第6話 色を持たなかった私のすべて

 いつからこの世界はこんなにも色褪せていたのか。気付いたら世界は無色だった。そして麗美は、透明だった。


 誰からも見えない自分が、そこに存在しているのかもわからない。これはなかなか厄介な感覚で、希死念慮と直結していた。自分がいるのかいないのか、自我も薄く溶けていって、何となく死ぬのも怖くなかった。そんな時だった、その男と出会ったのは。


 長くこのサナトリウムに居ついている麗美は、来る人も去る人も多く見てきた。その中でも、ひときわ深刻さの欠片もない男だった。それがまさか高熱発火病だとは、どうして思うだろう。

 麗美はその時ちょうど透明で、男に療養所内を案内しているスタッフの邪魔にならないよう、端に避けていた。そうして彼らを見送ったと思った次の瞬間、男が立ち止まったのだ。


「そこに誰かいるのか?」


 驚いた。男は確かに麗美がいる方を見ていた。目を凝らして、そこに何かないかと見ていた。

 そんなことは初めてだったので、麗美は思わず縮こまってしまう。男はゆっくりと近づいてきて、そっと手を出してきた。柔らかく空気の感触を確かめている。そうして――――

 確かに、麗美に触れたのだ。

 ああ、と男は笑った。


「やっぱりそこにいたんだな。ここの患者か? 俺も今日から世話になるんだ。よろしく頼む」


 声が出なかった。だけれど麗美は、迷った末に男の手を握った。男は不思議そうに自分の手を見ていたが、やがて喉を鳴らして笑い出す。「女か? 随分やわらかい手だな」なんて言いながら。男の手は温かく、病熱を思わせた。

 その時ほど自分が透明病であってよかったと思ったことはない。人に見せられないほど、みっともない顔をしていたに違いないのだ。




 その時とはまた違った意味でみっともない顔をした麗美は、ただ無言でその場に突っ立っていた。目の前には平和一と、例の人形病の青年やユメノというケーキ病の少女がいる。誰も透明な麗美に気付いた様子はない。


「つうか先輩、回復早いっすねえ」と青年――――ノゾム、だったろうか。ノゾムが心底感心したように言った。

「“これ以上良くならない”ということを回復と呼ぶのなら、そうだな。俺は回復が早い」とタイラが言ってのける。

「あのまま死んじゃうかと思った」と、ユメノが膝を抱えて呟いた。


 ああ、とタイラは腕を組む。「都先生を始め、お前らが情熱的なタックルをかましてくれたからな。助かった」と瞬きをした。飄々と、何もかもいつも通りだ。

「ノゾムは……焦げたところは大丈夫か」

「レザー生地あてようかなと思ってるんですよ」

「お前って結構開き直ると強いタイプだよな」

 ですかね、とノゾムがとぼけて見せた。


 平和一は数日前に発火した。そんな話はすぐに麗美の耳に届く。彼の眼前に差し迫った死を、麗美は人づてに聞いたのだ。

 しかしタイラはと言えば、そんなことをおくびにも出さず談笑を続けている。

「見ろ、これ。断熱手袋。これしてればお前たちにも触れるぞ、ほら」

「ほんとだー! いい買い物したじゃん! 何で今まで持ってなかったの?」

「買ったら負けのような気がしていた。俺もういつ死ぬかわからないし」

「まあでも、買って正解っすよ。グラタンとか焼くときも役に立ちますし」

「ミトンか???」

 そんなことを話しながら歩き始める。麗美の真横を通り過ぎていった。


 そうして今日も、声をかける勇気だけはない。麗美はとぼとぼと、反対方向に踏み出した。不意に風が吹く。後ろから腕を掴まれた。


 彼に掴まれたところから、色を取り戻してゆく。透明な世界から引きずり出されるように、その瞬間麗美はこの世界に存在を認められた。鮮烈な、あまりにも鮮烈な男の目が麗美を見ていた。


「やっぱり。そこにいたんだな」


 やめてよ。そんな眩しさで私を照らさないで。


「ここに来た日に会った透明病の患者もあんただろ」


 どうしてあんただけが私に気付くのよ。


「ずっと気になっていたんだ。あの日、俺の手を握ってくれてありがとう」


 馬鹿じゃないの。そんなの、私がずっと言いたかったのよ。“見つけてくれてありがとう”って。


 言葉にならない全てが目から溢れた。もういっそのこと全部世界に押し付けようと思って、声を上げて泣いた。タイラはぎょっとして、「おい……なんだ……? 俺が何かしたか……?」と手を離す。おろおろしてノゾムとユメノを見た。

「あー、泣かせてるー」「何やってんすか。痴漢?」と散々な言われようだ。


 麗美はこれ以上ないほどみっともない顔をして泣いた。そしてそれを、隠そうともしなかった。これ以上恥ずかしいことは、きっとこの先もないだろう。

 世界は今日、皮肉なほど色鮮やかに美しかった。

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