第13話 あの時あいつは笑っていたのだと、後から先生は教えてくれた。

 もはや自分の部屋のように我が物顔でドアを開けたユメノとユウキが、「タイラー」と呼びかける。返事がないのも今に始まったことではないので、勝手に奥へ進んでいった。

 しかし、血だまりに顔を突っ込んで倒れているところを見ればさすがにユメノもユウキも仰天する。近づいて行って、タイラの肩を揺らした。


 薄く目を開けたタイラが、ガバッと起き上がる。どうやら血だまりは彼の鼻血が原因のようだ。ユメノたちはほっとして、「火曜サスペンス劇場みたいになってたよ」「点滴取っちゃったんですか? ダメですよ」と話す。

「……タオルを持ってきてくれ」

「はーい」

 タイラは自分で作り出した血だまりをタオルで拭き始めた。まだ止まっていない鼻血が、その上からまた血痕を作る。「意味ないよ、それ」とユメノは指摘しながら流れるように冷蔵庫の中へ入った。するとユウキもその下の段に収まる。冷蔵庫を開けたまま「ねえタイラぁ」と呼んだ。


 タオルを自分の鼻の辺りにあてたまま、タイラは歩いてきた。ぷつん、と電源が落ちるように手前の方で倒れる。冷蔵庫の中からはよく見えなくて、いきなり視界から消えたタイラにユメノたちは驚いた。


「! タイラっ」


 大丈夫だよ、と存外冷静な声が返ってきた。「貧血だ。しばらく横になってたら動けるようになる」とタイラは言う。「ほんとに?」とユメノたちは声を合わせる。「本当だ」と可笑しそうな声が聞こえた。

 何とか、顔を上げたらしいタイラが笑う。「お前ら、アザラシみてえだ」と言って笑う。


「あのねえ、タイラ。この療養所の隣に、グループホームってやつ造るんだって」

「グループホーム?」

「うん。奇病持ってる人たちで、治療とか療養とかが必要なくなったけど家に帰れなくて、そういう人たちで集まって暮らすの。スタッフさんが言ってた。柊先生がいきなり言い出したんだって」


 一瞬の沈黙の後で、タイラがしみじみと「あの人は本当にすごいよなぁ。もっと敬っておけばよかった」と呟く。それがどういう意味なのか、ユメノもユウキもわからない。

 珍しく弾んだ声でユウキが「それができたらぼく、入れるかなぁ。子どもだけど」と話している。「あたしも! あたしも!」とユメノも言った。

「ノンちゃんも入るかもよ。お父さん海外に出張してるって言ってたもんね。アイちゃんはどうかなぁ」

「隣に療養所があるから、遊びに来られますね」

「柊先生は怒りそうだけどね」

 そうしたらさ、とユメノがはにかむ。「パーティやろうね、今度はクリスマスの」と言い出した。「クリスマス!」とユウキも目を輝かせる。2人であれをしようこれをしようと話をした。


「ねえ、タイラ。聞いてる?」

「んー」

「クリスマスのパーティは寒いだろうけど、絶対来てよね」

「そうだなぁ」


 くぐもった声が聞こえる。「チキンを焼こうなぁ、でかいやつ」とタイラは言った。上の空のような、夢見心地のような、不思議な声だ。

「ガキの頃、あれが本当にうらやましかったんだ」

 それ以降、何を話しても返事はなかった。




 さすがに様子を見ようかと考えたころに柊が来た。ドアを開けていつも通り怒声を飛ばそうとしていたようだが、そこにいるタイラを確認して目を見開く。物音を立てず速やかに膝をつき、何かぶつぶつ言いながらタイラに触れた。


 それから無言で立ち上がり、柊は沈痛な面持ちで冷蔵庫の中のユウキとユメノを見る。「来なさい」と有無を言わさない響きで腕を広げた。ユウキを抱き上げる。ユメノにも出てくるよう促した。

「部屋を出るぞ。病棟に帰るんだ」

「うん……。タイラ、寝てるの? 大丈夫って言ってたけどすごく鼻血出てて、つらそうだから止めてあげて」

「お前たちを帰したらな」

 柊はユウキを抱いたままタイラの病室を出て、ユメノもついて来ていることを確認してから鍵を閉めた。


 中庭を歩きながら、ユメノは「あっ」と呟いて後ろ髪を押さえる。

「アメピン、落としたかも」

 そう言って、振り向いた。呆気にとられる。


 蜃気楼が見えた。隔離病棟の一番奥の病室。奇妙に明るい。目を凝らす。疑いようもなくはっきりと、燃えていた。


 走り出そうとするユメノの腕を柊が掴む。「はなして」と叫んだが、柊は力任せにユメノを引き寄せてユウキと一緒に抱きしめた。

「もう、寝かせてやれ。1ヶ月……あいつは1ヶ月、生き切ったろうが」

「どうしてそんなこと言うの。もっと一緒にいられるんなら、いたいよ。まだ間に合うかもしれないのに」

「間に合わない。間に合わないんだ……。あいつがここに来た時から、もう間に合わなかったんだ」

 力を抜いたユメノが、その場に膝をつく。沈黙が辺りを包んだ。


 先に泣き出したのはユウキだった。今までずっと黙っていたのに、何か糸が切れたかのように大きな声で泣いたのだ。柊はユウキとユメノの手を引いて歩いた。泣き方ひとつとっても、あの男と出会う前とは何もかもが違っていた。

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