026 実憐ちゃんと景虎くん

 夏休み終盤。予定通り宿題を早くに終わらせた僕と黒口は、家の都合やいつメンに呼ばれない限りは地元周辺でデートを重ねていた。しかも誘っているのは主に僕の方からだ。

 そうしている理由は二つあって、一つはこれまで何かと黒口の方からアクションを起こしてくれることが多かったから、デートに関しては積極的に僕から提案しようと思ったことからだ。実際、提案すると黒口はとても喜んでくれるし、僕自身もそうすることでぐっと距離が縮まっていると実感できる。

 そして、もう一つの理由は、僕と黒口はまともに話してからたった3ヶ月で付き合い始めてしまったことから、ほとんど遊んいないことからだ。付き合い始めるきっかけには色々な形があるけれど、僕と黒口がその3ヶ月で過ごした時間の多くは学校と登下校の電車の中ばかりになる。普通のカップルを何と定義するかわからないが、よく聞く話では付き合うまでにも数回はデートするもので、僕らはそういう実績が無かった。それがあまり良くないような気がして、なるべく出かけようと思ったのだ。


 それに黒口にとっての碓井景虎は3年間と3ヶ月見続けた存在だが、僕にとっての黒口実憐は中学時代の人づての印象とここ3ヶ月しか見ていないという大きな差がある。外へ出かけないにしてもその差を少しでも埋めるために黒口のことを傍で見ていたかった。


 そんな中、この日は定番のデートスポットはあらかた消化したことから一周回ってカラオケに行くことになった。地元のカラオケは夏休み価格ということもあって少々高めではあるが、手軽に遊びに行ける場所としては人気である。

 しかし、僕がカラオケに誘ったのは行く場所のネタ切れでも手軽さと人気に頼りたかったわけでもない。もちろん、目的を果たしつつ普通に歌を楽しみたいと思っているが、カラオケ店に来て歌う以外にできることもある。狭いカラオケルームに男女が二人きり。そこで何も起きないはずがない。そう、僕が起こそうとしているのは…………名前呼びイベントだ。


 いや、別にカラオケでなくてもいいし、今までも言えるタイミングは何回もあった気がするけど、僕はそのタイミングを全て逃していた。何を今更恥ずかしがっているのかと思われるかもしれないが、女の子を名前で呼ぶことのハードルの高さは付き合い始めたところで全然変わらなかった。

 更に言えば黒口は景虎くん呼びに変わった際、暫く苗字呼びして欲しいと言っていたことも呼ぶタイミングを逃す原因になっていた。てっきり付き合い始めたら黒口の方から言ってくるものだと思っていたが、この夏休み終盤になってもそれを指摘される気配はない。

 そうであるならば、これも僕から積極的にやるべきことなのかもしれない。そういう決意からとりあえず二人きりになれる場を用意して、自らを追い込んだわけだ。


「私、この前よりもレパートリー増えたんですよ。最近は淡色社会さんの曲をちょっとずつ覚えてて……」


 予約しておいたルームに入ると、黒口は既に歌う気満々だ。いつメンと行った時が初めてで、それ以降も何回か行っているけど、カラオケで歌うことは結構好きになったらしい。そういう雰囲気的な意味でもこの場所は相応しい。


「景虎くん、この前言ったデュエット曲覚えてきてくれました?」

「も、もちろん」

「やったぁ♪ それじゃあ、今日はそれも歌うとして……はい、景虎くんもどうぞ」


 黒口から渡されたマイクを僕は受け取る。僕がカラオケを選んだのはこいつが心強い武器になるところもある。マイクを通せば否が応でも声は大きくなって、言い淀んで聞かれなかったことにならない。


 これで全ての条件は整った。後は会話の自然な流れで呼べばいい。名前呼びで「今から貴女の名前を呼ぶので聞いてください」なんて言うやつはいないだろうからこの方法が一番だ。それがたまたまマイクに乗せる形で聞こえる。一度呼べばもうこちらのもの……我ながら完璧な作戦だ。


「私から歌ってもいいですか?」

「うん。み……」

「み?」

「……ファソラシド」

「マイクテストですか? でも、何でミから……」

「あー! その……ミと言えばね!」

「はい?」

「……みんなのミだよね」

「あ~ 懐かしいですね。小さい頃、教育テレビでよく聞きました」


 なにやってるんだ、景虎!? めちゃくちゃ緊張してるじゃないか!? 名前呼ぶためにこれだけ大それた舞台を整えておいて、今更ひよってどうする!?

 くっ……この感覚は久しぶりだ。最近はあまり意識しないでも上手くいっていたから小賢しい考え方をしなくなっていたが、この件は色々と考えたせいで本質が見えなくなっていた。よもや舞台を整え過ぎて逆に緊張感を高めてしまうなんて。


「景虎くん、次の入力どうぞ」

「ありがとう、み……」

「み?」

「……んなのうたから選んでみようかな」

「あっ、いいですね。それも小さい頃によく聞いてました。最近はあそこからヒット曲も出てるみたいですし……」

「そうだね。み……」

「み?」

「……なみの島の大王の曲もそこで知ったよ」

「それも懐かしいです。そうだ! せっかくならそういう懐かしい歌も入れて……」


 だ、ダメダメだ景虎……いや、思い出せ。

 お前はもう告白という大きな壁を乗り越えて、今隣にいるのは付き合っている黒口なんだ。

 あの日、電車で恥ずかしがっていた時と同じでどうする。

 名前を呼ぶ。

 重要だけど、たったそれだけのことだ。

 大きな声でなくてもいい。

 自然に、あたかも元から呼んでいたように。

 いけるな、景虎?

 今こそ言う時!


「み、実憐ちゃんは昔の歌も結構好き?」


 ナイスだ、景虎! やればできるじゃないか! 呼び捨てにしようかどうかは今日の朝まで悩んでしまったが、黒口がくん付けならこちらもちゃん付けでOKなはずだ!


「はい♪ あっ、小さい頃に聞いてたって意味ですけど……本当に昔の歌で知ってるのはお母さんやお父さんが時々聞いてた曲で――」


 ……あれ? 元から呼んでいたようにとは思ったけど、自然に流されてしまったぞ? いや、そんなはずはない。今、僕は確実に「実憐ちゃん」と呼んでマイクもそれを拾ったはずだ。でも、黒口は何も気付いていない感じだ。もしかして自然過ぎたのか?


 そう思っている僕をよそに、黒口は入力した1曲目を歌い始めてしまう。僕はそれに手拍子しながらも次をどうすべきか悩んでいた。もう呼んだ判定でいいんだよね? 僕は聞かれたけど、本来はこういうのっていちいち確認しないものなんだよね?


「ふー ちょっとまだ声が出てませんね」

「いや、良かったよ、み……」

「み?」

「…………」


 なにやってるんだ景虎ぁ!? 退化が早すぎるぞ!? こんな夏休み終盤で今までの経験値を無くしてどうする!?

 いや、待て、考えろ。さっきは勢いが足りなかったんだ。これまでも勢いがあれば何とかできてきた。今度こそ押し込め、景虎!


「景虎くん? もう曲が始まって……」

「み、実憐ちゃん!」

「は、はい!?」

「あっ、いや、その…………今日から実憐ちゃんって呼んでもいい?」


 結局、弱気になって黒口にそう確認するろ、黒口はすぐに応える。


「もちろんです、景虎くん♪」

「よ、良かったぁ。さっきは聞こえてなかったんだね」

「いえ、聞こえてました」

「ええっ!? じゃ、じゃあ、いちいち確認しなくて良かったの……?」

「私は別にどちらでも良かったんですけど……景虎くんがそわそわしてるのがちょっと面白くて………つい」


 少し申し訳なさそうにしながら黒口は笑顔を見せる。


「最近気付いたんです。景虎くんに……少しだけいじわるするのが楽しいって♪」

「ちょっ!? くろ……実憐ちゃん!?」

「そうそう。今みたいな反応が何だか可愛くて……」

「そ、そんなぁ……」

「でも、呼んでくれて嬉しいのは本当です。だから……これからもいっぱい呼んでください」

「わ、わかったよ、実……憐ちゃん」

「うーん……もっとスムーズに言ってくれないと……そうだ、ちょうどいいからここで練習しましょう」

「れ、練習!?」

「じゃあ、私から……景虎くん♪」

「そ、そういう感じ!? え、えっと……実憐ちゃん」


 その後、数十分歌そっちのけでマイクに乗せながらお互いの名前を呼び合ったおかげで僕は黒口……もとい実憐ちゃんと呼ぶのもすっかり馴染んだ。そういう使い方をするつもりでカラオケを選んだわけじゃなかったけど、結果的に良かったのだと思う。ただ、また実憐ちゃんに引っ張られる形になってしまった。


「それでもいいんですよ、景虎くん。私の変わった部分を受け入れてくれたように、私も改めて景虎くんが気になる部分は補うようにしていきますから」

「実憐ちゃん……」

「それはそれとして……これからはそういう時にちょっとだけいじわるしても許してくださいね?」

「ゆ、許さないとは言わないけどさぁ……まぁ、それが実憐ちゃんの変わった部分なら受け入れるよ」

「えへへ♪ 楽しいですね、景虎くん」


 そう言われてしまうと、僕も楽しいと返すしかない。まだまだ僕は詰めが甘いから色んなことで不安になるかもしれないけど、こういう日々が続けられるようにできたら、きっと僕も実憐ちゃんも幸せに過ごしていけると思った。 

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黒口さんは薄口がお好き ちゃんきぃ @chankyi

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