1-1

 台風が過ぎ去った、ある梅雨の朝のことである。

 古いアパートの一室で、武本カイリはとうとう怒りを爆発させた。


「わーかーりーまーしーたっ! もう父には頼まないよっ!」

「カイリ、ランドセル忘れてるぞ。これを忘れたら、カッコ悪いってみんなに笑われるぞ?」

「う、うるせー! 父のバーカバーカ!!」


 カイリは頬をカッと赤らめて、ペチャンコのランドセルの肩ひもを引っ掴んだ。

 三年前に夢中になった特撮ヒーローものの置き時計は、七時五十分を指している。在宅勤務の父親は、ゆっくりコーヒーを飲みながら、カイリに向かってひらひらと手を振った。


「今日も、ちゃんと勉強してこいよ」

「父のくそったれ!」


 カイリはドアを乱暴に閉め、アパートから飛び出した。

 が、すぐに、ぬかるんだ地面に足を取られ、盛大に舌打ちする。胸の中で、怒りが渦巻いている。


「くそ! なんでダメなんだよ」


 ぼさぼさの固そうな髪。着古した短パンから覗く膝小僧は、赤く擦り剝けている。

 昨日また転んだのだ。


 カイリは三日に一度の頻度で転ぶ。運動神経は悪くないが、少しでも段差があると登りたくなるし、高いところから飛び降りたくなる。

 大人たちに眉をひそめられるが、どうにもやめることはできない。

 小学四年生の武本カイリにとって、擦り傷は勲章。彼が憧れるヒーローたちは、常に傷だらけだから、である。

 カッコいい男には怪我はつきものだと思っているから、少年に懲りるということはなく、生傷と、大人たちのため息だけが増え続けていった。


「ああああああ!!」


 カイリは周辺周囲を気にせず、苛立ちの雄叫びを上げる。荒々しい足取りで歩きだし、道端の小石を思いきり蹴飛ばすと、叱責が飛んだ。


「もう、石を蹴ったら危ないじゃないっ!」


 耳に馴染んだ声に、カイリはうんざりと振り返る。

 百四十センチのカイリより少しだけ背の高い少女は、宮原花音だ。

 胸まである艶やかな黒髪を二つにわけて三つ編みにし、目にかかるほどに前髪を長くしている。その上、黒縁の眼鏡をしているから顔の上半分は見えないし、猫背なこともあって暗い印象だ。


 実際のところ、花音は内気な性格をしている。なのだが……

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