月に吠える


あれは何歳の頃だ

まだ小学校に上がってもいない。

保育園に通っていた小さい小さい頃の記憶だ。

人の記憶は何歳の頃まで遡れるのか

テレビで見た話によると前世の記憶が有るだとか、胎内の記憶が有るだとか。

俺の記憶で1番古いのは2才の頃だ。

2才か?いや2才だ間違いない。

俺が後ろに持ち手の付いた車のオモチャに乗っていて大好きだったおばあちゃんが押してくれてきゃあきゃあとはしゃいでいる記憶。

お父さんに抱き抱えられ顎髭をじょりじょりと当てられ痛がりながらも楽しく笑っていた記憶。

お母さんの買い物に着いて行って玩具コーナーから離れずに駄々をこねる。

間違いない。俺は子供の頃幸せな家庭に生まれ生きていた。


今俺は齢30を越え己の腕に責任のかかる立派な仕事をして生きている。

と自負している。

義務教育を小学校から中学校とこなし得に目立った活躍も無く人並みに挫折したり恋愛をしたり。

高校に入る頃には家の事情で引っ越しを経て未開の地で何となく決めた高校に入る。

滞りなく卒業すると俺は働きに出た。

大学は受かったが金の工面が上手くいかずやむ無しという所で。

そうして俺は幾つもの仕事を経験した。

時には悪い仲間からやらしい儲け話もあったが俺は度胸の無い事を真面目だからと虚栄して断り細々と自分の生活を建て上げていった。

まあ悪い話は今でも断っておいて良かったと思う。

7つ程仕事をやっては辞めてと繰り返して俺は最後にやっと自分の生業はこれだという仕事に就く事が出来た。

その頃俺は29歳。そろそろ落ち着いて人生の設計と施工を進めていこうかという所で毎日の生活がルーチン地味て平和なものになる。

日々仕事を念頭に置き朝は納豆、昼は弁当を作り、夜は安い発泡酒に青魚の缶詰と少しの野菜に味を付けて我が身を労う。


きっとこのまま何も大きな事件も起こる事無く日々を平和に過ごしていけるだろう。

悪くないと毎日思いながら年齢が30を越えた頃にいつものように発泡酒で体を沸かせながら寝床に着くとなぜだか寝付けない。

何故か何となく、ふと思い出す。

子供の頃はこんなだったな。

こんな事があったな。

休息を求める体を無視して覚醒する脳味噌が過去の記憶をザッピングすると1枚の経験が引き抜かれる。


あれは何歳の頃だ。

まだ小学校に上がってもいない。

俺はおばあちゃん子で良く懐いていた。

おばあちゃんの頼みと有らば幼子ながらに煙草を買ってこいなんてお使いもこなして駄賃をもらったものだ。

それがある夜。

俺は両親の間に挟まれ川の字で寝ていた。

おばあちゃんは普段隣の部屋で寝ている。

いつもと変わらない夜の寝床で俺は何故か目を覚ましてしまっていた。

夜中に1人で起きてしまうなんて初めての経験で急激に言い様の無い不安に襲われる。

辺りを見回してもいつも俺が寝るまで起きているはずの両親は寝ていて部屋は灯りが消えて宵闇そのものであった。

俺はどうしようもなく怖くなり寝室を出ていつものと違う恐怖の様相を醸し出す家らしき物から逃げなくてはと思い手を振り乱して走り戸を開け外へ飛び出す。

月明かりに照らされた庭で俺はただ助けを求め、今自分が最も信頼を置く存在を声高らかに月に向かい叫んだ。


「おばあちゃーん!!」


ここで記憶は途切れている。

あの後夜の空気に包まれ怖がっていた自分を両親が嗜めてくれたのか、それとも隣の部屋で寝ていたおばあちゃんが来てくれたのか。

それが全く思い出せない。



おばあちゃんは俺が23の頃に82歳で亡くなった。


おばあちゃんが入院している病院へ俺は毎日見舞いを続けていたが最後に聞いた言葉は

「おい、コーラとビフテキを買ってきてくれ」

だった。


俺はおばあちゃんが大好きだった。

「おばあちゃんもう歯が無いから食えないだろ」と言うのがとてつもなく心苦しかった。


おばあちゃんが亡くなったその夜に俺は夢を見た。

座布団に小さく収まって座るおばあちゃんをただ黙って抱き締める。


おばあちゃんありがとう。

大好きだよおばあちゃん。

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