第9話 その孤独を、ぼくより先に知っていたひと
息を切らしてたどり着いたものの、ドアを叩くこともできずにユウキは自分の足元を睨んでいた。よくよく考えればユウキはいつだってユメノと一緒だった。ユメノが先陣切って歩いていくその後ろをついていたにすぎない。タイラの部屋に来るのだって、いつもユメノのついでだった。
やっぱり帰ろうかと背中を向けたその時、ドアが開いた。「なんだ……帰るのか?」と声をかけられる。ユウキは仰天してしまって、「な、なんでぼくがいるってわかったんですか」と言ってしまった。
タイラはくつくつと笑って、「外で話をしようか?」と言う。ユウキは迷ったが首を横に振り、「冷蔵庫に入っていいですか」と尋ねた。
呆れかえった顔のタイラが、冷蔵庫の中でむすっとしているユウキを見ている。肩に上着を羽織ったまま腕を組み、「そんなことをするぐらいなら本当に外に出ないか」と提案した。ユウキは頑なに首を横に振る。
「柊さんに怒られるのは俺なんだぞ?」
「怒られ慣れてるじゃないですか」
「何だと、この」
言いながらタイラはユウキの頬をつつき、「つめてえ」と自爆した。手袋をしていてもダメだったようだ。
点滴をするようになったからか、タイラは幾分か薄着になっている。その代わりというか、部屋は以前よりも室温を高めに設定しているようだ。
「お前はどうして一人で来たんだ?」
「走ってきました」
「手段じゃなくてだな」
タイラはベッドの横から椅子を引きずってきて、冷蔵庫の前に置く。腰かけて、頬杖をついた。
「ユメノと喧嘩でもしたか?」
「してませんよ!」
いよいよムッとしたユウキがタイラを睨む。
「そうか、そうだな。喧嘩になればユメノの方が参るだろうからな」
「なんですか。知ってるみたいな顔しないでください」
「じゃあお前が勝手に腹を立ててるんだ。そうだな?」
ユウキは言葉に詰まり、泣きそうな顔をしてしまった。顔を見られないように伏せる。足を組んだタイラが、優しい声で「そうやって冷蔵庫に閉じこもるために俺の部屋に来たのか?」と尋ねた。ユウキは黙って首を横に振る。
「ユメノちゃんが、退院した後の話をするようになったんです」
「ああ」
「そうしたらぼくは、すごく嫌な気持ちになったんだ。嫌な気持ちになったぼくが本当に嫌だったんだ」
「そうか」
ぼくは、と拳を握った。ユウキは唇を噛む。「ぼくはどうして嫌な気持ちになったんですか? 教えてください」と顔を上げた。思っていたよりずっと優しい目をして、タイラはこちらを見ている。
「それはお前自身がよくわかっているだろう。お前は頭のいい子どもだから」
「……ぼくが飴喰病だからですか?」
「そうでないお前を知らないから何とも言えないが……その生きづらさは病気のものとも違うような気がするな」
冷蔵庫の中に腕を伸ばして、タイラはユウキの頭をなでた。鼻の奥がツンとして、ユウキは思わず顔を隠す。それからわっと泣き出した。
「ぼくには行くところがないんです。お父さんもお母さんも死んじゃった。奇病の子どもなんてどこも受け入れてくれなくて、ぼくは……ぼく、ここを出ることになったらどこに行けばいいかわからない」
しゃくりあげながら続ける。途切れ途切れ、それでもやめない。「ユメノちゃんといっしょにいたいよ。みんなといたい。でもみんな退院していくし、ぼくもいつか出て行かないといけないんだ」と話した。
目を細めたタイラが「そんなにたくさん、隠していたんだなぁ」と呟く。「平気なふりは疲れたろう。お前は強いな」とユウキの涙を拭った。
「いいんだよ、物分かりのいい子どもにならなくて」
「でもここにいる人たちはみんないい人です。だれに何の文句を言うんですか」
「文句を言う相手がいなくても、我儘なら言えるだろ」
「柊先生が過労死しちゃいます」
「しねえよ。あの爺さん、この前俺を羽交い絞めにしたんだぞ」
タイラの手袋をびしょびしょに濡らしながら、ユウキは「ぼく、死んでもいいから普通のご飯を食べたいな」と言う。どうせなら我儘を吐き出していこうと思った。タイラは少し困った顔をして、「俺はお前にそうして欲しくないが」と肩をすくめる。
「どうして?」
「……実を言うと俺は昨日、寒さに耐えかねて風呂に入ろうと思ったんだ。自分の体温よりずっと熱い湯を沸かしてな。それで死んだとしても、その方がいいと思った」
ぽかんと口を開けてユウキは話を聞いた。『死んでもいいから普通のご飯を食べたい』というユウキの我儘を、当然のように受け入れて『俺も、死んでもいいから熱い風呂に入ろうと思った』なんて話をする。本気だろうかとタイラを見るけれど、涼しい顔をするばかりでよくわからない。タイラは続けて「まあ、湯を沸かしているうちに寝ちまって事なきを得たわけだが」と笑う。
「それで今日、お前が部屋に来たわけだ。お前が部屋に来て……そうしてお前の顔を見たとき、そんな馬鹿なことをしなくて本当によかったと思ったんだ。お前は、俺の生きる今日に意味をくれた」
瞬きもせずにタイラのことを見ていた。その言葉に隠されたどんな想いも取りこぼしたくなくて、だけどやっぱりユウキにはタイラの気持ちが全部はわからなくて。
「なあ、お前……ここを出たら、俺の」
言いかけて、タイラは動きを止める。何とも言えない顔をして、うつむいた。「? タイラ、どうしたんですか」とユウキは尋ねたが、タイラは答えない。ただ黙って自分の手のひらを見ていた。濡れていた手袋はもうすっかり乾いている。沈黙が辺りを包み、その代わりに蝉の声がうるさく聞こえた。
もう一度呼びかけようかと思ったその時、ドアを開けて柊が入ってきた。冷蔵庫に入ったユウキを見つけて、言葉にならないほど怒る。ユウキは「ごめんなさい、ごめんなさい」と言いながら耳をふさいだ。
引きずり出されたユウキは外にいるスタッフに抱きかかえられ、強制送還となった。
冷蔵庫を閉めてやって、柊は椅子に腰かけたままのタイラを見る。「調子はどうだ」と端的に尋ねれば、タイラは肩をすくめて「上々だな」と答えた。肩にかけていた上着がずり落ちる。
「……なあ、あの子どもの親は死んだのか」
「俺がそれを教えるとでも?」
瞬きをしたタイラが「何でもかんでもあんたに頼むのは気が引けるんだが」と呟いた。「言うだけ言ってもいいか?」と。柊は片眉を上げて促す。
「俺は今まで、まあ、人並み以上に働いてきて……誰に遺すでもない金がいくらかある」
「何が言いたいんだ」
「あんたに預けたい。それであの子どもが治るまで、ここにいさせてやってくれないか」
柊は呆れ果てた顔をして何か言おうと口を開いた。それを遮って、タイラは「『行き場がない』なんて不安を、あんなガキが持つべきじゃない」と話す。
「……4週間だ。てめえとあのガキが出会ってから。あのガキだけじゃねえ。他の連中とも、そうだ。てめえは4週間でそこまで入れ込んだのか?」
「どうだろうな。言ったろ、他に遺すべきやつがいないんだ。誰でもよかったのかもしれない」
「誰でもよかった、だぁ? てめえ、」
顔をしかめた柊は「そんな顔をしてよく言いやがる」と指摘した。タイラは椅子の上で前かがみになり、絞り出すように「無力だよなぁ、本当に」と囁く。
「いいんだ、あんたは。ただ『任せろ』とだけ言ってくれれば。俺にそれを確かめるすべはないんだから」
「……任せろ」
「ありがとう。あんたは本当に、」
「“いい医者だ”? 言っとくが医者のやるべき範疇じゃねえからな、これは」
タイラは屈託なく笑う。「あんたも大概弱いよなぁ」と余計なことを言うので、柊は苦い顔をするしかなかった。
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