落とし物


「天気が良い。こうなれば買い物がてら昼飯でも食いに行こうではないか」


誰もいない部屋で男は1人呟いた。

思い立って立ち上がり右手の指に挟んだタバコを親の仇のように力強く揉み消し着替えを取る。

外は汗を良くかきそうな暑さだが手に取った着替えは全て長袖物ばかり。

それは若気が至り体中に彫り込まれた墨絵を隠し通す為である。

地元から離れ閑静な住宅地の貸部屋で1人暮らし始めた男は周りの迷惑や評判を考えなるべく悪目立ちせぬようにと心がけていた。

そんな男にとっては夏日の長袖等という苦行は最早慣れたもので、汗こそかくものの辛さを感じる事は無かった。


外に出ると管理人が行ってらっしゃいと見送ってくれた。

管理人は貸家の1階で小さな病院を経営しておりとても良い人柄をしていた。

どう良いのかというと朝のゴミ出しの時だ。

男がゴミ袋を持って部屋を出、階段を下りようとすると管理人が朝早くから階段の掃除をしていた。

男に気づいた管理人は

「ああおはようございます。ゴミなら出しときましょうどうぞ」

と言ってこちらに手を出す。

そんな自分で持っていきますと言っても

「ああ良いですどうぞどうぞ」

と譲らない。

そう固く善意を突き付けられたらやはり刺さりに行かねばなるまい。

男は根を負かして恭しくゴミ袋を管理人に手渡す。

「はいはいああどうぞ」

別にゴミ袋の中を改めて分別について説教をするでもない。

箒を壁に立て掛けさっとゴミを出し戻ってくるとすかさず掃除の続きを始める。

管理人はただ自分の管理する場で目と手が届く範囲で何かをする人には何か手を貸すだけ。

人柄が良いとはこの事だろう。

そんな損得勘定の無い管理人の心意気が男は好きであった。

だからゴミの分別にも気をつけている。


管理人の見送りがあっていよいよ気持ち良く歩き出し、男は駅に向かう。

駅前の喫茶店の前には灰皿が置いてあり、電車に乗る前にそこで1服入れておく。

お供に缶コーヒーを携えて。

自分の足を止めてる間に目の前を幾多の人が目に入る。

手を繋ぎ歩く老夫婦。

幼子の突拍子もない動きに翻弄される若い父親。

同じく足を止め1服を嗜むハイカラな女性も。

自分がもう少し若くて酒でも入っていれば声をかけ共に1服楽しめないか交渉にも挑むのだが今日は止しておこう。


電車に乗り3駅。時間にしておよそ10分足らずか。

目的の駅に着き電車を降りる。

思ったより人が多いが予め改札口に近い車両に乗っておいたのでとてもスムーズに駅から出られた。


さて。

先ずは買い物を終わらせてしまおう。

男が降りた駅から出ると目の前に商店街があり、昼間は人通りが多く賑わっている。

長く続くアーケードの中では流行の曲がかかっていて心なしか道行く人も楽しそうに見える。

さながら自由参加型のパレード。男も思わず浮き足立つ。

程無くして目的のスーパーに着き目当ての物を思い出す。

思い出すと言っても予め買う物を決めていた訳では無く、自分の好きな物を思い浮かべる程度の物である。


この時期はトマトが旨そうだ。

きゅうりも良い。塩で揉んで辛く和えるか。

夏だし〆た鯖なんかも乙だ。

いかんこんな事ばかり考えていたら酒も欲しくなるではないか。

よし、したらば今日はビールも買ってやろう。

男は色とりどりに並べられた野菜や魚を見ながら上機嫌で籠へ目当ての物を放り込む。

男は晩餐の楽しみも抱えながら目先の楽しみも抜かり無く考えていた。


昼飯はどうしよう。

そうだ。駅前に旨いと評判のお好み焼き屋があったな。

ああ考えるまでも無かった。思い浮かんだ所でそこで決まりに決まっているのだ。


男はこの後の至福に備えつつ勘定へ向かう。

レジも運良く混んでおらず籠を渡し店員が数えている間に財布を出しておく。

出しておくのだが。


どうも無い。


いつもは長ズボンの尻の右ポケットに入れている筈の財布が無い。

家に忘れて来たのだろうか。いやそんな事は無い。

男は電車に乗ってここまで来たのだ。

間違い無く財布から金を出していた。

たまたま他のポケットに入れてないか体中のポケットを叩く。

しかしタバコ以外何も出てこずただ焦る。

無情にも店員から会計を言い渡されちょっと間途方に暮れ、はっと停止した頭を奮い起こす。


探さねば。


男は吟味した晩餐の品を名残惜しくも店員に預け買い物を中止する。

電車に乗った時は確かに財布は有った。

ならばこの町の駅からここまでの間に落ちているのではないか。

何とか自分を落ち着かせながらも早歩きで注意深く自分の歩いた軌跡を辿る。


こういう時人は諦めと希望が混ざり合いその2つの考えを纏められず冷静に物を見られなくなる。

駅からスーパーへは寄り道をせずまっすぐ来た筈なのにあちこち見回してしまう。

ふと目が合った人を貴様が拾ってネコババしたのかと疑ってしまう。

そして同じ来た道を何度も往復して他人には長袖長ズボンの男が息巻いて歩き回り不審に思えた事だろう。

男はあちこち見回った挙げ句に商店街の終わりに交番を見つける。

ひょっとしたら届いて無いだろうか。

1抹の希望にすがり戸を叩く。

すぐに警官が出て来たが夏日の昼下がりに秋の装いで息の上がった男に怪訝な目を向ける。


男は1呼吸置いて

「つい今か先程に財布の落とし物はありませんでしたでしょうか」

言いたい事は1言間違い無く伝えた。

すると警官は少し待てと言い奥から見覚えのある2つ折りの財布を出してきた。


ああ正に。果たしてそれは間違い無く男の財布であった。

ほーと大きく1息ついて自分の物である旨を伝え、警官と共に中身を改める。


自分の身分を証明する物や必須のカード類等はしっかり残っていた。

しかし肝心の札入れは山吹色の葉は散り尽くし漆黒の谷の様相であった。

警官曰く、届けられた時点でこの有り様で届けてくれた方の電話番号も頂いてるので中身を抜かれ捨てられていた所を心優しく届けてくれたのだろうと。

男は落ち込みながらも届けてくれた方に感謝の念を抱きつつ警官にお礼を言い交番を後にする。


どうするか。

幸い小銭は無事だったのだ。

金は引き出せば買い物も出来るが今日はもう止めて帰ってしまおう。

帰ったら届けてくれた方にお礼の電話を入れよう。


住まいの駅に駅に着き、残った小銭で缶コーヒーを買い駅前の喫茶店前に置かれた灰皿へ向かう。

タバコに火をつけながら男は顛末を振り返る。


普段の0点より天気が良かったからいつもより5点気分は良かった。

だが財布を落として10点下がる。

運良く交番に届いていたので10点戻った。

と思ったら札が無くなっていたのでまた5点程下がる。

しかしカードや身分証明書は無事だったので3点回復といった所だろうか。

結果マイナス2点。傷は浅く済んだのだ。


済んだ事だし切り換えよう。

飯も有る物で済ませたら良いさ。


男は昼飯を食いそびれた事を腹が鳴って思い出した。

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