第5話 少女

 

 夜の病院の高層階、個室が並ぶ薄暗いリノリウムの廊下。

 静謐が支配するそこを、足音を忍ばせ歩く売り方。

 最奥の部屋の前に着く。


 大抵の場合、病室の出入り口は引き戸だ。

 この部屋も例外ではなかった。

 しかし、売り方が幼かった頃、それもやっと物心がついた頃はまだ開き戸だった。

 売り方は病室の引き戸を開けようとした際に、何故かその頃の事を思い出した。


 シンプルな模様の磨りガラスが嵌められた、粗末な開き戸のドア。

 開けたのは、売り方を連れて行った彼の父親か。

 ドアの向こうは6人部屋。

 視点が低く、視界の半分は、錆を隠す為に不細工に塗られた水色のペンキのベッドフレームとその足だ。

 窓からの穏やかな日差しに包まれたその上半分では、年齢様々の女性達が、ベッドの上で歓談している。


 視界の右奥、窓際のベッドの上にその女性は居た。

 年の頃は二十台中頃か。

 白っぽい着物を着て、上半身をベッドの上に起こしている。

 きちんと合わされた着物の前、長く美しい髪を首の後ろに束ね、何がおかしいのか切れ長の目を更に細め、口元を右手で隠している。

 その白魚の様に綺麗な手指。

 そして此方に気付いたか、はっとした表情になり、おいでおいでの仕草をしようとする。


 それは売り方が持っている、ただ一つの母親の記憶だ。


 目の前の引き戸を、売り方はノックする。

 何故か分厚い作りの為、中に音が響く様にと、曲げた指の節で少し強めに二度行う。

 部屋の住人から返事は無いと分かってはいるが、驚きを緩和する為に、声掛けの前置きとして売り方はそれを欠かさなかった。


「俺だ、入るぞ?」


 数拍の後、ドアを開く。ガラガラと無骨なベアリングの音が響いた。


 かの6人部屋より更に広く、しかし廊下と同じくらいに薄暗い個室。

 ほぼ中央に一台だけ設えられたベッド。

 その上に少女は居る。


「なんだ暗いな、電気点けるぞ」

 明かりは、ベッドサイドの小さな電灯だけが点されていた。

 入り口の横にある、天井の照明のスイッチを入れる売り方。


 蛍光灯の、白々とした明かりに照らされる室内。

 各種機器を据える時の為にとスペースを空けられたそこは、一見殺風景だったが、しかし華やかさの有るカーテンの柄や端々の調度の配置、趣味の良い花瓶に頻繁に変えられる賑やかな花々など、端々には温かみが感じられた。


 これらは全てナースの仕事なのだろう。けして少なくは無い金額を入れているとはいえ、忙しい中でこの女性らしい配慮に満ちた部屋の管理に対し、売り方は心の内で感謝の念を抱いていた。


 だがそれでも、少女一人にこの部屋は広過ぎた。


 淡い色の可愛らしいパジャマ。

 頭部には大きなヘッドフォン。

 ベッドの横の棚に置かれたミニコンポから、コードが延びている。


 ヘッドフォンで音楽を聴く際の常として、彼女もまた少し俯き加減の姿勢だった。

 その伏し目がちな横顔がまた、孤独に耐える痛々しさをいや増ししている様に。

 売り方には、そう見えた。


 その少女の顔が、急に明るくなった部屋に驚いたか、キョロキョロと周囲を見回す。

 手術痕を隠す為に巻かれた、首の包帯が痛々しい。

 そしてすぐに売り方を見つける。

 売り方は、ゆっくりとベッドサイドに歩み寄った。

 少女は、面倒臭そうにヘッドフォンを外そうとする。

 だが、左手首に付けられた、筆談用のメモ用紙と筆記用具がその邪魔をする。

 それを乱暴に引き剥がし、少女の目の前に膝立ちした売り方の胸にしがみつく。

 ヘッドフォンが、コードに引かれて布団の上に落ちた。


「甘えん坊だな」


 ボブテイルに整えられた綺麗な黒髪、鼻をくすぐる甘い香り。

 少女は、売り方を自分の物にせんとするかの様に、その両腕を売り方の背中にまで回して来る。

 そして、顔を売り方の胸に埋めてしまおうとし始めた。

 物理的には有り得ないのに。

 売り方は、それを遮る様に導く様に、少女の背中と後ろ頭を優しく抱いた。

 それらは全て、いつも通りの挨拶だった。


 売り方は、ふと思った。

 母親はあの時、自分を手元に招き寄せて、抱きしめてくれたのだろうかと。

 女性は独占欲を持っているものだ。この難病の少女ですら。

 だから、入院している母親が我が子の見舞いを受けた時は、それは確実に派手な抱擁が有っただろう。それが自然な筈だ。

 しかし、売り方にはその記憶が無いのだ。

 まるで鋭利な刃物で切り落とされた様に、招かれようとしたところから先がスッパリと。


 別に伝染(うつ)る様な病気ではなかった筈だ、この少女と同じ様に。

 売り方は、その唐突に途切れている記憶に続きを繋げようとする様に、少女の細い体を優しく抱きしめた。

 せめてこの少女は、この記憶を無くさない様に。

 そして何より、今日一日を生き延びた、その頑張りを褒める為に。



「これなんだ?」


 少しイジワルめいた売り方の声。

 彼の手に有るのは、山吹色のカセットテープだ。

 抱擁の後、急に頬を膨らませ、そっぽを向いた少女。

 どうしたんだ? と問う売り方に、少女はメモ用紙に『おそい』とだけ書いた。

 確かに今日は、売り方は来院するのが遅れてしまっていた。

 そこで、少女の機嫌取りに、売り方は仕込んであった土産物を出したのだ。


 メモ用紙には手を伸ばさず、なになに? と興味津々な表情で売り方を見上げる少女。

 それは、売り方が鬼の女性から言質を得る為に、胸ポケットに忍ばせていたウォークマンの中に入れていたもの。

 鬼の女性に気付かれるのを嫌って、売り方は録音ボタンを、バイオリンの調弦を終わらせた時に押していたのだ。


 銀行から追い出された後、録音を確認した。

 衣擦れの音がそこそこ混じっていたものの、それは予想したのよりもずっと少なく、とりあえずの試聴には耐え得るものだった。

 それを確認した売り方は、銀行を追い出された後で、結局モノにならなかった鬼の女性との会話部分と、それ以降を消去したのだ。


 売り方は、そのテープをミニコンポに入れ、少女にヘッドフォンを勧めた。

 再生ボタンが押される。


 少女は、以前公園に行った際に、売り方のバイオリンを聴きたがった。

 それを憶えていた売り方は、手術が終わって容態が安定した時に、この病室にバイオリンを持ち込もうとした。

 だが、当然の事ながら、演奏はナース達によって制止された。

 病室では静かに、は世界共通の常識。

 加えて、この病室に少女が入った際に、巨大な熊のヌイグルミや映画鑑賞用のプロジェクターを業者に搬入させようとした売り方は、ナース達から要注意人物とされていたのだ。


 ヘッドフォンを両手で押さえ、それが奏でる音に聞き入る少女。


 この日も、バイオリンはケースごとナースステーションに預けて来ていた。

 売り方は、いつかはちゃんとしたスタジオで、誰かまともなピアノとのアンサンブルを行い、その録音を聴かせようと考えていた。

 だが、当面はそれどころではない。

 それで、不細工な事とは思いながらも、鬼の召喚を録音したのだった。


 鬼の女性のピアノが始まったか、伏し目がちだった少女の表情が驚きから感心、そしてまた最初に戻った。

 その様子を見て、目を細める売り方。


 ヴァイオリンの音域は、女性の声のそれに近いとされる。

 幼い頃に母親を失っていた売り方は、ヴァイオリンを弾く事で得られるその音に、癒しを求めているのかもしれなかった。

 少女の声をも失った現在は尚更に。


 そろそろ録音時間は終わりになった筈。

 そう思った売り方は、ミニコンポのレベルゲージを注視した。

 そのグラフィック。終わったら、少女からダメ出しを頂戴しなければならない。

 売り方にとって、専属にして最高の評論家から。


 しかし、いつまで経ってもレベルゲージは、その動きを止めなかった。


 売り方は疑問に捕らわれた。

 銀行で演奏したのは確か5~6分だった筈。

 このテープは新品。路上で余分を消去した後、その面の先頭まで巻き戻したのだ。

 そしてそれは、ミニコンポに入れた際にも確認した。

 だから、銀行での演奏以降は何も入っていない筈なのだ。


 だが再生開始から10分以上経過した今なお、レベルゲージは賑やかに踊り続けている。

 そして、陶然としている少女は、いったい何を聴いているのか?


 売り方は、部屋の端に置いてある椅子をベッドサイドに持ってきた。

 そして、ウォークマンのヘッドフォンをミニコンポの背面端子に差し込んだ。

 それを見た少女の表情が明るさを増す。

 これはいつものポジション。一緒に同じものを聴く為の。

 売り方が、筆談に慣れない少女を慮って始めた事だが、こうして椅子に座るという事は長い時間病室に居る事を意味しており、少女が特に喜んだ事でもあったのだ。


 少女に薄い笑みを見せて、ヘッドフォンをつける売り方。

 果たして、聞こえてきた音は、証券会社の店頭で売り方が演奏したバイオリンのそれだった。


「あ、有り得ない……」


 売り方がそう零したのも無理は無かった。

 それは、高級なスタジオで且つ完璧な状態で録音されたものを更に越える、ノイズの無い上質な音だったのだから。

 しかし現実には、ノイズだらけの街角で演奏されたものだったのに。

 いや、その筈だったのに!


 少女が、潤んだ目で売り方の袖口を摘んでくる。

 売り方は、少女の好きな様にさせていた。

 動揺していたのだ。

 演奏は、メロディラインの模索から構築、そして微修正の段階へ進んで行った。

 まるで引っ掛かりのない美しい音。

 売り方には、卑下抜きで、自分がそれを鳴らしたとは思えなかった。


 少女が、メモ用紙に何事か書き始めた。

 それは、海、とか、波、とか、魚の群れ、とかの切れ切れの単語。

 少女なりに、この曲の印象と感激を売り方に伝えようとしているのだろう。

 売り方は、それに面映いものを感じながらも、同時に違和感が増してくるのも禁じ得なかった。

 それは、売り方が弓を落として、同時にテープが終了した時に確定した。

 チェロの音が入ってなかったのだ。

 全く。気配すら。


 テープをひっくり返す少女。

 再生ボタンを押したが、流石にそこには何も録音されていなかった。

 それを確認した売り方は、いつの間にか開いていたドアの前に、誰かが立っているのに気付いた。

 それは白衣を着た長身の男性。売り方に軽い会釈を見せる。


「今夜はもうお休み」


 少女の頭を撫ぜ、そう伝える。

 ドアの前の男性が部屋の中に入って来ないのは、部屋から出て来いという事か。

 そう理解した売り方は、今日の見舞いを終了する事にした。

 今夜は来るのが遅過ぎたという事もあった。


 いつもの様にグズろうとした少女も、ドアの前の男性に気付き、売り方の袖を離した。


「夜更かししちゃダメだぞ」


 少女とテープの内容に後ろ髪を引かれつつも、売り方は男性に向かって歩いていった。




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