気まぐれ小噺

□□□

比翼の花嫁 キスの日2021小噺

 近頃、銀正はとみに困っていた。

 それはもう頭を抱えて山に半生籠り込み、延々呻き声を上げて丸まっていたいほどには困っていた。

 原因は何か?

 伴侶の香流だ。

 香流の近頃の振舞が、銀正を煩悶たらしめて悩み深き日々を過ごさせているのだ。

 では、その振舞とは何か?

 それは――――

「いた! 銀正殿!!」

 ぎくっ!!

 背後から聞きなれた声に呼びかけられ、銀正は大仰に肩を跳ねた。

 振り返るか、逃げ出すか。

 一瞬の迷いが行動を縛る。

 おかげで銀正は近頃の悩みの根源である娘に呆気なく捕まり、わたわたと挙動を不審にした。

「こっ!? なっ!? なん、で、ここに……!」

「兄様から、銀正殿なら修行場の裏の川岸に向かわれたようだと教えていただいたのです。午前の鍛錬を終えられてすぐお姿が見えなくなったので、探しに来てしまいました」

 お昼はもうすぐですよ? と、背後から抱き着いてはにかむ嫁に、銀正は耳先を真っ赤にする。

 可愛い。

 可愛すぎる。

 これが美弥を救い、己の苦境を切り開き、狩場にて火炎の華と開いたあの勇士とはまったくどういう理屈だ、天よ。

 銀正は細い腕の中で身悶えたいのを必死に堪え、楚々と香流の腕を外した。

「すまない、余計な手間をかけさせた。少し、考えごとをしていたのだ。昼時には戻るつもりであったのだが――――」

 つい長居をしたようだ。

 そう続けようとした言葉は、驚嘆の息と共に引っ込む。

 ふにっと、唇に柔い感触。

 見開いた視界いっぱいには長いまつげを伏せた香流の顔。

 接吻されている。

 頭が理解に及ぶまで数秒、銀正は石のように固まって立ち尽くした。

 そして次の瞬間には噴火する大山の如く感情が爆発する。

「(ああああああああ!!!????)」

 羞恥! 面目! 狂喜! 懊悩!!

 めくるめく怒涛の想いが入り交じり、はむはむと唇をはまれながら心中絶叫する。

 これだった。

 これが近頃の銀正の深き深き悩みの原因であった。


 香流の求愛攻勢が激しいのだ。

 

 とりあえず、近づけば送られる秋波の視線。

 人目はさすがに憚って貰えるが、二人きりになると途端に絡み合う手と手、指と指。

 添ってくる柔らかな体は、童貞歴の長かった銀正には凄まじく破壊的でしどけなく。

 困惑して見下ろせば、百花繚乱かと見紛うばかりの艶やかな笑みが咲く。

 ――――勘弁してくれ。

 つまり、悩み極めた銀正が一人の時間を求めるのは必然だった。

 このご時世、二十歳過ぎるまで純潔を守っていた男が苦悩するには十分な話だった。

「こっ! 香流殿!!!」

 銀正は上ずったなっさけねぇ悲鳴を上げて己の伴侶を引き剥がす。

 ここは左厳の里外れの、人気のない小川だ。

 誰もいないのだから新婚の二人が睦みあってもおかしくはないが、純潔に半生を捧げてきた銀正には、まだまだ心の戸惑いが大勝利する。

 まぁ、真殿あたりが居合わせれば、

『そんなこと言って、正直惜しいんだろう婿殿ぉ~』

と揶揄うところだが。

 正直、今も唇に残る温もりに全身が歓喜しているのだが。

 桃源はまさしくここにありなのだが。


 ――――だが、そんなことは全てまやかし!

 死に絶えろ暴欲ッ

 心頭滅却!!


 銀正は心の内で己自身に張り手を入れて香流の両肩を握り、ゼイゼイと距離を取った。

 伏せた顔に熱が溜まる。

 少し前まで接吻のせの字も知らなかった男には、想い人の優しい口吸いは衝撃的である。

 最初こそあの裁きの庭で感極まって抱きしめあったが、こうして平穏な日々に浸り、何の憂いもなく新婚の日々を過ごしていれば、根が真面目な男の心理で勝るのは圧倒的な羞恥一択だ。

「(持たない……これ程までに甘美な誘いにからめとられては、私の心の臓が死に際まで持たない……!!)」

 持つわ。

 晴れた空のどこかで真殿が遠い目をしている幻想が浮かぶ。

 しかし懊悩する銀正にその指摘は届かず、あーだとかうーだとか呻いて固まる男は冷や汗をかいて目をつぶった。

「銀正殿?」

 無理やり引き剥がされた上、以降何も言わない伴侶に当惑したのだろう。

 香流がおずおずと声をかけてくる。

 銀正はその涼やかな音にぎくりと硬直し、しまった、なんとも情けないと顔を上げた。

「あ、す、すまん! つい、驚いて不審な動きを……」

「いえ、いいのです。私も性急でしたね」

 あなたの顔を見たら、ついしてしまいたくなって。

 穏やかに頬を染める娘の顔。

 衝撃。

「くっ!!」

 銀正は胸の上を掴んでうずくまる。

 真殿の幻想が、どこかでさらに視線を遠くへ旅立たせている。

 だって愛しい。

 愛しすぎる。

 なんだってこれほどまでに自分の伴侶は愛らしいのかと、銀正は動悸を抑えて歯を食いしばる。

『どう考えても経験値の低さが問題……』

 空に消えていく真殿の幻想が言い残して去る。

 残された『経験値:純潔(僧侶)』の男は、最早抗う言葉なしと、地面に突っ伏した。

「(狩場でのあの凛々しさとの落差がひどい)」

 嫁の可愛さに疲弊してドキドキと銀正は呻く。

 そんな夫を不思議そうに見下ろし、香流はさてはてと首をかしげている。

 やめて。

 その様すらキツイ。

 愛くるしい。

 キツイ。

 銀正ははぁーと深く溜息をついて立ち上がった。

 香流はやっとこちらを見た伴侶の視線に嬉しそうだ。

 はぁ、かわい……いや、もういい。

 度重なる思考の反復にやっとのことでケリをつけ、銀正はすまないと息をついた。

「と、とにかく、昼時だったな。では戻ろう。皆様をお待たせしては申し訳ない」

 そう言って、銀正は香流の背を押して歩き出そうとする。

 香流は「そうでした」と頷いて銀正の手を取った。

 里までの二人の時間は、離す気はないようだ。

 むず痒い想いで銀正は嫁を見る。

 香流はあの颯爽とした微笑みでにこりと笑う。

 全く、本当にこの人には生涯勝てそうにない。

 銀正は困り切った笑いで、そっと手の中のぬくもりを握り返した。

「銀正殿」

 呼ばわれる。

 うん? と傍らに視線を落とせば、また唇を塞がれる。

 優しくて、全てを解くように愛しい慰め。

 そっと離れるかと思いきや、そのまま吐息は深く交じり合い、銀正は昼日中に溺れた。

 舌が戯れ、音が誘い、背に回された腕が互いをきつく縛る。

「銀正殿」

 合間に愛しい声が自分を呼ぶ。

 いつの間にか銀正も応えている。

 あなたを想うと射抜く視線に、落とされている。

「銀正殿」

 熱を宿しながら香流が笑う。

 きっと全てこの人は見抜いている。

 恥じらいに追いつかない銀正の心も、それでも本当は求めている男としての欲も。

 たまらずに笑う唇へ噛みついた。

 微笑みはようやく腹が座ったかと苦笑している。

 小川のせせらぎが、若い二人の秘め事を流してくれる。

 その小さな手助けに戸惑いを押しやって、銀正は香流との口づけに熱浮かれた。

 あの裁きの庭で目覚めた時のように。

 もうこの人は自分のものだと泣く希求の望むままに。

 深く深く、唇の睦み合いに耽溺していった。


 さて、昼時に二人して遅れたのは、また別の話。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

気まぐれ小噺 □□□ @koten-3

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る