第6話 青年

 

「米国へ転院?」

「はい、唐突な提案で大変恐縮ですが」


 白衣の男性に招き入れられた、1階にある医師の個室。

 男性は、新人の青年医師だった。


「あっちへ行けば治せるのか?」

「ああいえ、必ずしもそうではないのですが」


 ゆるくウェーブがかけられた横分けの髪型、細いメタルフレームの眼鏡がかぶりを振る。


「では何故?」

「純粋に可能性の話です。あちらは、やはり医療の最先端ですから」


 細長く狭い部屋。が、奥の方で隣の部屋と繋がっているのか、少し広くなっている。

 部屋の中ほど、壁に向かって置かれた机の前に、その青年は座っている。

 机の上には雑多な機器が、下や横にも棚などがひしめき合っている。

 厚底のサンダル、黒っぽいスラックス。

 聴診器を首にかけ、その先端を白衣の胸ポケットに入れている。


「つまり、この病院ではもう、お手上げだと」

「そんな事はありません、先日の手術も成功したのは奇跡だったと評判に……! あ、いえ……」


 少女の主治医はこの病院の院長だが、執刀医は外部から招いた有名な術者だった。

 そして現在、院長はこの青年に少女を担当させている。

 つまり、病院としては、可能な治療はほぼ全て行なったという事だ。


 青年は、奇跡という言葉を使った事に気付き、しまったという表情になった。

 それは危ない橋を渡った事を意味しており、医師が使うには不適切なものだからだ。


「気にするな、難しい手術だった事は分かっている」

「いえ、私が言いたいのはそうではなく、手術に関しては米国の一流病院にもヒケは」

「じゃあ何故米国なんだ?」


 被せる様に売り方。丸椅子の上で腕を組む。


「あ、それは、主に投薬に関する事で」

「ふむ……」


 考えてみる売り方。

 確かに、米国の方が新薬の認定が早いとは聞いていた。

 が、先日の手術の前後に使った開発中の新薬は、米国の製薬会社のものだったのだ。

 この病院がそのルートを持っている限り、わざわざ渡米する必要は無い様に思えた。


「すまんな、メリットが有るとは思えない」

「え、あ、まあ可能性の話ですから……」


 歯切れが悪い。そのくせ話を切り上げようとしない。

 売り方は別の話を振ってみる事にした。


「そういう情報なんかは、どうやって入手してるんだ? やはり業界の新聞みたいなものとか有るのか?」


 売り方は、日経と業界紙、それに外紙を数紙とっていた。

 毎朝流し読むのが日課だった為、医者もそんなものかと思っていたのだ。


「いえいえ、薬の事なら製薬会社の営業さんが毎日来られてますから。それに、最近の情報入手は、コレです」


 青年は苦笑しながらそう言って、机の上にあるブラウン管ディスプレイを指し示した。


「ほう、パソコン通信ってやつか」


 パソコン本体は机の下に置いてある様だった。


「はい、電話回線を融通してもらってまして。これで大学の親コンピュータと繋がります」


 売り方は、自分の部屋に設置してある、クイックの端末を思い出した。


「カラーなのか、見易いな」


 売り方の部屋に有るクイックの端末は、同じくブラウン管ながら、緑色しか表示出来なかった。


「はい。この時間なら談話室が開いてますから、繋いでみましょうか」


 売り方の返事を待たず、キーボードを叩き、マウスも軽くいじる。

 操作が終わったか、手を降ろし、ディスプレイに向かって軽く頷いた。


「あ、今コーヒーを淹れて来ますから。お待ち下さい」


 手持ち無沙汰を嫌ったか、部屋の奥に歩いていく青年。

 どうやら、接続には時間がかかる様だ。


 ディスプレイの表示、下部分に四角い輝点が徐々に増えていく様を眺めながら、売り方は、最近米紙でinter-netという語句が出始めている事を思い出した。

 それは、全米はおろか世界中で専用回線を敷設し、それを民間に払い下げ、各家庭のパソコンと接続して、情報を共有しようという話だった。


 inter-netというものが始まったら、それは建設や電線メーカーの株価を押し上げるだろう。いや、パソコンなどの周辺機器やソフトウェアも含めて、相場全体が再びバブルになるかもしれない。

 その時に自分は、どう立ち回るか……。

 そこまで考えて、売り方は、相場から離れられない自分を心の中で嗤った。


「お待たせしました。あ、繋がった様ですね」

「ありがとう」


 青年から、ソーサーとその上のコーヒーを受け取る売り方。

 ソーサーの上には、コーヒーカップの他に、小さなカップのミルク、スティックシュガー、それに可愛らしい意匠のスプーンが1つずつ所狭しとのせられていた。


 コーヒーカップの中には、あまり深くは淹れられなかったか、少し淡めでモカっぽい香りの液体が入っていた。

 軽く口を付けた売り方は、自分の嗅覚の確かさを確認することになった。

 これなら添付のミルクなどは不要。病院の一室で出される茶としては上等すぎるものだった。


 そう、上等にすぎる。

 売り方は、そのコーヒーから、青年の几帳面さと同時に、彼の未だ学生気分から抜け切れていない若さをも垣間見たような気がした。


 青年は、自分のコーヒーを机の上に置くと、またマウスを少しいじった。

 すると、ディスプレイ上に、太い線で四角く囲まれた、横書きの文字列が現れた。


 青年はマウスを操作して書き込み画面に移行し、キーボードを叩いて書き込み、それを送信した。

 画面にそれが反映され、更新させると、更に他者の書き込みが増えていた。


「なかなか面白いものだな」

「はい、こうやって直に文章で会話が出来ます」


 内容は時候の挨拶からいきなり医者の専門的な内容に変わり、売り方には理解出来ないものになっていった。


「これで、色々な立場の医者やその卵から情報を入手出来ますし、発信も出来ます」


 更に書き込みを続ける青年。

 その様子を見ながら、売り方は思った。

 inter-netに限らずとも、接続の環境が整えば、今現在クイックで電子取引が見える様に、全ての銘柄の板が見えて、更に売買の注文すら出せる様になるかもしれない。

 それも各人の自宅で。

 全ての相場参加者が。


「今夜は、特に目新しい話題は無い様ですが……」


 売り方には、それは途方も無い事の様に思えた。

 今は、確かに小型株などは徐々に電子化が進んでいるが、大型株含め全ての銘柄となると、それは処理するコンピューターの性能が飛躍的に向上しなければ不可能だからだ。


 その上それは、今現在手作業で行なってる業務に従事している者の失業も意味している。

 そして仮にそれらの問題が解決されたとしても、恐らくは電信化の先鞭をつけるであろう米国が、綺羅星の如くの米国の投資家達が黙っていないだろう。

 彼らは特に信心深いので、神が降臨されるであろう場を無くす事には猛烈に反対するに決まっている。いや、それで尚電信化が進んでも、ダウの30銘柄は場立ちによる売買を残すに違いない。


 そこで、ふと、売り方は自分の思考に引っ掛かりを感じた。

 何故他人事なんだと。

 それではまるで、その時代に自分は生きていないみたいではないかと。

 それも何かの確信というか、まるで未来を垣間見た様な実感を伴なっていて。

 しかも、自分はそれに納得している感すら有って。


「あ、ああそうか……」


 売り方は、おかしな感傷に染まりかかった頭を振った。

 今は、この青年の本音を引き出すべき時だと。


「では、そろそろ今夜のお話を聞かせて貰えるかな?」

「え……?」


 急な話題の転換に虚を突かれる青年。


「いえ、ですから米国へ転院の提案で」

「だからそれは断っただろう。それとも今夜の話はこれで終わりか?」


 売り方は、敢えてキツい言い方をした。

 青年の、意味不明の躊躇に付き合う暇は無い。


 軽い逡巡を見せた後、青年は観念した様に言った。


「やはり、分かるものですか」

「治療の方針については院長と散々話し合ったし、キミともしただろう。それについてはこちらも全て納得してるし、今更な話だからな」


 そして、大した話でなければ、少女を他の大部屋へ移す事を捻じ込もうと思った。

 売り方には、あの部屋は、どうしても寂しいとしか思えなかったのだ。


「では一つだけお願いです。部屋の明かりを点けないで下さい」

「明かりを? 何故だ?」


 今度は売り方が虚を突かれた。


「病状は進行しています。彼女は言いませんが、もうかなり視力が低下している筈です」

「え……」

「実は、眼球の全摘を行なえば、生命の時間は延長出来ます。しかしそれでも……」

「ちょ、ちょっと待ってくれ」


 売り方は動揺した。大した話ではないと高を括っていたのに。

 まさかそんな深刻な事だったとは。

 しかも全摘。それは少女が視力どころか眼球そのものを永遠に失うという事だ。


「手術を……した方が良いと?」

「院長は、全摘は薦めないと言っていました。私も同意見です」


 それで少しホッとする売り方、筋違いな事を言い出す。


「いや、そもそも視力が低下してるというのは本当なのか? さっきも普通にメモ用紙に書いていたが」

「明かりの件は、彼女の視覚に負担をかけない為です」

「だから?」

「昼間もカーテンを閉めております。あれは別注の遮光式です」

「だから?」

「思い当たるところがお有りなのではありませんか? 例えば、空ろな視線であるとか、しきりに他者に触りたがるとか」


 思い当たるどころの話ではなかった。最近の少女の行動全てが当て嵌まっていたのだ。

 大部屋への移動など、端から無理な相談だったのだ。


 項垂れる売り方に、青年が言う。


「この事は、彼女には気付かれない様にしてあげて下さい」


 売り方の脳裏に、暗闇の中を彷徨う少女が浮かんだ。


「病魔と闘う彼女に、余計な気遣いをさせない為に」


 空ろな瞳で両腕を前に突き出し、声もあげられず、ただひたすらに売り方を求める姿が――


「分かった、気をつける。……ありがとう」



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