第3話 天に唾を吐いて戻って来なかったことがあったかよ

 イマダクルヒトは今日も今日とて、天に向かって唾を吐いていた。比喩である。実際には小石でも蹴飛ばして、下げられるはずもない留飲を下げようと必死だった。


 そもそも唾など吐こうものなら――――

「……おえっ」


 口内に突如として現れた異物感にえづく。手のひらの上に吐き出せば、親指大の透き通った美しい石が転がった。クリスタル、だろうか。大変純度の高い宝石だ。


 唾など吐こうものなら、こうなるのがオチなのだ。


 宝石病と涙石病。そのふたつが重なり、イマダは死ぬまで宝石を生む体となった。いくら儲けたかわからない。散々利用して、そして今更に怖くなった。宝石病も涙石病も、命を削る奇病なのだ。痛みも苦しみもないまま死んでゆく。イマダの周囲には、それを案ずる者はいなかった。

 いつからか、どんなに気の良かった友人も自分を商品としてしか見ていないと気づいてしまった。怖かったのは死ぬことと、そんな奴らが自分に向けた強欲そのものだったのだ。


 そうしてこの療養所にかけこんで、イマダは平穏を手に入れた。クソみたいな平穏だ。人間は暇だとろくなことを考えない。やりたいこともたくさんあった。イマダはまだ30代の半ばを過ぎたばかりの、世間的には働き盛りの男である。何もしないまま、何もできないまま、こうして命を消費しているとは考えたくなかった。

 柊という医者は明言を避けたが、それでもイマダはもう永くないだろう。そんな確信があった。次に歳を重ねられるかということすらわからない。


 不安はそのまま苛立ちとなり、イマダは舌打ちをする。手の中の石を握りしめ、勢いよく後ろ向きに投げた。


 ガチャン、と小さな――――しかし確かに何か壊れたような音が聞こえる。やべ、と思いながら振り向いた。病棟の窓でも割ったろうか、と見れば先ほど自分が投げた石が高速でこちらに戻ってきていた。

「は……!?」

 そのままイマダの額にぶつかり、地面に転がる。「いてえ……」と呟き額をさすれば、小さな赤い宝石が零れ落ちていた。


 クソが、と吐き捨てて顔を上げる。隔離病棟、だったろうか。開いた窓から男がこちらを見ていた。石を投げてきたのがその男であることを確信する。

「てめえ……何しやがる。見ろ、血が出たぞ」

「こっちの台詞だ。石なんか投げてきやがって。コーヒーカップが見事に割れてんだよ、弁償しろ」

 どうやらイマダの放り投げた石はたまたま開いていたその男の病室の窓から中に入り、たまたま窓辺で一服しようとしていた男のコーヒーカップを粉砕したようだった。この場合、運が悪いのはイマダかその男か。イマダは自分の石を投げた罪を棚に上げてそう思案した。


「だからって投げ返してくるか? これは宝石だぞ、売ったらいくらになると思ってんだ」

「いや知らねえが。そんなことよりどうしてくれるんだ……俺は今コーヒーを飲みたかったんだ」

「コーヒー豆そのまま食ってろよ」


 男も病室の中でなければ掴みかかってきていたろう。イマダは頭をかきながら、「じゃあこの宝石をやるよ。コーヒーカップなんか何十個と買えるぐらい価値があるだろう」と石を拾いながら言ってやる。男は呆れた顔で「いらねえよ」とため息をついた。

「そいつを換金する時間も俺にはない。コーヒーカップを持ってこい」

「時間がない……?」

 イマダはハッとする。隔離病棟の一番奥の病室。聞いたことがある。「お前、」と指さした。

「高熱発火病の患者か? 1ヶ月で死ぬっていう」

 半笑いで言う。自らも不治の病に侵された今、それでもイマダは『余命何ヶ月』などというドラマみたいな話に“可哀想にな”とせせら笑うような人間性を捨てられないでいた。

 男は何でもないように「ああ、そうだよ」と答える。


「だから金も宝石も、俺にとって価値がないもんだ。そんなもん、死んだら何の役にも立たねえからな」


 すっと笑顔が固まった。首を絞められたように声が出ない。頭を殴られたような感覚さえあった。

 金も宝石も、死んだら何の役に立つのか。


「そんな簡単に言うなよ」とイマダは何とか震えた声を出す。男は眉根を寄せた。


 そんなことを言ったら人生なんて、何の価値もないだろうが。死んだら何もかもおじゃんなんだ。それなら何のために生きるのか。何をして生きるのが正しいのか。


“俺は今コーヒーが飲みたかったんだ”


 死を目前として、そんなことを真っ直ぐに言える男が殊更に羨ましく思えた。『お前の人生はそれでいいんだな?』と問いただしたくもなった。男はきっと、肩をすくめながらも頷くだろう。全く知らない男なのに、不思議とそう思えてしまった。だからもっと嫌気がさす。『どうしてそう断言できるんだ』と叫びたくなる。


「おい」


 呼びかけられて顔を上げる。びっしょりとかいた汗がカランコロンと地面に落ちた。

 男は眉をひそめたままだが、心なしかイマダのことを気遣うように見ている。大丈夫か、とは口にしなかったがそう問われていることはわかった。イマダはそんなことすら腹立たしく、「見てんじゃねえよ」と吐き捨てる。

「お前、涙石病か?」

「だったら何だ」

 何か考えている様子の男が、逡巡しながら口を開いた。


「俺より永く生きるようであれば、頼みたいことがあるんだが」

「頼みたいこと、だぁ……?」

「お前、煙草は吸うのか」


 仏頂面のまま、「吸うよ」と答える。男は笑って、「それなら俺が死んだあと、この部屋に煙草を供えてくれ」と朗らかに言った。「それでコーヒーカップのことは水に流そう」と。

 イマダは呆気に取られてしばらく男の顔を見ていたが、歯軋りをして「馬鹿馬鹿しい」と吐き捨てた。


「お前はさっき、金も宝石も死んだら何の役にも立たないっつったんだ。死んだあとに煙草を供えて何になる」

「いやぁ、その通りなんだが。ここに入院するとき、煙草を全て没収されてな。あんまり悔しいんで、これは当てつけでもある」


 いよいよ馬鹿馬鹿しくなってきた。誰が供えてやるものかと睨めば、男は目を細めて「誰も吸わねえ煙草なんて、無価値だな」と呟く。

「それでも俺が“そうしてほしい”と話して、お前がその通りにしてくれるんなら、そこに意味はあると思わねえか」

 じっと、男はイマダの目を見てきた。「無価値だ。でも無意味ではない」と、続ける。イマダも熱に浮かされたように「無価値だ……無意味ではない……」と繰り返した。


 男はふっと笑って、「さっきは“無価値”とだけ断じて悪かった。俺よりお前の方が多くを遺すだろうにな」と肩をすくめる。それから、もう窓を閉じようとしていた。「銘柄は」と自棄クソのように、イマダは叫ぶ。

「煙草の銘柄は何だ」

 おっ、という顔で男は喉を鳴らした。「お前が吸ってる銘柄でも別によかったんだが」と一瞬目を閉じる。「ピースがいいか……いや、やっぱりわかばにしよう」と頷き、目を開けた。

「わかばで頼む。もうそれでないと満足できなくてな」

「……気が向いたら、そうする」

「よろしく頼んだ」

 そうして、イマダはゆっくりと踵を返す。


 男の名前も聞きはしなかった。しかし恥ずかしげもなく“わかば”とは。相当なヘビースモーカーで、しかもコスパ重視と見た。ろくでもない男に違いない────とそこまで考えてイマダは笑う。久方ぶりに可笑しな気持ちになった。


 手の中で透明な宝石を転がして、『適当なところに寄付でもするか』と考え頭をかく。

 おいおい、冗談じゃない。俺がか? まさかそんな…………。


 石を空中に放り、またキャッチした。

 こんなものは自分にとってゴミと一緒だ。排泄物だ。それなら、そんなものを有難がる連中に全部渡してやって、いい気になるのもいい。

 どうせなら、弱いヤツらを助けてやった王様気分で死のう。


「それでいいか、俺の人生」


 わざわざ声に出してみる。それから立ち止まって、天に向かって唾を吐いた。


「いいわけねーだろ、クソッタレ。譲歩だよ、譲歩!」


 吐いた唾は小さなクリスタルになって、イマダの頭上に落ちてきた。

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