指。皺の間には、洗っても落ちない長年の油汚れが。

 鈍い光を放つ、出来たばかりの金属部品。

 それを、細かい説明をしながら誇らしげに見せる、そう父親の手。


(私が楽器を演奏していた、と仰いましたね? それと同じです)


 父親は、土地や工場を担保にして、取引先の親会社の株を買わされていた。

 しかも、更にそれを担保にして銀行から借金し、工場の回転資金にしていた。

 それを見ていた学生時代の売り方は、証券会社に就職して、父親のファンドマネージの様な事が出来ないかと考えていた。

 若かったのだ。


(貴方の行動を決めるのは貴方自身の主観ですが、結果を判定するのは客観です)


 父親は、売り方が工場を継ぐ事を拒否していた。

 役所などの堅い仕事に就く事を望んでいた。

 不況になっても食いっぱぐれが無いからと。

 しかし、売り方は証券会社に就職した。

 良かれと思ってした事が、父親からの勘当という結果を呼んだ。


(貴方は過去に囚われています。それは可能性を自ら制限しているのと同義です)


 父親との喧嘩別れから程なくして、世界を第一次オイルショックの不況が襲った。

 父親に恐ろしいほどの負債が発生し、重圧となって圧し掛かった。

 取引先や銀行は、自分達の事で手一杯であり、零細の工場は無視された。

 借金取りを除いては。


「……もう止めろ」


 夜半、暗い工場こうばの中、天井からぶら下がる黒々とした大きな何か。

 それは売り方の精神的外傷トラウマ

 反発しつつも頼っていた只一人の肉親が、唐突に物言わぬモノになっていた、あの日。


(ミスター・フィドラー、稀代の相場師よ。偏った思考を捨て、相場に正面から向き合い、更なる高みへ昇られる事を望む者が)

「止めろと言っている!」


 それ故に、売り方は売りに拘った。

 価値が上下するものを保持し続ける事に、強い忌避感を抱いていたのだ。

 そして、それは現在いまでも。


(…………)


 初老は、翳した手を伸ばして、売り方の肩に触れようとした。

 しかし、その寸前で止め、戻した。

 俯いた売り方の肩が、小刻みに震えていたからだ。

 それは悲しみに依るものか、それとも怒りを抑えているのか。

 初老には、その判別がつかなかった様に見えた。


(顧客から買いの注文が入ってますね? それを言い値でお売りしましょう。今日のところはそれで如何でしょうか?)


 申し訳無さそうに、初老。


「……ああ、それで良い」


 売り方が、俯いたまま答える。

 売り方は気付いたのだ。

 人の心の中に手を入れて掻き回す、この初老は人間ではない。

 いや、そもそもこの世の者でもないのかもしれない。


(では、何をお幾らで?)

「知っているのだろう、いちいち聞かなくとも」

(では、3861王子製紙を750円で2000枚買い、で宜しいですね)

「ああ、それで……いや」


 だからこそ、どんな注文でも実現させて見せるだろう。

 それならS安(650円)で指してやれ、とも思ったが、即座に止めた。

 それが約定した際の、相場全体の阿鼻叫喚がイメージ出来たからだ。


(……変更なさいますか?)


 小首を傾げて聞いてくる初老。


「いや、そのままで良い」


 3861は前場を790円で引けていた。

 ここから40円下げは、紙パルプ業種だけではギリギリといったところか。


「とりあえず、お手並み拝見だな」

(畏まりました)


 軽く会釈をして、カウンターの方へ向かおうとした初老を、呼び止める。


「ああ、良かったら名前を教えてくれないか?」


 売り方は、然程深くは考えずに言った。


(名乗るほどの者ではないのですが)


 初老はそう前置きして、売り方の父親の名前を告げた。


「な、ふざけるな!」


 立ち上がり、激高する売り方。

 しかし、目の前には、面食らった表情の従業員が居た。


 12時15分。

 立会場は白々とした明かりが戻され、前場と同じか、それ以上の喧騒の中にあった。

 舞台の書き割りの様な、遠近感の無い不思議な雰囲気は、完全に霧散していた。



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