第7話 忘れていた夢、いつか忘れてゆく夢
困惑。
それ以外に言い表せる言葉がない。タイラは確かにその時、困惑していた。
ベッドの前でうずくまっている少女。ユメノだ。ケーキ病患者である。それがこの暑い部屋で(タイラの言えたことではないが)汗をだらだら流しながら、いっそもう緩やかに溶け始めながらうずくまっている。タイラは困惑し、その上で少女を抱きかかえ部屋の外に出た。
タイラにとって、暖房のついていない場所は真夏とはいえほとんど極寒だ。コートを羽織ってマフラーを巻いても震えを止められない。しかしユメノを下ろし、廊下の真ん中でタイラは「どうしたんだ……」と問いかけた。
ユメノは、どうやら泣いているようだった。しばらく何も言わずに鼻を鳴らしていた。
ようやく口を開いたユメノは、言った。
「髪をセットしようとしたの」
「“髪をセットしようとしたの”???」
涙をぬぐいながら、ユメノは小さく頷く。「久しぶりにアレンジしようと思って、鏡の前であたし髪を結んでたの」と続けた。タイラは戸惑いながら先を促す。
「でも、できなかったの。難しくてできなかったの。前はすごく上手にできたのに、できなくなってたの」
タイラはため息をつきながら、ユメノの髪を耳にかけてやる。
「どうして俺の部屋に来たんだ?」
「あたしが泣いてたら、みんな心配するから。タイラならいいかと思って」
「俺ならいい、の意味がわからないが……」
仕方なさそうにタイラはユメノの手を引く。そのまま都のいるプールまで連れていった。
事情を説明すると、都は慌てふたむき「私がやってみましょうか……濡れてもよければだけれど……」と申し出た。困ったな、とタイラは思う。
「先生、鏡があれば貸してくれないか」
「もちろん」
それからユメノを鏡の前に座らせて、タイラもその後ろに膝をついた。
「で、どんな髪型にしてみたかったんだ」
そう尋ねれば、ユメノは携帯の画面を見せる。「あのね、これ。可愛いでしょ?」と肩をすくめた。タイラはそれをじっと見て、一度遠巻きに見て、また近づけて見る。
「……なるほどな」
タイラは手袋を外して、ユメノの髪に触れた。まず櫛で綺麗に整える。画像を見ながらなるべく同じように結んでみる。都も緊張の面持ちでずっと見ていた。
「ここは三つ編みなんじゃないかしら」
「! そうか、三つ編みか」
「器用ね、タイラ」
「ユメノ……お前これほんとに自分でやろうとしたのか?」
「そうだよ。前はできたもん」
「ほんとかぁ?」
タイラはユメノの頭から手を離し、「どうだ……?」と誰にともなく確認する。それからすぐに自ら「雰囲気は合ってる!」と断言し、勢いで乗り切ろうとした。
「うーん、ごじゅってん!」とユメノが言う。
「五十点!!!!!」とタイラはショックを受けたようだった。
「初めてやって五十点はなかなかのものよ(?)」とすかさず都がフォローを入れる。
鏡をじーっと見ながら「うーん、うーん」と唸っているユメノを見て、タイラはふと目尻を下げた。
「どこが違うと思う?」
そう尋ねれば、ユメノは『ここはこうで、そこはああで』と指摘し始める。タイラは都に、「紙とペンはないかな」と聞いた。すぐに小さなホワイトボードが用意される。それからタイラは、ユメノの言ったことを全てメモに取った。
そのメモをユメノに見せる。
「これ全部、お前なら直せるか?」
ユメノはそれを受け取って、かじりつくように見た。「できる……」と小さな声で呟く。苦笑したタイラが「それなら部屋に帰って直すといい。そんなに不満ならな」と肩をすくめた。
ユメノは素直に「ありがとう」と言う。ああ、とタイラは目を細めた。そして迷った末に、こう言った。
「ユメノ、お前は本当に美味しいケーキなんかになりたかったか?」
びくりと肩を震わせたユメノが、「なに……?」と聞き返す。タイラは言い方を変えることにした。
「どうしてケーキになって、みんなに食べられたかったんだ?」
きょとんとしたユメノは瞬きをして、「そんなの」と呟く。
「美味しいケーキはみんな大好きだもん。だからあたし、美味しいケーキになるんだよ」と、真っ直ぐな目で話した。
都が何か言おうと口を開く。それを制して、タイラは言った。
「俺は甘いケーキは好きじゃないんだ」
怯えたようにユメノはうつむく。今にも泣き出しそうな顔で、「もっと美味しいケーキになるもん」と言いかけた。それを遮ってタイラが言葉を重ねる。
「でも、お前のことは好きだ。どうしてだかわかるか? お前が、美味しいケーキなだけじゃないからだよ……ユメノ。中道夢野。俺は人間としてのお前が大好きだ」
パッと顔を上げたユメノが、大きな瞳から涙をこぼしている。「美味しいケーキなんかにならなくていい」とタイラは続けた。「お前はお前のままで、きっとみんなに愛されているよ」と。
都もおずおずと「私もユメノちゃんのこと、大好きよ。食べたらなくなってしまうケーキではなくて、これからもずっと元気でいてくれるユメノちゃんがだいすきよ」と話す。
どうしてそんなこと、とユメノは両手で顔を覆った。「どうしてそんなこと、言うの。もうあたし、ケーキだもん」と首を横に振る。それはな、ユメノ――――とタイラが目を細めた。
「お前は俺に、“前はすごく上手にできたのに”って言ったろ。だからお前は、もしかしたら本当はケーキよりもっと素敵なものになりたかったんじゃないかと思ったんだよ」
ユメノは何も言わない。タイラは続ける。
「俺がやったセットも合格点だった」と言うので、都は大きく頷いて「そうね、合格点ね」と肯定しておいた。
「それでも納得がいかなかったのは、お前にもっと高い理想があったからだ。そうだろ? ならきっと、お前は俺より上手くできるんだ。ここで満足するやつはここで終わりだが、お前はそうじゃないんだから」
また鏡をじっと見て、ユメノは「練習すれば前みたいに上手くできるかな」と不安そうな顔をする。「前より上手くできるよ」とタイラは答えた。「お前がそう願う限りは」と。
突然立ち上がったユメノが、「ありがとっ。部屋いって練習する!」と駆けだす。ああ、とほとんど吐息のような返事をタイラは返した。
「もう泣くなよ。お前の涙は俺に効くんだ」
ユメノの背中を見送る。「あいつは一人で来たのか?」とタイラが眉をひそめるので、「ちゃんと人が外で待っているそうよ」と都は耳打ちした。「そりゃあ」とタイラは苦笑する。「大変な仕事だな」と。
何とはなしに都は彼の目を見る。タイラも都の目を見返して、「なんだ?」と小首をかしげた。都は緩く頭を振り、「何でもないの」と話す。
「ただ、あなたには迷惑をかけっぱなしだから」
「そうでもない。君には命を助けられた」
「……あなたは優しすぎると思う」
咳ばらいをして、都は「じゃあ、もうひとつだけ甘えてもいいかしら」と片目を閉じた。
都に背中を押されてきた実結は、タイラの前で固まっている。
「ミユちゃん? いつからいたんだ」
「あなたたちが来る前から。でもあなたの姿を見たらこの子、隠れてしまって」
どうして、と言いながらタイラは手袋をはめた。それから実結に向かって両腕を広げて見せる。
「おいで。君を抱き上げるために手袋を買ったんだ。熱くないぞ」
実結はイヤイヤと首を横に振って逃げようとした。寂しそうな顔をしたタイラが「怖いのかな。いきなり燃えるもんな、俺」と目を伏せる。
都は実結の耳元で、「ちゃんとお話ししないとわからないでしょう」とささやく。実結はもう一度タイラを見て、わっと勢いよく抱き着いた。タイラはそれを受け止め、立ち上がってぐるっと回る。少しふらつきながら、実結の髪を撫でた。
実結はタイラの胸に顔を強く押し付けて、声を出さずに泣いている。
「どうしたんだ? 可愛い顔が見えないな」
「ミユ、の……ミユが……おそとにでたから、タイラはケガしたの……に、ミユはずっと、タイラにあいたかったの……」
「俺も会いたかったよ、ミユちゃん」
タイラは実結を下ろして、涙を拭った。じんわりと手袋の先が濡れる。「ちゃんと息しような。ほら、吸って」と言えば、実結はしゃくりあげながら大きく息を吸う。「吐いて」と促すと、実結は一瞬だけ息を吐いてすぐに吸った。「吸ってる、吸ってる」とタイラは笑う。
「落ち着いたか?」
「うん」
「よしよし。……君は、俺の夢をかなえてくれたよ」
「ゆめ?」
膝をついてタイラは実結の耳元でささやいた。実結にしか聞こえない声で。
「俺はガキの頃、ヒーローになりたかったんだ。どうだ、あの時。かっこよかったか?」
実結は「ふふっ」とはにかんで、うなづいた。
「ミユちゃんの夢は何だ」
「うーん、およめさん」
「そうか」
叶うといいな、とタイラは言う。実結が手のひらを自分のほっぺたにあてて、「うん」とうなづいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます