第10話 先のない狼と迷える子羊

 ヒールの音を響かせながら廊下を歩く。黒い羽根が舞っては落ちた。そうして美雨は立ち止まる。前方に人影が見えたからだ。腕を組み、美雨は眉をひそめる。


「何です、それ。ペット?」


 そこに佇んでいる男――――タイラの点滴台を指さして尋ねた。タイラはといえば飄々として「まあ、そのようなものだ。俺の後をついてくる」と答える。なので美雨はそれが冗談なのか、それともいよいよ頭のおかしくなった男の妄言なのか判断しなければならなかった。

「あなたが部屋の外に出ているなんて、珍しくてね」

「? へやのそと」

 妄言だったかもしれない。


 それはそれで面白いので、美雨はタイラの隣に並んで話をすることにした。『それにしても暑苦しいですわねこの男』と思いながらタイラを見る。

「お加減はいかが」

「知れている。お前はどうだ」

 いまいち、正気なのかそうでないのか掴めない。単刀直入に、「あなた頭は大丈夫ですの?」と聞いてみる。タイラはきょとんとした後で、薄く笑みを浮かべ「どんな返答をしてもお前のいいようにとるだけだろう」と答えた。美雨は少し考えて、『まあ正気か』と頷く。


「お前は自分がまだ正気だと?」

「……失礼な男でしてね。私はまともですわよ」


 楽しそうにタイラは喉を鳴らした。美雨はムッとして、「お元気そうで何より」と舌打ちする。

「死に損なった割には、ですけれど」

「ああ……それはそうだな。楽しいよ、今までのことなんて全部忘れるほどだ」

「蝉のような男ですわね」

 何年も地中で過ごし、最期の1週間で生を謳歌するあの煩い虫だ。タイラは「蝉か」となぜか嬉しそうに呟く。好きなのだろうか。まさか。あんなもの、本当にやかましくて敵わない。


「七日目の朝に守りたいものが見つかった気分はいかがです」


 そう言ってやれば、タイラの表情から笑顔が消えた。

「これが死ぬということであるなら」と呟く。「お前にもいずれわかるよ」と。

「愛おしい息子の顔さえやがて忘れていくんだろう。その時わかる」

「何を……」

「ついにこの病棟に移ることになったのか、美雨」

 言葉を失い、美雨は思わず顔を背けた。そうして、早く自分の病室へ入ってしまわなかったことを後悔する。「そんな日は来ませんわ、絶対に」と吐き捨てた。


 ふと、タイラが美雨の髪に手を触れる。「ちょっと」と抗議しようとしたが、いきなり腕を掴まれて閉口した。手袋越しにも熱が伝わり、火傷しそうだった。

「お前も、綺麗な思い出だけ抱えて燃え尽きたらどうだ? 全てを忘れる前に」


 ほんの数瞬でも、魅力的に感じた自分を恥じる。


 歯を食いしばって睨みつける美雨を見て、タイラは目を細めた。「お前のその、虫でも見るような目を見ていると……何か思い出しそうだ。どこかで会ったことがあるか?」と首をかしげる。それから美雨の頬に手を伸ばした。

「意地を張るなよ。いいんだぞ、全て俺のせいにして。お前はここで終わってもいいんだ」

 罵声の一つでも浴びせてやろうと口を開くと、それを遮るようにして少年の凛とした声が響いた。


「こんにちは、タイラさん」


 あきら、と美雨は呟く。夏の日差しが仮面に反射した。少年は確かな足取りで近づいてくる。

「あまり母を誘惑していただいては困ります。こう見えて母は父に一途ですので」

「そんなつもりはなかったんだが」

「そうでしょうねぇ」

 立ち止まった章がくすくす笑った。「だってあなたは、優しい方だ」とタイラを真っ直ぐに見る。首を傾げたタイラは、そんな章を指さした。

「お前、怒っているのか?」

 章は動きを止め、肯定も否定もせずに息を吐く。タイラはあっさりと美雨から離れ、章に近づいた。美雨が止めようと腕を伸ばすが、タイラはそれを振り払う。拍子に、点滴台が倒れた。


「お前が今、どんな表情をしているか当ててやる」


 一歩後ずさって、章は「面白いゲームですね、タイラさん」と言う。「声が震えなかったのは褒めてやるぞ」とタイラは笑った。

「慌てているな。それから、怯えてもいる」

 目の前に立って、章の仮面を両手で包む。燃えるような熱さが彼の体温によるものなのかそれとも自分の焦燥からくるものか、章にはわからなかった。

「俺が怖いか? 章」

 ひゅ、と勝手に喉が閉まるような感覚がある。「それでもお前は来た。俺に怒っていたからだ。母親にちょっかいを出されて憤るというのは意外だな。お前、存外この女を愛していたのか」とタイラは続けた。

「それから……泣いているんだろう。そうだな、お前は最初からそうだった。初めて会った時から怒っていたし怯えていたし、泣いていた」

 章は肩を震わせる。「さわらないでください」と逃げようとして、しかしタイラはそのまま章の仮面を掴み――――ゆっくりと、剥がした。


 呆気にとられ、章はタイラを見る。久方ぶりに視界は広がり、光が真っ直ぐ目を貫いた。

「なあ、全部合ってたろ?」

 仮面を放り投げながら、タイラは得意げに言う。


 拳を握りしめ、章はタイラを睨んだ。「何てことを」と責める。

「僕はこの病気に救われていた。あの仮面さえあれば、僕は……僕は、ずっと笑えたんです。何があっても笑えたんだ。それなのに」

 ちっとも聞いちゃいない様子で、タイラは目を細めた。「ああ」とだけ呟く。章は首を横に振って、「あなたの優しさはいつだって無責任だ。何でもできるあなたが全てを為して、あなたがいなくなった後誰があなたの代わりをするんです? これ以上僕たちに何も残さないで」と吐き捨てた。

「彼らにあなたを紹介したのは僕です。だけど今はそれを後悔しています。あなたは、これほどまでに彼らを愛するべきじゃなかった」

 呼吸を乱しながら章はうつむく。涙が顎を伝って、床に滴が落ちた。


「これほどまでに、僕たちに愛されるべきじゃなかった」


 何も言わずに、タイラは倒れた点滴台を起こす。それから章の鼻を軽くつまんで苦笑した。

「それでも、最後にお前の顔が見られて満足だ。なんだ……綺麗な顔してるじゃねえか」

 がらがらと、点滴台を引きずっていく音がする。彼の姿が消えて、温度すら下がったようだった。寒さを覚えるほど。


 章は途方に暮れながら、まず母に視線を移す。美雨もぽかんとしていて、ただ小さな声で「あきら……あなた、顔が」と呟いていた。「剥がされてしまいました」と章は肩をすくめる。美雨は鈴が転がるように笑った。

「あなた、由良さんに似ましたねえ」

「そうでしょうか」

「あなたのお父さんに一途な私が言うのですから、間違いありません。あらあら、本当に……綺麗な顔。私たちの息子は世界で一番の美形ですわ」

 思わず章は顔を赤くする。仮面は彼方に飛んで行ったところで、その顔を隠すものはもうない。


「それにしても、どうしてタイラさんはお母さんにあんな絡み方をしていたんでしょうか」

「まあ先に絡んだのは私ですし、軽めに煽ったのも私ですが」

「お母さん…………」


 頭をかいた章は、「後でタイラさんに謝っておきますね……」と盛大にため息をついた。

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