007 わかりそうでわからない1日 後
気が付くとその日の授業はあっという間に終わって放課後。俺は家に帰るため、駅へと向かっていた。わざわざ遠くの高校を選んだ代償として、家から学校までの登下校の中で約1時間ほど電車に乗らなくてはいけない。まぁ、寝ていたらそんなに時間の長さは感じないんだけど。
でも、もう2、3本逃しても帰る電車がなくならないのに帰宅しているのは……疲れてしまったからだ。本当なら教室内でまだ喋っていた奏多たちに混ざれば良いのに、そういう気分になれなかった。それが誰のせいかと言えば……全部俺のせいだ。
今日一日で感じたのは確かに俺の影は薄くはなくなった。現に奏多を始めとする気さくなクラスメイトや黒口の友達から碓井景虎がこのクラスにいると認識されている。ただ、それは俺が自己紹介に成功したわけじゃなくて、黒口に声をかけられたことが印象に残っているだけと思ってしまった。
もし、昨日の流れに任せてファミレスに行っていたら、本当は影が薄くてつまらないやつとバレて、今日にはもう忘れられていたかもしれない。今日話しかけられて話題に出たのは黒口との出来事ばかりだった。
それに俺ときたら、断ったはずの黒口のことを引きずって……今も引きずり中だけど、そのせいで空回りして、奏多たちとの交流のチャンスを逃して、黒口やその友達に迷惑をかけそうになって、何をやっているかわからない。
性根の影が薄いこと前提で生きていた部分がなくならないなら……やっぱり俺は変われないんだろうか。
「碓井くん~!」
そんなことを考えつつ、俺がちょうど駅に着いた時。後ろから駆け足で近づきながら俺を呼んだのは黒口だった。
「ど、どうしたの!? そんなに慌てて……」
「はぁはぁ……う、碓井くんがすぐに帰ると思っていたなかったので。ふー……ちょっと目を離したらもう帰ったと聞いて、追いかけました!」
そうか。当然ながら黒口も電車通学していて……いや、違う。そういう話ではない。帰ろうとする俺をわざわざ追ってきたということは……一緒に帰るつもりなのか!?
「碓井くん、やっぱり歩くの早いですね! 私の歩幅が小さいのもありますけど……普通に歩いてたら追いつけなかったです。それに途中で転んじゃって余計に……」
「転んだって……そ、その傷!?」
俺が視線を下にやると、黒口の右膝から少し血が出ていた。
「あれ? 転んで擦りむいちゃったみたいです」
「た、大変だ! ばい菌とか入ったら……ほ、保健室に!」
「いえいえ、これくらいの傷なら唾をつけておけば治るっていいます」
「そんなやんちゃ坊主の言い分はいいから! 俺、絆創膏持ってるから貼っておこう! そこのベンチ座ってて! ハンカチ水で濡らしてくるから!」
そう言い残して俺はトイレの水道へ向かう。絆創膏を持ち歩いているのは、どうやら俺の影の薄さは紙にも影響するらしく……さすがにそれは言い過ぎか。単に不注意なところがあるからよく紙で手を切ってしまい、その度に保健室へ向かうのは面倒だったから常に持ち歩いていたのだ。
ベンチに戻ると、なぜかニコニコしながら待っている黒口の前にかがんで、膝の様子を見る。
「染みるかもしれないけど、消毒代わりに拭くよ。」
「はい。でも、そんなに痛くないから傷は深くないと思います」
「深くなくても傷が残ったらいけないし……」
俺を追いかけたせいでこんな綺麗な足に傷が……いや、本当に綺麗な足だな。細いわけじゃなくて、何というか女の子らしいって言い方は良くないかもだけど、そういう良い肉付きで綺麗な……って何を考えてるんだ、俺は!? 滅多に見られないからって!
「そ、そんなに見られちゃうと、ちょっと恥ずかしいです……」
「ご、ごめん! そんなつもりじゃ……」
「知りませんでした……碓井くんが傷口フェチだったなんて」
「なんでそっち!? というか、そんなフェチあるの!?」
「でも、それくらいは全然許容範囲です!」
「傷口フェチ前提で話を進めないで!?」
ツッコんでいたらキリがないので、とりあえず黒口の話を聞き流しつつ、血を拭いてから絆創膏を取り出す。傷の大きさ的にちょうどいいサイズを持っていて良かった。
「改めて上から見て思いました。やっぱり茶髪の碓井くん、似合ってな……私は好きじゃないです」
「別に気を遣わなくても……」
「それに、今日はずっと髪型を気にしていました。中学ではそんなことなかったのに……そういうナルシストっぽいのは私的に解釈違いです」
「あれは黒口さんが……いや、そもそも身だしなみを気にするのはいいことじゃない?」
「中学の碓井くんは2日に1回くらい右側だけ寝ぐせが付いてました」
「そ、そんなとこまで見てたの……?」
「私、ぴょこんと跳ねてた髪、可愛くて好きですよ?」
そんな風に言われると照れちゃうな……って、違う違う! どうせ気付かれないと思って直してなかった恥ずかしい部分を褒められてどうする! しかも、それを可愛いって言うなんて……黒口こそ寝ぐせフェチ的なやつなのか? そういうフェチもあるか知らないけど。
「よし、これでとりあえずは大丈夫かな」
絆創膏を貼り終わると、黒口は立ち上がって2回ほどジャンプする。実に危ない。足を怪我してるのとスカートを履いている意味で。
「碓井くん、ありがとうございます! 私、この絆創膏一生剥がしません」
「いやいや、家に帰ったらちゃんと剥がして傷の様子確認して」
「わかりました……」
「…………」
「じー……」
「……………………」
「じー…………」
どうしよう!? やること終わったら離れると思ったけど、そういえば黒口は俺と帰る予定で走ってきたんだった。となると、これから1時間ほど一緒になって……話すことなんてない! 黒口と唯一共有できるのは中学の話だけど、全然盛り上がりそうにないし!
「あっ、電車来ましたよ♪」
とりあえず電車に乗って距離を置けば何とか……なんて甘い考えはできなかった。なぜならこの時間はあくまで部活が無い学生の帰宅時間で、電車内はそれほど混んでいない。つまり、俺と黒口は必然的に隣の席で……
「じー……」
「あの」
「じー…………」
「えっと」
「じー………………」
「黒口さん、どうして向かい側に座るの?」
「この方がよく見えるからです」
そっかぁ、なら仕方ないかぁ。黒口は俺と話すよりも見ている方が好きなのかもしれない。……いやいや、別に全然寂しいとか思ってない。どうしようかと思いつつ、ちょっとだけ隣で話すのもいいかもなんて微塵も思ってない。思ってないけど……
「見るんだったら隣の方がよく見えない……?」
「いいんですか!? じゃあ、失礼します!」
黒口は向かい側の席から勢いよく俺の隣に座る。やった……じゃなくてしまった! 普通に提案しちゃったけど、マジで話す話題はないんだぞ、景虎!? その場の欲望で動き過ぎだ!
「私、碓井くんの隣、初めてです」
「そういえば……中学で隣になったことないか」
「確かにこっちの方がよく見えますね……えへへ♪」
どうしたらいいんだ。俺は黒口をフッて、でも黒口は諦めないと言って、今日も積極的に来てくれて、俺の感情は揺らいで、でもやっぱりフッたのは俺で……
「碓井くん、一つ聞いてもいいですか?」
絶賛葛藤中の俺を遮るように黒口はそう言う。その表情はえらく真剣そうだ。
「な、なんでしょう」
「今日……その他の皆さんが碓井くんのことを名前で呼んでいました。それで、その……私も名前で呼んでもいいのかなって」
「それは全然構わないけど」
「いいんですか!? そんな安売りしちゃって!?」
「別にみんなが呼ぶなら安売りも何もないよ」
「では呼ばせて貰います……景虎くん」
あれ? 黒口は今何と……?
「景虎くん、景虎くん……い、言っちゃいました!」
「え、えっと……黒口さん、名前そのままでいいの? 俺、一応カゲくんって呼ばれてるんだけど」
「もしかして、そのままじゃ駄目でしたか?」
「そんなことはないけど……てっきりみんなが呼んでた話をするから、カゲくんって呼びたいのかと思ってた」
「私にとって景虎くんは景虎くんですから!」
断っておくと、カゲくんというニックネームを付けて貰ってみんなから呼ばれることは普通に嬉しいことだった。今までになかった経験だし、親しみを込めてくれている気がするから。
でも、俺の思考ではやっぱり「カゲ」だけ切り取られるのはどこか抵抗があって……それを黒口は景虎のままにしてくれた。ちょろいと思われるかもしれないが、それが何故だか嬉しかった。
「それに、私の脳内ではずっと景虎くん呼びでしたし……あっ。もちろん、脳内でも碓井くん呼びの期間はありましたよ?」
「黒口さん。今、俺は感情が秒で引っ込む体験をしたよ」
「それより、景虎くんもお返しに私のことも名前で呼んでください!」
「えっ、それは……遠慮しとく」
「なんでですか!?」
「だって、女の子が男の名前呼ぶのと、男が女の子が名前呼ぶのはなんかこう……少し価値が違う気がするし……」
「そんなことありません! 今は男女平等の時代です!」
そうは言われてもこればっかりは平等うんぬんではなく、言い訳しちゃうほど俺が恥ずかしいだけだ。これまで女の子の名前を呼んだことは二次元以外ない。
「もしかして……実憐って名前、言いづらいですか……? 好みじゃないですか……?」
「そういうわけじゃない。ないんだけど……」
「そうですか……」
ああ、何やってるんだ景虎! お前は黒口を落ち込ませることしかできないのか! 告白を断ったんだからもういっそ友達として軽く名前くらい呼んであげろ! 景虎、今の俺ならできる。変わるために呼ぶんだ!
「……み、み、実憐さん」
「はっ……!」
「さ、さすがに呼び捨てやちゃん付けは無理だけど……これなら」
「景虎くん」
「う、うん」
「……あんまりしっくりこなかったのでやっぱり苗字でいいです」
「なんで!?」
今の流れだと呼んでいいやつじゃん! 黒口のこと全然わからないよ!
「よく考えたら今まで景虎くんには苗字すら呼ばれてませんでした」
「それを言ったら俺もそうなんだけど……脳内で呼んでからか」
「はい。だから……もう少しだけ”黒口さん”って呼ばれる時間が欲しいです」
「つまり、将来的には名前で呼べと?」
「わかりません。でも、しっくりきたら呼んで貰います!」
黒口、キミは結構わがままなんだな。いや、押しが強いというか、押し付けが強いと思っていたけど、ここまでとは思わなかった。自分の理想のために動く……正直、その強引な原動力はちょっとうらやましいが、その目標が影の薄い頃の俺なのがどうにも謎だ。
「じゃあ、黒口さんのままで……黒口さん?」
「……すー……すー」
「ね、寝てるし」
電池切れでも起こしたかのように黒口はいつの間にか寝て……俺の肩に寄りかかっていた。この状況を見られるのはたぶん良くないが、周りの人も少ないし、寝かせてあげよう。きっと走って追いかけたり、テンション高く喋ったりしたから疲れたんだろう。
(俺も疲れてたんだけどなぁ)
黒口と喋っているうちに疲れもネガティブな考えもどこかへ飛んでいってしまった。もしかして、俺のそういう空気なのが見てわかっていた? それでわざと絡むようなことを……って、また黒口のこと考えてる。本当にどうしたらいいんだ。
「……えへへ♪」
……まぁ、こんな寝顔が見られるのも今日だけかもしれないから今は悩みとか忘れておこう。幸せそうな顔だ。いったいどんな夢を……
「って、和んでる場合じゃない! 黒口がどの駅で降りるか知らないぞ!? 黒口さん、起きて!」
「むにゃ……」
「いや、むにゃじゃなくて!」
結局、黒口が降りる駅は俺と同じだったからまたも要らぬ心配だった。
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