第12話 始まりも終わりもなく、そこには恋だけがあった。
プールサイドに腰かけて、都は耳を澄ませる。蝉の声と水音。それ以外の――――
ガチャ、と軽い音が響いた。目を開けて、都は立ち上がる。そして部屋から出てきた彼に声をかけた。
「こんにちは、タイラ。今日もいい天気ね」
タイラはこちらを見ない。ため息をつきそうになりながら、都は彼に近づいた。
ここ数日のことだ。彼はほとんど意識のないまま部屋を出る。白昼夢でも見ているのか、彷徨っている。都はそんな彼に付き添って少し歩いた。最後には部屋に送る。それだけ。彼は恐らく覚えていない。
倒れたまま引きずられている点滴台を起こして、都はそれを押しながら歩いた。「ダメよ、点滴台を引きずっちゃ。また柊さんに怒られてしまうわ」と話しかけるが、返答はない。
高熱発火病は進行するほどに脳へのダメージが大きい。意識が混濁するのも当然と言えば当然だった。その状態で彼がどこへ向かおうとしているのか気になった。だから隣を歩く。すぐに部屋へ連れていかずに、しばらく様子を見る。だけれど病棟より外へは出せないのだ。それは都にもよくわかっている。
「昨日雨が止んだあと虹が出たの、見た?」
答えがないのをわかっていて、言った。当然のようにタイラはこちらを見てさえいない。寂しく思いながらも、「実結がはしゃいでた。虹を見たのは初めてだったのかもしれないわ」と続ける。
不意に、タイラが立ち止まった。都も動きを止めて、振り向く。タイラは汗をかいて、その場にうずくまった。
「タイラ……?」
膝をついて、タイラの様子を見る。目は薄く開けているが、焦点が定まっていない。首筋に手を当ててみる。都の冷たい手に嫌がる素振りを見せてしかるべきだが、何の反応もない。意識レベルが、いつもより数段低い。
「今、柊さんを」
腕を掴まれた。タイラがこちらを見ている。「呼ばないでくれ」と確かに声を発した。
「眠らされたくない。今、起きたところだ」
久しぶりにその、夜色の美しい目を見た気がした。
「だけれど、タイラ」
「どうしてこんなところにいるんだ……? 寝ながら歩いたのか」
「やっぱり覚えていないのね」
「ああ……でも、そうか。ずっと君の声が聞こえていた気がする」
なんてずるいことを言うのだろう、と都は思う。タイラは自分の身体を支えられず、その場に横になる。都にも彼を支える力はない。ただ見守るだけだ。タイラは本当にひどく汗をかいている。彼の身体はずっと誤作動を起こし続けていて、大量に発汗させたり鳥肌を立たせたりと忙しいのだ。だから今も、こんなに汗をかきながら彼は震えている。
「柊さんを呼びましょう」
「もう少し起きていたい」
「そんなにつらくても?」
「ああ。目が覚めたらこんなにいい女がいて、どうしてまたすぐ眠らなきゃならないんだ」
都は眉根を下げて、タイラのすぐ横に腰を下ろした。膝を抱えて、「昨日虹がかかったのを見た?」と聞いてみる。タイラはぼんやり天井を見ながら、「見たと思う」と曖昧に答えた。
「実結がとってもはしゃいでた」
「それはいいな。あの子が喜んでるところは本当に癒される」
空気が抜けるような笑い方をして、都は「ありがとう」と言う。タイラも目を細めて、「何がだよ、俺が勝手に癒されてんだよ」と笑った。
「君は近頃、よく研究所の方に行っているみたいだな。そんなに元の職場が好きか?」
「ええ、あそこには夢があるから。私がいない間にも医学は進んでいて、そのうちきっと多くの奇病は治療可能になるわ」
ふうん、とタイラは呟く。「君は娘の奇病を治すために研究者になったんだったか」と前に話したようなことを口に出した。都は苦笑して、「そうね」と肯定する。
「絶対にあの子を諦めたくないもの。たとえ意思疎通ができなくなっても私の娘であることには変わりないけれど、できることがあるなら全部やってあげたい」
早く研究に戻りたい、と都は独り言ちる。「そうしたらきっと、発火病の治療法も見つけてみせる」と唇を噛んだ。タイラは笑って、「ああ。いつかそうなるといいな」と言った。
「俺は君のことを本当に尊敬してるんだぜ。君たちの仕事を。いつか、報われるといいな。君も、君の娘も、あいつらも……世界を愛した分だけ、返ってくるといいのにな」
それからタイラは都の顔を見て、ぎょっとする。「泣いてるのか?」と見ればわかるようなことをわざわざ声に出して確認した。どうやら焦っているようだ。
都は両手で顔を覆う。「ダメよ。そこにあなたも入っていないと、ダメ」と都は嗚咽を漏らした。
「怖かったの、私。実結のことを絶対に諦めないと決めたけれど、それでも怖かったのよ。到底人の手が届かない領域かもしれない。全てが無駄なのかもしれない。この子はいつか人の言葉をわからなくなって、何か違う生き物になってしまうんじゃないかって」
子どものようにしゃくり上げる都を、タイラはおろおろしながら見ている。都は「だけどあなたは」と続けた。
「そんなあの子の行く道を、“人生”と呼んでくれた。あの時。実結だけじゃない。私や彼らの道を、等しく人生だと言い切ったの」
困惑した様子のタイラが「そんなこと」と肩をすくめる。「何も知らない第三者が無責任に言ったことを、そんなに真に受けんなよ」と言った。都は思わず彼の頬を叩く。いてえ、とタイラはショックを受けたようだった。
「あなたはそういう人ね。どれだけ私たちを救ったか知らないのよ。どれだけ私たちが……私が、あなたを……」
「何だよ……怒んなよ」
少し不貞腐れたようにタイラは仰向けになり、腕を自分の頭に回して枕にする。都はすんすんと鼻を鳴らし、今更に彼の前でみっともなく泣いたことを恥じていた。
よくよく考えれば、都は着ている服も必要最低限で、化粧すらしていない。そう思うと初対面から都はみっともなかった。濡れた白いTシャツを握りしめて「私だって」と都は呟く。
「違う出会い方をしていたら、もっと可愛い服を着て、毎日あなたに会いに行ったわ」
「いや、あんた十分可愛いだろう。まあもっと露出度の低い服を着るべきだとは思うが」
それに、とタイラは表情を緩めた。「あの時思ったんだ」と話す。
「あの時?」
「君が俺とプールに飛び込んだ時」
「ああ……あれは本当に、何と言っていいか……」
「人魚みたいで、綺麗だなって」
虚を突かれて、都は言葉を失った。苦笑して「本当にずるいことを言うひと」と囁く。
必死の思いで飲み込んだ『それならこの恋を失ったとき、私も泡になって消えるのね』という言葉は、たぶん水の底へと沈んでいった。
そうはならないのだ。いっそ、そうであったらどんなにいいかと思っても。そうはならないのだ。
たとえば人魚姫は王子様を助けて始まる物語であって、都は彼を助けることはできなくて、だからこれは始まりも終わりもしない話なのだ。そうだ、誰かに奪われたのであれば本当によかったのに。彼はその完全性を保ったまま、ひとりで死んでゆく。都の手が届かない海底に沈んでゆく。それだけ。
一筋だけまた涙をこぼして、「本当に人魚だったらよかった。きっといい薬になったでしょうね」と都は笑ってみせた。
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