第9話 前場

 

 決して株式やFX等の売買を推奨・勧誘するものではありません。

 また、見せ板は違法行為であり、仮に行なったとしても、昨今では通報される前にアルゴの餌食です。絶対に行なってはいけません。


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 簡単に注文を終える従業員、売り方に視線を送る。

 それを見ていた売り方は、従業員に待ての手サインを送った。

 そして、寄り後の状況を“見”に入った。


 立会場の壁にズラリと並ぶ株価の電光掲示板が、一斉に値が付いた事を示し始める。

 しかし、この頃に立会場で売買されていたのは大型株のみで、120銘柄前後だった。

 それ以外の小型株や二部銘柄などは、既に電子化されていた。

 加えて、バブル崩壊の影響が市場で実感され始めた頃で、月曜の寄りとはいえ、往時の盛り上がりは期待出来ない状況だった。


 電光掲示板を見る売り方。

 比較的閑散の空気を醸しつつ、株価自体は金曜の引けから、少し上げた状態で推移している。

 従業員が注文を出した4銘柄(化学・ゴム・機械・電機)は、全て買い注文だった。

 それも、指し値が金曜の引け値と同じ価格の小口ばかり。

 その為、売買には掠りもせず、板の下の方で目立たずに居る状態だった。


 売り方には、これらの注文を寄らせる義務は無い。


 腕組みをして、目を閉じる売り方。

 ある程度の裁量を許されている注文は、5406神戸製鋼を20億円分と、3861王子を15億円分だ。

 これらも買いだ。しかし、まだ注文は出していない。


 9時10分。

 寄りの直前、従業員の後ろに並んだ他社の場立ち達を思い出す。

 売り方は考えた。米国市場が週末に僅かながらも下げて引けたというのに、週明けの日本市場が下げずに寄ったのは何故かと。


 電光掲示板の、為替の欄を見る。

 ドル円は、先週末から大きく動いてはいなかった。

 同じく、日経平均を見る。

 僅かに上げてはいるものの、その出来高は、相場の喧騒からは思いも付かない程、少ないものだった。


 閑散に売り無し。

 これは、薄商いの際には、下手に売りを仕掛けると担ぎ上げられるケースが多いので自重せよ、と言う意味の相場訓だ。

 それで今、下げないでいるのかとも、売り方には思えた。

 相場は今、寄りでの注文を一通りこなして、一息ついた状態。

 それは何かを待っているかの様に。


 9時20分。

 まさか、自分なのか? と。

 周囲の場立ち達の期待を、己が一身に集めているのでないのかと。

 売り方はそう考え、一度首を振った。

 あまり放漫な考えをしてはいけない。


 だが、このままでは事態は動きそうに無いのもまた事実。

 では、軽く紛れを打ってみるのも面白いかと。

 そう思い至った。


 9時30分。

 目を見開き、立ち上がって、従業員を探す売り方。

 従業員は、カウンターとブースの間で、知り合いと思しき他社の場立ちと雑談をしていた。

 その従業員に向かって手を振る。

 それに気付いた従業員に向かって、大声も出して派手に手サインを送る売り方。


「5401新日鉄、410円で2500枚、売り!」


 5401は1枚=1000株であり、金額としては10億2500万円分となる。

 しかし、客からの注文に5401は無かったし、売り注文自体一つとして無かった。

 明らかな見せ板(違法)。仮に出来ても、その時点で売り方の手張り(これも違法)となる。

 だが、周囲は内実を知らない。


 5401の金曜の引け値は、400円ちょうどだった。

 先週に半期決算の発表を終えており、株価は小康状態となっていた。

 寄りは399円で、今は402円で出来ている。

 注文の平均は100枚前後であり、そこへ売り方の2500枚の売り注文は、いやが上にも目立った。


 活気付く、周囲の連絡員たち。

 奴が売ってきた、01ゼロイチ銘柄で仕掛け、などの声が飛び交う。

 因みに01銘柄というのは、証券コードの下二桁が01の銘柄の事である。

 その業種を代表する銘柄である事が多く、225平均にも多くの影響力を持ち、実際に日々の出来高も多い。

 そういう銘柄ならば、大口たちも多くの投機資金を投入出来るので、短期の仕手に使われる事が多かった。


 売り方は、大口の参戦を嗾けている。

 周囲の場立ち達は、その状況を会社に連絡して、指示を仰ごうとしたのだ。


 椅子に座り、再び電光掲示板を凝視する売り方。


 そして出てきた反応は、大別すると二つだった。

 注文を見せ板と判断して、向かう者。

 注文は胡散臭いが、相乗りする者。

 様子見が居なかった、若しくは居ても極少数だったのは、売り方の注目度の高さを証明するものだった。


 5401が403円の売り注文を喰い、更に250枚の買い注文となって残る。

 405円の節目の売り注文数が、100枚から180枚に膨れる。

 更に、408円と409円に各々250枚の売り注文が追加される。


 その表示を激しく変える電光掲示板。


 周囲は、朝の注文を出し終えて、様子見の状況だった。

 買いが多かった為、カネが株になっている方が多かった。

 つまり、超短期での投機的なカネは払底している状態。

 そこへ、急な売り方の仕掛け。

 それに対応する為に、売り方に向かう者たちは、持ち株の一部を売って、カネに代える必要が出てくる。

 それらは、一つ一つは小額だったが、売り方に向かう者が一斉に行なった為、大きな下げの方向性を形作った。


 カウンターに張り付いていた従業員が、4件の小口注文が成立した事を売り方に伝える。


 日経平均と個別の裁定を行なっている業者が、朝方のフワリと上がっていた流れが急に下げに転じたのを察知し、225銘柄に広く浅く売りを建てた為だ。

 売り方は、現在の相場の流れやカネの配置を、大雑把に把握した。


 了解の旨を従業員に伝え、場電を使う売り方。


「小口4件、全て指し値通り約定した」

『分かった。……流石だな』


 場電の向こうで、山師が少し感心した風で言った。


「いや、周りが勝手に踊ってるだけさ」


 売り方は、素直に謙遜して場電を切った。

 実際にもそうだった。こんなに上手く行く事は滅多にあるものではない。

 売り方は、自分が今、幸運と言う名の船で相場に乗っている事を自覚した。


 そして同時に、この簡単な仕掛けを長持ちしてはいけないという事も。

 明日になれば、いや、後場になれば、この状況を聞きつけた大口が参戦してくるだろう。

 彼ら全員に向かわれては、如何に売り方と言えども到底敵わないからだ。

 少なくとも、手元の買い注文は前場に全て終えなければならない。

 売り方は、気合を入れ直した。


 10時ちょうど。

 他銘柄の、カネ集めの売りが終了したのか、再び5401の買いが始まった。

 成りで404円と405円の売りを一気に喰らい尽くす。

 更に406円も占拠し、800枚の買い注文を残した。いわゆる、買いの提灯だ。

 売りにも提灯が付いており、407円に1000枚、408円に1500枚、409円に1800枚。

 そして、売り方が売りを出している410円は、3500枚にまで膨れ上がっていた。


 それら状況を従業員から受けた売り方は、再び腕組みをして目を閉じた。


 通常、この状態は、売りを仕掛けた者にとっては嬉しくない。

 自分の注文が出来なければ、意味が無いからだ。

 しかし、今の売り方にとっては問題とならなかった。

 寧ろ僥倖であったか。


 考える売り方。

 自分に向かっている買い方は、今、迷っているのかもしれない。

 自分が鉄鋼全般を売ろうとしているのか、この銘柄だけを売ろうとしているのか。

 それを掴みかねているのか。


 実際、日経平均は下げ始めているが、鉄鋼全般は買い優勢で、金曜の引けに対して上げている。

 売り方が受けている買い注文、5406もまた同様だった。

 こんな高値で買うのは面白くない。

 買い方に5406を投げさせるには……。


 そこまで考えたところで、場立ち達のどよめきが起こる。

 ドル円が円高方向に動き出したのだ。


 どうやら、株式相場の動きが投機的なものと見た為替の向きが、長続きせずとして、円の買いに向かった模様だった。

 月曜の前場なら、まだ米国は開いていない為、国内の機関と思われた。

 売り方の脳裏を、鬼の女性の横顔がよぎる。

 その長く黒い髪と共に。


 そのイメージと重なる様に、売り方の視界の端を黒いブレザーが通り過ぎる。

 東証の職員だ。


「だいぶ派手にやってるようじゃないか?」


 売り方のテーブルの上に片手をついて、馴れ馴れしく話しかけてくる。


「あ? どこがよ」


 板読みの邪魔をされて、不機嫌に返す売り方。


「5401。見せ板は禁止なんだけどねえ」


 更に馴れ馴れしく売り方の肩に手を回して、続ける。


「何かネタが有るのかい?」


 有るのなら、俺にも……と言ったところで、売り方が被せる様に。


「ネタなんてねえよ、単に客の注文を乗せてるだけだ」


 と言った。

 実のところ、売り方は少し驚いた。最近は東証の職員まで手張りをするのか、と。


 それでも尚粘る職員を、追い払う売り方。


「てめえ、あの売りを外したら、見せ板と見なすからな」


 職員は、チンピラまがいの捨て台詞を残して、他のブースへ行った。


 売り方は、見せ板を外す事には問題を感じていなかった。

 客からの取り消し注文だ、と強弁すれば済むと思っていたからだ。

 しかし、あからさまに過ぎると拙い事になるかもしれない。

 少なくとも、前場一杯は出しっ放しにしなければならないか。

 売り方は、それすらも道具に使えないかと考え始めた。


 だが、その売り方の余裕は一気に失われた。

 5401に、三度目の買いが入りだしたのだ。

 それは恐らく、売り方と話をした職員の様子から、買い方が、銘柄のみの空売りと判断したのだろう。

 売り方は、そう感じた。


 買い方は、また別の視点で板を見ていた。

 売り方の本尊は、5401の安値での買いと判断。

 売りは、値を下げさせる為の見せ板。

 現在、売りにも提灯がついている状態だから、ある程度は安心しているだろう。

 だが、そこで一気に買いを入れて、株価を410円よりも上げてしまえば?

 損が膨らむ前に、売り方は一旦損切り=手仕舞いの買い戻しをする羽目になるだろう。

 買い方である自分は、その買値よりも上がった価格で売り手仕舞いすれば儲かる。


 いつものパターンだ。そう考えた買い方は、自分の資金と板の状態から、全力の成り買いで売り方の売り注文を全て食い尽くせると判断し、成り買いの注文を出したのだ。


 しかし、5401を触っているのは、売り方と買い方の二者だけではなかった。

 膨らんでいる売り板。これには、寄りの400円前後で買った口の、日計りでの手仕舞いも多く含まれていた。

 仮に、それらの合計金額が1億円分として、その1パーセントでも100万円。これが丸々儲けとなるのだから。

 今現在、株価は407円を喰って、408円の売買となっている。400円で買った玉ならば、408円で売れば2パーセント=200万円の儲けだ。

 僅か1時間余りで、カネと株を入れ替えただけで。

 日計りの口が色めき立つのも、無理は無かった。


 10時30分。

 5401は、408円の厚い売りが買い方の成り買いで食い尽くされ、409円での売買となった。

 そこへ日計りの手仕舞い売りが板の外から成りで出され、売り買いが沸騰。

 笛が吹かれる(カウンターの中で値付けをしている実栄の手に負えなくなると、一旦売買を打ち切って注文を寄せる、その合図)寸前になった。

 その状態を見た売り方は、脳内に、棚の上に乗っている売り方の注文を、背伸びして、更に爪先立ちして掴もうとする、買い方の姿を思い浮かべた。

 そして。


「3861王子、772円で900枚、768円で1000枚、買い!」


 怒鳴り声と共に、従業員に伝えられる売り方の手サイン。

 つまり売り方は、いわゆる両睨みをしていたのだ。


 驚いたのは、5401の買い方や従業員だけではなかった。

 3861は、金曜の引けは800円で、この日は寄り後の下げで775円になっていた。

 そこへ、折からの円高。

 紙・パルプ銘柄は、木材や油を輸入し加工して国内で売る業態の為、円高になると利益が増す、つまり株価が上がるという形になっている。

 だから、地合いに押されて売られているものの円高方向である現状に対して、買い板は厚くなっていた。

 目先の株価は、板の厚い方へ行く。

 3861の株価は、いきなり出された売り方の買い注文を目指して下げ、悉く出来ていった。


 5401の買い方達が唸る。

 売り方の本尊は紙パだったのかと。自分達は嵌められたのかと。

 しかし、売り方は未だ5401の売りを取り消していない。

 これを喰ってしまえば、売り方からカネを巻き上げる事が出来ると。

 そう考えた彼らは、カネを得る為に、5401以外の手持ちの現物株を売りに出した。

 それは唯一上げていた鉄鋼業種であり、その中の上位銘柄である5406は、真っ先に売りの対象となった。


 3861の約定を従業員から受けた売り方は、場電を使った。

 しかし、それに出てきたのは、事務の女性だった。

 場中の証券会社には似つかわしくないノンビリした口調で、山師は外出したと。

 売り方は、とりあえず3861約定の件を伝え、場電を切った。


 5401の板の状況を従業員に確認する売り方。

 まだ笛は吹かれず、409ヤリの408カイだった。

 そこへ、5406を売ってカネを得た買い方の買い注文が入った。

 それで409円の売りが完食された!

 5406下げ+5401に大きな買いが入ったのを見た売り方は、彼らの限界を感じとって。


「5401新日鉄、409円で2500枚、売り!」


 実体の無い売り注文を、追加で出した。


 狼狽する買い方達。

 アレは見せの空売りではなかったのかと。

 出来ている価格に板を出してくるという事は、明らかに現物の売り。

 もしそれが出来てしまったら、売り方は上がると損を抱える事になる。

 しかし、現物の売りなら、その心配は無い。

 手仕舞いになるので、その後の価格推移は知った事ではないからだ。

 だから、ほぼ成り注文に近い形で売りを出せる。

 自分達は、5401でも間違っていたのかと。


 しかし、実際には、背伸びと爪先立ちした買い方の足を、売り方が払った形だった。

 売り方は、手元に有ったガチャバン(機械式の判子。引け後の約定確認に使う)を従業員に翳して見せる。

 409円で出来たか? と。

 その問い掛けに対し、従業員は、全く無しの手サインを送ってよこした。

 売り方の追加売り注文は、実に絶妙なタイミングで決まったのだ。


 売り方の追加売りを見た相乗り組みと、日計りの手仕舞い組みがこぞって成りの売り注文を出す。

 それで、価格は一気に404円まで落ち、更に寄り値の400円を目指す形になった。

 買い方は、売り方から足払いを喰らって、受身も取れずに倒された格好だ。

 しかし、すぐには立ち上がれない。

 短期として買い入れた現物株を、手仕舞う為の売りをしなければならなかったからだ。

 買いが続かない板に売りを入れれば、当然株価は下がる。

 そしてそれは、自らの含み益を損額に変換する作業となった。


 10時50分。

 項垂れる買い方達。

 その、彼らの目に、5406に買い注文を出す売り方の姿が映る。

 5406は、買い方達の最後のカネ集めの為に売られ、上げていた株価を、寄り値よりも下げていた。

 それはつまり、彼らが5406で持っていた含み益を、売り方に奪われるという事だ。

 そしてそれは、従業員が伝える約定の手サインで、現実のものとなった。


 11時ちょうど。前場引け。

 売り方は、2時間で手元の注文を全てこなした。

 それも、僅かながらも全て含み益を持った状態で。



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