第8話 立会場

 

 参考動画です。

 物語の舞台は、バブルが弾けて、立会場の参加者が動画の三分の一程度に減った頃です。


1985(昭和60)年頃撮影:立会場事務合理化システム導入前の立会場

https://www.youtube.com/watch?v=8fUHjWHfqAQ

立会場1

https://www.youtube.com/watch?v=Jri7rarJYGg

立会場2

https://www.youtube.com/watch?v=E6FYA7tKioU



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 数日後。兜町、午前8時。

 横からの朝日が、ビルの間に漂う薄い朝靄を白く光らせている。

 その中、無数にある証券会社から、大勢の関係者たちが吐き出されてくる。

 それらは、東証の正面向かって左の細い路地に集まってきていた。

 殆ど男性だ。申し合わせた様な、お仕着せらしい紺のブレザーを着ている。

 胸には、白地に青文字のバッジ。

 それは、まるで何処かの男子校の登校風景の様にも見えた。


 その中を、一台の白いリムジンが人並みをかき分ける様にして進んで来る。

 止まるリムジン。

 素早く降りてきた運転手が、白い手袋で後部座席のドアを恭々しく開く。


 降りてくる人物、周囲の人間と同じブレザーを着ている。

 運転手の胸ポケットに紙幣を押し込む。

 頭を下げる運転手に片手で返答し、周囲の人間達の中に紛れ、判らなくなる。

 が、何故か、すぐに周囲の人間が人物と距離をとった。


 細い路地の横にある通用口から、入場する人物。

 入ってすぐのところに、またドアが有り、その前に守衛らしい男性が二人立っている。

 その内の一人が、その人物を認めると、胸の辺りを指差して何事か言った。

 人物は苦笑いをすると、スラックスのポケットから取り出したバッジを、ブレザーの胸に付けた。


 バッジをよく見えるようにする為か、胸を張ってみせる人物。

 その顔を確認した守衛の顔色が変わり、背筋が伸びて敬礼の様な姿勢をとる。

 それをみた人物は、もう一度苦笑いを投げて奥に続くドアを開けた。


 そこは立会場だ。

 三角形に近い台形のスペース。

 台形の頂点がこの建物の正面となる。

 天井は高く、右手上部には普段使われないテラス。

 左手上部には見学者用の二階部分が見える。


 大きな馬蹄形のカウンターが四つ。

 その中は実栄証券の仕事場だ。

 その左右に雛壇状の、造り付けのテーブルが並ぶ。

 それらは各証券会社のブースと呼ばれていた。


 立会場には、既に多くの場立ち達が入っていた。

 ざっと500人といったところだろうか。

 人物の後に続いて入って来た場立ちが、彼らに何事か話す。

 彼らの漏らす声が徐々に増え、やがて大きなどよめきとなってその場を覆った。


 場内の床は分厚い木造りだ。革靴で歩くと、安全靴でも履いて来たかと思うほどにゴツゴツと音が鳴る。

 人物は、足音を響かせながら中央の馬蹄形のカウンターを通り過ぎ、奥側のブースの前に着いた。

 それを認めた、ブースの中に座っている場立ちの内の一人が、人物に向かって手を振る。

 人物は、そのブースに向かった。


 そのブースの隣に座っている場立ちが立ち上がり、人物の胸のバッジを見る。

 そして、そこに書かれている数字を、手サインで場内に向かって示した。

 3桁の数字。証券会社に各々割り振られたもの。

 手の平を外側に向けるのは、売りの意味だ。


 人物は、ブースの場電ばでんのインカムを取り上げ、数拍の後に言った。


「だから、こういうのは止めろとアレほどっ」


 手サインを見たブースの場立ち達が、一斉に電話を始める。

 その簡単な手サインが、人物が山師の会社の売り方だという事を広く知らしめたのだ。


 インカムを戻した売り方に、ブースの主が声をかける。


「お早うございます。あっと言う間に人気者ですね」


 三十絡みの、短髪で体格の良い男性だった。


「立会場じゃ、注目されて良い事なんて一つも無いぜ」


 うんざりした様に、売り方。肩を竦めて見せる。


「それでも、私ら場立ちの間では伝説的な相場師ですから、貴方は。憧れの、と言っても良い位の」

「何言ってやがる」


 立会場にはカネが転がってるだろうが、という売り方の問いに対しては。


「今はそんな時代じゃありませんし、私なんて、単に地場証券の従業員ですから」


 立ち上がり、売り方に椅子を勧める。


場服ばふくもサイズがぴったりで、よくお似合いですし」


 場立ちは、注文を出す際の順番争いの都合で、体格の良い若い男が多く採用されていた。

 それらに合わせたサイズになっている為、普通のサラリーマンが着ると、服に着られている様な格好になる事が多かった。

 実際、売り方にとっても少し大き目だったのだが。


「そんな褒めても、俺は連絡員しかやらんぞ。もう、どつき合いなんて無理だからな」

「勿論です。社長からも言われてますからね」


 ただ、と続けた言葉を一旦切って、従業員。


「開場したら血が騒いで、我慢出来なくなるんじゃないですか?」

「バカ言え。こんな汗臭いとこ、すぐにでも出て行きたいってのに」


 その売り方の言葉に、意外そうな表情になる従業員。


「この新館、もうそんな臭いですか?」


 東証は、その数年前に建て直されていた。


「臭いな。毎日来てると分からないんだろうが」


 売り方は、最近は病院の消毒薬の匂いの方に慣れていたので、余計にそう思った。


 その後、売り方と従業員は、前日に出されていた注文内容の確認をした。

 8時50分までに山師から変更の連絡が無い場合は、そのまま注文を出す。

 従業員は、数枚の注文票を握って、カウンターの前に向かって歩いて行った。


 8時15分。カウンターの前は、まだ場所取りやら列やらは出来ていなかった。

 そんな時代じゃない、従業員の言葉を思い出す売り方。

 全盛の頃は、この4倍から5倍は場立ちが居て、喧騒の坩堝となっていたのだが。

 カウンターの前では、従業員を中心に数十人の輪が出来ている。

 その中の数人が、売り方に向かって会釈をしたりしている。

 頬杖をついている売り方、空いてる手で興味無さげに返事をしながら、目では例の初老が居ないか探していた。

 しかし、それらしい人影は見つからなかった。


 頬杖をついたまま溜息を一つ吐き、今朝の事を思い出す売り方。


 朝早く見舞いに行って、少女が驚いていた事。

 相変わらず部屋は薄暗くされていた事。

 朝食の用意をしていたナースが、バイオリンの保管に了承した事。

 其処に居た青年医師が何故かうろたえながら、最近は、容態は安定していると言っていた事。

 青年に対し、プライバシー保護に関して、苦言を呈した事。

 念の為に、売り方のポケベルの番号を青年に伝えた事。

 その際に取り出したポケベルが、ちょうど着信を示した事。

 表示された番号は、山師のものだった事。


 そこまで思い出したところで、目の前にある場電が着信を示した。

 インカムを装着し、受信する売り方。


『そんなに怒るなよ』


 山師からだった。


「いや、いきなり病院にリムジン差し回しは無いだろう」


 ウンザリした様に、売り方。


「おかげさんで、さっきから上野のパンダ状態なんだがな」


 差し当たりの注文を出し終えたと思しき場立ち数人が、所在無さげに売り方のブースの近くをウロウロしていた。


『スマンスマン、しかし効果は絶大だぜ。そっちじゃ分からないだろうがな』


 あの“悪夢の売り方”が場立ちとして東証に乗り込んできた、という情報は、あっという間に兜町を駆け抜けたらしい。

 それで、その情報に接した投資家達が、新たな注文を証券会社に入れ始めたと。


『ハッタリは、派手にやらなきゃ意味が無い』


 売り方にとっては、ハッタリ自体が意味の無いものだったのだが。


「しかし電話が早いな、まだ時間じゃないだろう?」


 時計を確認する売り方。


『何言ってる、そろそろだぞ』


 時刻は8時48分だった。

 周囲は、新たな注文を伝える連絡員の手サインや怒鳴り声で、騒がしくなっていた。

 ギョッとする売り方。


「じゃあ、注文の変更とかは有るのか?」

『いや、寄りからってのは無い』


 山師は、従来の顧客からのと、新規の顧客からの注文を伝えてきた。

 それらは、銘柄や大雑把な価格の指定は有るものの、基本的には売り方の裁量に任せるといったものだった。


『それとな、例のインバースの件、生保が食いついてきたぞ。昼からこっちに来る』


 売り方は、山師の狭いオフィスを思い浮かべた。

 配下も少なかったが、場中で恐らくは忙しくなるだろうその部屋に、大口の運用担当を呼ぶと言うのか。

 売り方は、山師の幸運とヤル気に圧倒されそうになった。


「そうか、良かったな」

他人事ひとごとじゃないだろ。まあ、今日のオマエの働き次第なんだけどな』


 売り方の本来の目的は人探しだ。

 その当てが外れる予感に満ちている今、山師のリクエストは売り方にとって圧にしかならなかった。


「おいおい、プレッシャーかけるなよ」

『何がプレッシャーだよ。ま、気楽にやってくれ、ビッグセラー』


 いつの間にか、カウンターの前に場立ちの列が出来ていた。

 場電を切った売り方は、その列の中から、売り方を見つめる従業員に向かって、注文に変更無しの手サインを送った。

 すると、それを見ていた他の場立ちが、従業員の居る列の後ろに並び始めた。


「いや、ほんとに臭いな此処は」


 売り方が吐き捨てる。

 それを聞いた隣のブースに居る別の証券会社の連絡員が、今更だろ、と言った。


 迫る時間が、ある種の高揚感を呼ぶ。

 売り方は、今日の予定を頭の中で反芻して落ち着こうとした。

 山師の会社は小さな地場証券。今日の寄りからの注文数も4件と少なかった。

 特に焦る必要は無い。


 そこまで考えたところで、時刻は9時ちょうどとなった。

 鐘の音が立会場に響く。

 立会開始だ。

 売り方は、以前のものよりも遥かに静かに始まったザラ場に集中する事にした。



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