012 陰が濃くなる日 前

 僕が過去を語る際、中学時代のことがよく思い出されるのは直近の記憶であるからという理由もあるけど、一番はその時期が短い人生の中で最も影が薄く、存在感がなく、忘れられる頃だったからだ。じゃあ、それ以前――僕の記憶にある程度自我が芽生えてから小学校の間はどうだったかと言われると、影が薄かったことは間違いない。でも、中学時代よりはまだ存在感があったし、忘れられることはなかった。ただし……僕の望んでいない形で。


 それが最も表れたのは小学校の3年の時だ。ここでは敢えて”クラスで目立たない”という表現をさせて貰うが、そのクラスで目立たない碓井景虎は親しくする友達ができないながらも自分としてはそれなりの学校生活を送っているつもりだった。だけど、クラスで目立たないことは誰の目にもつかないわけじゃなく、言葉としては矛盾するけど、逆に目立ってしまうことがある。


『”かげとら”ってカッコつけた名前だよなー』

『ウスイのくせに』

『かげがうすいくーんw』


 目立たないやつだからこそ、先生に隠れて好きなように弄れる。いつの日からか僕はそういう立場にされていた。何かきっかけがあったわけじゃなく、唐突にそうなって悪目立ちしたのだ。ただ、僕の場合は名前や影の薄さをいじられるばかりで、肉体的や物理的に何かされたということはなかった。もしもそうなっていたら……それは考えないでおこう。


 けれども、その言葉の棘はまだ年齢が二桁になる前の碓井景虎の心にしっかりと刺さってしまった。元から引っ込み思案な性格だったこともあり、他人へ助けを呼ぶこともできなかったし、そのくせ変に真面目な部分があったから学校には休まず行くことになった。


 そして、高学年に上がるとそいつらのブームが過ぎ去ったのか、僕への弄りはまたも唐突になくなった。本来ならそれは喜ぶべきことだが、その時点で僕は次の恐怖に怯えていた。


 いつかまた何か言われる。

 言われなくても誰かにあざ笑われている気がする。

 他人の目線が気になる。

 誰も助けてはくれない。


 そう思った瞬間、僕はあることを思いついた。


 ”もっと影が薄くなればいい”


 中途半端にクラスで目立たないという立場になるくらいなら存在感なんて消せばいいし、忘れられた方がマシだ。もっと影が薄くなれば僕は誰にも気づかれずに変なことを言われないで済む。


 それから僕はなるべく前髪を伸ばすことにした。

 歩く時は顔を下に俯けることにした。

 誰かと話す時には目を合わせないようにした。

 声を出す時はなるべく小さな声にした。

 自分で自分を隠そうとした。


 全部……影を薄くするためにやった。


 そうやって作っていった碓井景虎は中学に上がってから完成する。すなわち、碓井景虎は今の髪を染めたりする前に一回変身していたのだ。


 自分でそうなったくせに影が薄いことを嘆いていたのかと思われるかもしれないが、最初の変化は僕が望んだものじゃなかった。それに影を薄くした中学時代はそっちはそっちで別の辛さがあったから僕は高校デビューしたいと思ったんだ。


 でも、結局のところ、その高校デビューも過去に僕を弄った奴らや中学時代の同級生に見せつけるわけじゃなく、遠くの高校で再スタートを切っているのだから変化の本質は変わっていない。


 現状から逃げるために変身する。何ともカッコ悪い話だ。根本的に影が薄いのはそれで仕方ない。僕はその責任を名前や自分の表面に擦り付けて、ずっと逃げ回っている。


 だけど、そんな僕にも一つの変化があった。



 高校まで電車通学になったことで、碓井景虎の朝はそこそこ早起きをすることになった。高校付近の駅まで1時間かかって、始業時間へ間に合わせるには朝の電車の中でもそこそこ早いやつに乗車しなければいけないからだ。


 それは黒口も同じなのだが、朝の電車内まで一緒になることはなかった。俺はともかく、黒口から何も言わないのは、黒口にとって朝の電車内は一人でいたい時間なんだろう。電車を降りた後は学校までの道のりは一緒に行くので、俺にとってはそれまでに眠気を覚ます時間だ。


 だから、朝の電車内だと俺は常に一人で、その瞬間は限りなく素の自分になっている。最近は入学した頃よりは言動を着飾らなくなっているが、それでも学校で過ごす碓井景虎はなるべく喋ったり、積極的に動ごいたりしようと思っている。

 でも、電車内ではそんなことをする必要はないから、その瞬間の碓井景虎は髪色が少し変わっていること以外は言ってしまえば影の薄い碓井景虎になるのだ。


 そして、唯一変目立ちそうな要素である髪色は茶色よりも黒色の方が多くなり始めていた。春休み中に染めてから2ヶ月半ほど経ったからそれは当然のことで、そろそろ染め直した方がいい時期になっている。


 だけど、俺は髪色を染め直さなくてもいいんじゃないかと思い始めていた。その理由は学校で着飾らなくなったわけでも、費用のせいで美容院へ行くのが億劫になったわけでもない。他でもない、黒口のためにそうしてみようと思った。


 その黒口についても散々似合っていないと言われたからとうとう観念してしまったという理由ではない。恐らく黒口が似合ってないと言うのは元の髪色の方が好きだから言っていることだ。どこにでもいる普通の黒髪で特徴的なセットをしたことはないが、そんな髪型と髪色が黒口の好みだった。そうであるなら俺は戻の姿に戻ってもいいと思った。


 それは現状から逃げるために変わって来た碓井景虎にとって、初めてポジティブな理由で変わろうとしていると言える。いや、元に戻るのだから正確には変わるわけではないけど、それは外見上の話で、心の中は確実に変わっているはずだ。


 そんなことを思い始めるくらいに……俺は黒口を気にするようになってしまった。自分からフッたくせに黒口を意識して、それが駄目なことでカッコ悪いことだと思いながらも黒口に何か良く見られたいと思い始めていた。


 その日の朝も電車に乗車してからそんなことを考えながらふと電車内を見渡した。


(あっ……黒口、今日は座れたんだ)


 早い時間の電車でも通勤通学で人は混み合っていて、必ず座れるわけじゃない。そんな中で黒口を見つけた俺は……話しかけてみようと思った。暗黙の了解を破るのは良くないのかもしれないけど、それ以上に朝の電車内の時間でも一緒に過ごしたい。そう思ってしまうほど、俺は衝動的になっていた。


「おっ、黒口じゃん。久しぶり~」

「随分早い電車に乗ってるんだな」


 しかし、黒口の方へ近づき始めた時だ。黒口に二人の男性が声をかけた。その二人は黒口の知り合いで……俺も知っている人物だ。同じ中学校の同級生。俺が会わないようにと逃げた場所にいた二人だった。



 金嶋と杉上について、俺から語れることはほとんどない。金嶋については中学1年生と3年生の2年間同じクラスで、杉上も3年生だけ同じクラスだったことは覚えている。でも、話すことはなかったし、二人の目線には俺が入ることもなかったはずだ。クラスのグループとしては俺と真逆の立ち位置にいた。

 そして、今少し離れた位置から見ても中学の時と比べて二人とも垢抜けた感じになっていた。全体的にイメチェンした俺が言えることじゃないけど、二人も高校デビューに近いことをしたのだろう。


「お、お久しぶりです……」


 そんな二人を見て黒口は少し戸惑っていた。もちろん、黒口の二人がどれくらい親密なのかは推測しかできないけど、少なくとも今の黒口を見ると、声をかけられるのが意外だったように見える。


「黒口、遠くの高校へ行ったって聞いてたけど、こんな時間から電車乗ってたんだなー」

「は、はい。あの……お二人は制服じゃないですけど、今日は……?」

「うちの高校が創立記念日で休みなんだ。それで朝からちょっと遠出しようと思って。良かったら、黒口も来る?」

「おい、金嶋。どう見ても黒口は学校行く感じだろ」

「ははは! そりゃそうか!」


 どちらかというと金嶋の方が黒口に絡んで……って、俺は何を盗み聞きみたいなことをしてるんだ!? 声が大きいのもあるけど、黒口とあの二人で話してるんだから俺が混ざれる余地はない。それに、このまま聞き続けると駄目な予感がする。


「黒口の高校、結構頭いいんだよなー サボったら怒られちゃうか」

「そう、ですね……」

「つーか、制服可愛いくね? うちの高校は色味がダサくてなー」

「そうか?」

「えー!? 杉上的にはアリだったのかよ!?」


 中身のない話を聞かされる黒口には申し訳ないが、ここは別の場所に移動しよう……そう思った時だった。


「そういえば、黒口の行ってる高校ってうちからもう一人行ってるんだよな?」


 金嶋の言葉を聞いて、聞きたくないはずなのに俺は足が止まってしまう。


「黒口は知ってるかな。えーっと……」

「碓井だろ」

「あーそうそう、ウスイ。知ってる?」

「は、はい……3年間同じクラスだったので……」

「へぇー! 意外。あいつ全然目立たないからクラスの女子は全然知らないって言われてたのに」


 金嶋の言葉に対して黒口は何も返せない。だけど、残念ながらそれは事実だ。だからこそ黒口が俺を見ていたと言った時に凄く驚いたんだ。


「かく言うオレもあいつの下の名前思い出せないんだよねー」

「ひどいな、金嶋。3年では同じクラスだったのに」

「えっ!? 杉上は覚えてんの!? 黒口も覚えてる系?」

「わ、私は……」


 黒口、迷っちゃ駄目だ。そういう時は……知らないフリをした方がいい。そもそも最初の質問の時点で俺のことなんか知らないと言うべきだった。いくら黒口が俺を見てくれていたとしても他のクラスメイトはそうじゃない。話を合わせるべきなんだ。


「あー、黒口も思い出せないか。杉上、ヒントくれよ」

「ヒントかぁ……確か、武将と同じ名前なんだっけか」

「確かって、お前もおぼろげじゃんか!」

「いや、今のは同じかどうか覚えてないってやつ。まぁ、どうでもいいけど」

「あ、あの……私」

「おっ、黒口は思い出せた? 今のヒントそんなに良かったの?」

「碓井くんの名前は……」


 黒口、何をしているんだ!? 俺の名前を出しても得することなんて何もない! いいんだ。本来なら俺が聞いていないはずの会話だから黒口が気を遣わなくても。俺のことを知っていることで黒口が変に思われたり、からかわれたりするのは間違っている。


「名前は?」


 黒口、こらえるんだ。


「本当は知らないんじゃないの?」


 それでいいんだ、黒口。


「だって、ウスイってさ――」


 ああ、黒口は――




 ――どうして名前を言ってくれないんだろう。

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