第12話
銀杏の木。
学園の学生だけではなく、その近所でもよく知られる、シンボル的な木である。
雌株のそれは、樹齢百年以上の大樹で、今でも秋には黄色い実をつける。
「皮は土に埋めて腐らせて取るとか、そんな方法だったかしら?」
「銀杏好きの酒飲みを親に持つ生徒が、学園の許可を取って埋めてたな。グランドに落ちているのを放置されても困るから、良かったが」
「……」
高野晴彦が、藤田弥生の現実逃避な呟きに頷く。
「でも、季節的に早いですね。葉っぱがついてる」
「盆栽みたいだったそうだから、きっと室内で育ってたのよ。まだ寒いのに、枯れたりしたら、可哀そうね」
吉本朋美も現実的な事を呟くが、今の状態から考えると、これも立派な現実逃避だ。
気のない相槌を打ちながら市原里沙は、動き回る真倉由良を枝を振り回しながら追う怪木の動向を、見守っていた。
適度な物陰に避難し、取りあえず時間稼ぎをしている所だ。
金田健一と里沙の弟の凪が、数分置きにバトンタッチし、由良を抱えて囮として飛び回っている間に、何とか打開策を考えよう思っているのだが……。
「しかし、あの学園の銀杏。樹齢何年くらいなんですか? 結構大きな木ですよね」
「確か、二百年は経っているはずだ。それに加えて、学園長の代々の先祖が眠っていると言う噂が、ちらほら……」
「え。マジですか」
河原章が目を剝くのに頷き、晴彦は真顔だ。
「うちのひい祖父さんと爺さんとその妹さんも、桜の木の下に埋めたらしいから、真実味があるだろ?」
「あ。松本家が、うちの近所の公園に贈呈した桜の木の下の話ね? 何故か、通常よりも白い花をつけるって有名なのよ」
「へえ」
今は休憩がてら、対策を練る作業をしなければならないはずの凪も、晴彦と共に現実逃避している様を聞き、篠原和泉が頭を抱えている。
里沙が小さく息を吐いて、静かに怪木を見つめる速瀬伸に声をかけた。
「ねえ。ちょっと後ろの人たち、殴って黙らせてくれない? 考えに集中できないんだけど」
「お断りします。無駄な体力使って、死にたくないです」
「体力使う前に、何も出来ないで死にそうなんだけど。ああ、命に危険を覚えないと、真剣になれないかしら? あの前に、放りだしてみる?」
おっとりとした声音が、若干籠っている。
本気でやり兼ねないのに気づき、伸は溜息を吐いて未だ現実逃避の会話を続ける面々に、声をかける。
「そろそろ、現実を見てもらえませんか? オレも金田も、巻き込まれただけなんですから、本来はここまで協力する事はないんですよ?」
「すまん。こら、いい加減にしろよ。早く済ませよう」
うんざりとした声で和泉も付け加えると、ようやく我に返った幼馴染二人が、改めて標的を見上げた。
「……狩りも狩りもしたことないのに、どうやってこんなもの仕留めろって?」
晴彦が、至極もっともな疑問を呟いた。
全くその通りだ。
「お父さんや伯父様は死活問題だったらしいから、簡単だと思ったんでしょうけど、私たち、普通の学生だったのよ」
「え。普通?」
真顔の凪の嘆きには、つい伸が突っ込みを入れてしまうが、幸い聞き取られなかったようだ。
「しかも、獣相手じゃなく、こんな植物擬きを狩れなんて、ちょっとひどくない?」
「でも、このままにして帰るわけにはいかないでしょう? 助けを呼ぶにしても、その間にあの子が襲われるかもしれないのよ。可哀そうだわ、養っていたペットに食べられちゃうなんて」
「そうだけど……」
眉を寄せて考え込む少女めいた弟を一瞥し、里沙は切り出した。
「暫くは、今の様に攪乱してて頂戴。その間に、何か思いつくかもしれないから」
「うん……」
丁度由良を抱えた健一が、目を輝かせて戻って来た。
「余り、煽り過ぎるな。相手は哺乳類じゃないんだから、どう言う反応になるか判断不能だぞ」
「悪い悪い」
呆れた伸の窘めにも軽く返しながら、小柄な少年を小柄な先輩に手渡す。
「オレたちは、少しでも動きを鈍くできる様、やってみます。その間に……」
「完全に仕留められる方法を、考えてみる」
真顔の後輩の優等生に頷き、和泉は奥にいる戦力外の少女二人と、傍観者の少年を見た。
気楽に笑って頷いて見せる水月に頷き返し、ただ怪木を見物している章を見る。
「こんな事に巻き込んですまないとは思うが、聖とつるむ位だ、使えるんだろ?」
「え。使えると言うのが、どう言う意味合いかによりますけど、その、動きを鈍らせる手伝いくらいなら……」
真顔の先輩の言葉にたじろぎ、章は目を泳がせてから答えた。
「それで充分だ」
緊張の面持ちで晴彦は頷き、空を仰いだ。
「オレはこの園内の植樹の紹介文に、何かヒントが書かれてないか、見て回って来る。気が遠くなるが、やらないよりはましだろ」
「気を付けろよ。お前、意外にトロイから」
「余計なお世話だ」
幼馴染同士の気安い会話を背に、凪は再び由良を抱えて飛び出した。
和泉を残した研修組二人と、後輩三人がほぼ同時にその場を散っていくのを、水月は手を振って見送った。
「ま、程々に楽しめ」
背にぶつかった言葉に、反応できる余裕がある者は、ここにはいなかった。
一体、どうしろと?
真顔で頼まれてしまい、思わず頷いてしまったが、河原章は突然に陥ったこの状況に、激しく困惑していた。
塚本聖に少し前に予定を聞かれ、気晴らしに知り合いの卒業旅行に同行しないかと、誘われただけだ。
母の再婚相手が鬼籍に入って、もろもろの手続きや厄介な相続問題が浮上し、その度に口出ししてくる義父方の親族が恐ろしく鬱陶しくて、こちらは本当に気晴らしになる誘いだったのだが、このままだと別なストレスを抱え込みそうな事態だった。
というか、他の先輩方は当然のごとく動いていたが、こんな事は普通に起こり得る環境下なのだろうか。
「……だから、転入しようとする他校生は、いないのか?」
その割に、小学生の転入試験の難しさは、鬼畜級だったが。
いや、単に試験でふるい落とされているだけか?
中等部になってからでは転入できるか分からないと聞き、ぎりぎり初等部の転入試験を受けたが、弟と違ってそこまで優秀ではない章にはそれでも難しかった。
こんなに敷居が高い学校なのなら、生徒たちはさぞ優秀だろうと思ったが、優秀を通り越してどうやら、異常な生徒が集っているようだ。
その学園に入学してから通っている友人は、先程姿を見失ってから未だ見つからず、章は怪木よりそちらの方が気になっていた。
色々と訊きたいことがあるのに、この動物園に入ってから聖と深く話す機会はなく、今は更に疑問が増えていた。
その一つが、ついさっき知った弟との対面と、久しぶりに再会した双子の弟の事、だった。
弟の方は驚きを正直にさらしていたが、章はそこまで素直ではない。
だが、同じくらい驚いた。
実の父親に引き取られたと、家出から帰った時に聞かされてから数年、一度も顔を合わせていなかった実の弟。
背は同じくらいに成長していたが、性格の方は余り成長していないようだと、内心呆れと安堵を入り交ぜた感情が湧いた。
伸の方も自分との血縁関係を明かしたくないようだが、自分の方もそれは同じだった。
何せ、年を偽ってあの学園に転入した弱みがある。
河原巧の息子としても、速瀬伸の兄弟としても、その秘密を簡単に漏らすのは、危険だった。
塚本聖が、どこまで知っていて父親に協力し、自分と親しくしているのか、聞き出す機会を伺う前に、更なる問題が起きてしまった。
どこまで仕組まれているのかよりも今は、大怪我で激しい運動が出来ないはずの聖が無事でいるのかの方が、章には気がかりだった。
初対面した腹違いの弟は、同じ年齢の聖と同じくらいの背丈だ。
あの怪木が、人間を見分けているかも怪しく、もしかしたら聖の方が襲われてしまうかもしれない。
「……何で、別行動になってんだっ」
怪我を押して来ている友人を、言われるままに残して動いてしまった。
それが、激しい焦燥と後悔を生み、章は怪木の事よりも聖探しを重点に置いて動いていた。
やけに大人しい動物たちの檻の間をさ迷い、途方にくれながら歩いているその前に、立ち尽くす少年がいた。
自分と同じくらいの体格の、新高校生の少年の一人だ。
象用の遊び場と同じくらいの敷地で、この動物園は猿山があり、その檻の前に立ち尽くした速瀬伸は、地面を確かめるように踏みしめていた。
猿山の方を一瞥し、空を仰ぐそこには大きくなった怪木がある。
何をしているのかと不審に思う章の視線の先に、大きな人影が飛び込んだ。
伸の傍に上手く着地したのは、もう一人の新高校生だったが、その腕には抱えられて飛び回られ過ぎて、ぐったりとした真倉由良がいた。
そんな少年をぶら下げたまま金田健一は友人と頷き合い、その瞬間、一本の枝が蔓のように少年たちに襲い掛かった。
その動きを察していた伸がその攻撃を避けつつ、由良に届きそうになったそれを足で思いっきり踏みつける。
そのまま全体重をかけて両足で踏みつけ、土の中に押し込んだ。
乾いているはずの地面は何故かぬかるみ、踏みつけられた枝は土の中に深く沈んでいく。
それに気づいたのか、もう一本の太い枝が少年を襲ったが、それはもう一人の少年があっさりと脇に挟み込んだ。
「よっと」
座り込む由良が呆然と見守る中、健一は気楽に掛け声をかけて、寝技をかける様に抱え込んだ枝を、友人と同じように土に押し付けた。
どうやら、彼らなりの方法で怪木の動きを鈍らせる作戦のようだ。
だが、土は植物にとっては栄養の宝庫だ、逆効果じゃなかろうかと、章はつい心配になったが、その予想に反して土に埋め込まれた枝は、何故か動きを鈍らせていく。
やがて、動かなくなったのを見て、ようやく二人は枝を開放して一息ついた。
「流石師匠。伊達に薬物にもまれてないな」
親指を立てて胸を張る健一に、伸は呆れて返す。
「それは、誉め言葉になるのか? 誤解されると殴られないか?」
「変な意味じゃないって、ちゃんと分かってくれるのが、うちの師匠のすごい所なんだ」
そう言われたら、怒るに怒れないんじゃあと伸は呆れ切ったまま、自分達が埋め込んだ枝を見下ろして呟いた。
「それにしても、この周辺だけ影響を持たせる除草剤を、瞬時に作り出せるとは。しかも、時間が経てばその害も自然消滅する薬を。金田先生は、あの人を越えようと目指してるんだろう? 志が高いな」
「何、他人事みたいに言ってるんだ? お前も、それを目指して叔父貴を師事してんだろ?」
大事の後の緊張感のない会話を聞きながら、章は納得した。
どんな手を使ったのかは知らないが、あの土には除草剤がまかれていたらしい。
それなら、あれだけ大きな木とは言え、植物であるあれにも効力はあるだろう。
納得はしたが、唸ってしまった。
自分にはそんな持ち合わせも、便利な力もない。
もしまかり間違って、あれに襲われたらどうしよう。
そう考えながら空を仰いだ章は、もう一本の太い枝が襲撃してくるのを見た。
その先は、確実に標的を定めていた。
声を上げる前に、体が動いていた。
座り込んだままの由良の前に走り寄ると、襟首を攫んで先輩二人の方へと放り投げる。
小さく悲鳴を上げた少年を振り返った二人は、由良がいた場所に残った少年が枝に捕らわれ、更に襲ったもう一つの枝に絡みとられるのを見た。
息を呑んだ健一が駆け寄ろうとするのを制し、最年少の少年の前に進み出た伸は、触手のような枝がうごめく様を、目を細めて見守る。
不意に、二本の太い枝が動きを止めた。
徐々に、内側から冷たい空気が漏れ出て来ると同時に、表面が白い膜で覆われてゆく。
「……」
目を丸くする健一が友人を見ると、目を細めながらも表情を硬くしていた伸は、僅かに微笑んでいた。
どうやら、内側から枝に含まれている水分を、凍らせているようだ。
完全に動かなくなった枝の間から、少年の呟きが漏れた。
「はあ、死ぬかと思った……ん? あれ、動けない」
安堵の声は長く続かず、すぐ焦ったものになった。
「さ、さむっ。不味いっ、死ぬっ。助けて、誰か……」
「……」
伸が、大きく深い溜息を吐いた。
「精進が、足りない」
ぽつりと呟き、大股に少年が閉じ込められている木の枝の前に立つと、伸は意識を集中させて右の掌底を叩きつけた。
叩きつけられた箇所から、ボロボロと崩れ落ち、枝だったものは土に帰って行く。
その中から現れた章は、大袈裟に溜息をついて膝を折った。
「た、助かった。凍え死ぬのは、ちょっと嫌だった」
冷たい目で見下ろす伸は、ぐっと言葉をこらえている。
それを察した健一は、気楽に笑って声をかけた。
「よし、四本封じたなっ。報告とこの子、渡してくるなっ」
「ああ。気を付けてな」
言葉を返す友人にも軽く手を振って返し、大柄な少年は再び由良を抱え込んで、飛び上がるように駆けて行った。
「……」
残された二人の間を、沈黙が走る。
視線を友人が消えた方へと向けている伸を見上げ、章は低く声をかけた。
「……何か、言う事はないのか?」
「こんな状況で?」
感動を覚える状況でも、事情でもない。
言下にそう言われ、章も低く唸る。
「そうなんだが……なあ、お前が少しでもオレたちの事を気にしてるんなら、一度こっそりとでも、焼香に来てくれないか?」
「……初七日が過ぎた頃に、行った」
「なっ。いつだよっ。オレがいない時かっ?」
「それより、母さんがああ言う状態なのに、心配もしてないのか? おかしいだろう、あれはっ」
思わず立ち上がって文句を言う章に、伸も文句で返してようやく目を合わせた。
見返した青い目が、たじろいで泳ぐ。
「気づいた、のか?」
「ああ。巧さんがいなくなってから、ずっとああなのか?」
静かな確認に、章は無言で頷いた。
「……医者に、診せたのか?」
更なる問いには、大きく首を振った。
「多分、気が狂ったって訳じゃない。そう思う」
「だが、そう考えないとおかしいだろう、巧さんが亡くなった後に、あんなに明るいのは?」
「楽しそうって所以外は、普通なんだよ。相続問題やら何やらの小難しい事は、全く障りなくやってる」
「そう言う所は普通でも、安心していい状態じゃない」
「分かってる。だがお前、もう一つ、可能性があるとは、思わないか?」
今度は、伸が黙り込んだ。
顔を顰めて見据える鳶色の瞳を見返し、章は続ける。
「お前、覚えてるか? あの人の伯父貴を?」
「……」
知っているどころか、当のその人が、ここで除草剤をばらまいてくれた。
「もしかしたら、オレもお前も、騙されているかも知れない」
「……騙す理由は? 母さんが知っているとしたら、離縁が目的じゃない」
反論しながらも、伸はとんでもない予測を立ててしまった。
額を抑えて唸り始めた弟を見て、意外に賢い章も顔を顰める。
「まさか、今の状況も……」
「それなんだが、章は知ってるか? ユメさんは、母さんとはお茶友達で、父親と旦那大好きな女性だと?」
「は?」
「二人が好きすぎて、つい本人たちの前では冷たい態度をとって、その困り顔で悶える、そんな人なんだ」
そしてそれを、唯一の友達の河原リンに話し、二人で旦那や父親談義をするのだそうだ。
父にユメを紹介され、ユメがこっそりとリンとの関係を教えてくれた。
だから、列車内での話は、耳を疑ったのだ。
「お前、あっちの奥さんとも、うまくやれてたのか」
「いずれ、腹違いの弟とも会ってくれとは、言われていた」
「ええー」
気の抜けた相槌を、章は返してしまった。
「その前に、オレたちが生き別れ状態だったからな……もしかして聖の奴、これを狙ってたのかっ?」
「ああ、それは、狙っていそうだな」
ここまで話を進める気は、なかっただろうが。
由良までここに来る事になるのは、昨日決まった事だ。
列車内での話で、それは明確になっていた。
「先輩方の研修とやらも、偶々一緒にやることになったんだろう」
「あんなの、先輩方に退治できるのか?」
動きを自分達が抑えている間に、手を考えるとは言っていたが、相手は怪木でこちらは十代の子供たちだ。
「高野先輩はまだしも、他の二人は部活にも所属してなかっただろ?」
「……知らないのか。市原先輩もその姉君も、見かけだけだ」
秘かに流れている浮名は、伊達ではない。
「それに、篠原先輩も、知っての通り塚本家と血が繋がっている」
「言うなっ。あの容姿に、騙されていたいんだよっっ」
大袈裟に頭を抱える兄を、伸は冷ややかに見据えた。
「迷い事はいいから、その後を考えたいんだ。古谷先輩は見なかったか?」
列車の中で、秘かに話された続きは、そこまで多くなかった。
三人と市原里沙に聞こえない様、気遣いながらの説明で、ここに着くまでで全てを語り切れなかったのだ。
「その中で、話してもらえたのは、今の状況で手助けしてくれる人が、何人か現地入りしていると言う事と、古谷先輩が周囲を巻き込まぬように、動物たちの檻を保護する役をする予定である事だけだ」
その手助けしてくれる者たちの名前が、全く別な思惑まで悟らせてくれた。
「……多分、あの怪木の他にも、何かある。森口先輩の保護者が近くに待機していると言う事は、そう言う事だと思う」
「あの人、何者だ? 一番得体が知れないんだが」
市原姉弟や和泉はその容姿で、多少は気楽に付き合えそうだが、その容姿ですら誤魔化せない程、森口水月という少年は、得体が知れない空気を纏っていた。
「それは、スルーした方がいいぞ」
乱暴な声が、章の疑問に気楽に答えた。
いつの間にか、伸の隣に健一が戻って来ていた。
「昔から言うだろ? 触らぬ神に……ってな。味方してくれて、ラッキーぐらいに思っとけ」
嬉しそうに笑う大柄な少年に頷き、伸は再び尋ねた。
「で、古谷先輩は見なかったか?」
「見てない。聖は見なかったか?」
「聖? ん? そういや、さっきから見ねえな」
答えて、すぐに問いを投げた章の言葉に健一が眉を寄せ、伸は顔を強張らせた。
「探そう」
真剣に頷き合い、手分けして探すべく三人は動き出した。
大怪我を負っていた少年は、もう一人の探し人と、もう一人の少女と共に、意外にすぐ見つかった。
高野晴彦は、普通の少年だった。
父親は警察関係者で兄も警察官のキャリアを目指しているから、そこそこの体格と度胸を備えているが、幼馴染の市原凪程強くはない。
そこそこ冷静な性格で、学生時の成績も悪くないが、篠原和泉程優等生ではない。
どれをとっても、良くもないが悪くもない、そんな少年だった。
警察官になるのもしっくりこず、幼馴染たちと共に興信所への就職を決めてしまったが、こんな特異な仕事を受けるとは思わなかった。
しかも、これは只の研修なのだと言う。
まだ入社すらしていないのに、先が思いやられる事態だった。
空を仰いだら見える怪木を時折気にしながら、晴彦は園内に植えられているツツジや百日紅の木の立札を読んで回っていたが、動物の物とは違って詳しい案内はない。
ましてや、何が苦手なのか書かれている物は、どこにもなかった。
「……駄目か」
腕力担当と頭脳担当の幼馴染が活躍する中、役立たずな自分が情けない。
焦りと多少の諦めが混じり、晴彦は立ち尽くしてしまった。
いっそのこと、あの少年の代わりに囮になれればいいのだが、育ちがいいのだけが取り柄の自分では、体格が違い過ぎた。
諦めるのも嫌で、何とか気を奮い起こして顔を上げた少年の目線の先に、見知った男の姿が映った。
園内にある公衆トイレの一つの陰から、穏やかな笑顔を浮かべて呑気に手を振る男に、驚くより先に体が動いていた。
怪木を気にする事を忘れて、全力で走ってそちらに近づく。
「……何やってるんですか、あんたっっ」
その勢いのまま、怒鳴るように男に詰め寄った少年に、エンは穏やかに挨拶した。
「楽しんでるか?」
「っっ。お陰様で、死にそうな目に合ってますよっ」
「死にそうにない態度だね」
穏やかに声を上げる男の傍で、雅も小さく笑った。
全く緊迫していない二人に、晴彦は頭に血が上るのを感じながらも、声を抑えた。
「何で、まだいるんですか。まさか、オレたちが振り回されるのを見ながら楽しもうって魂胆ですか?」
「まさか」
「じゃあ、もう用はないでしょうがっ。助けてくれる気がないなら、観覧車にでも乗って、楽しんで下さいっ」
「いや」
穏やかな男の声が、少しだけ固くなったのに気づき、少しだけ頭が冷えた。
睨みながら、余り変化のないその顔に無言で訴える。
うちの家族は、あんたの弱点を知ってるぞっ。
それを見て、雅がまた小さく笑い少年を宥めるように言った。
「その楽しみは、後に取っておくよ。今は、君たちだろ?」
「……そうそう、助ける気がないとは、言ってないだろう?」
一瞬間があったが、エンも雅の言葉に頷き、続けた。
「自己流でそれを使えるようになるのは、恐らくは独り立ちしてからで、それだと今日がきついだろう? だから、反則行為をしに来たんだ」
言いながら指をさした先は、晴彦の背後だった。
その指を追って振り返ってみたが、自分が来た順路が続いているだけで、誰もいない。
「それ?」
「ん? 気配すら、感じた事がないのか?」
エンが目を見張って、空を仰ぐ。
同じように目を見張った雅は、まじまじと少年の顔を見つめた。
「な、何ですか?」
「うーん、ジュリは、何て言ってたかな……あの子たちを、初めて見つけた時の事」
同じ疑問で沈黙していたらしいエンが、慎重に晴彦に尋ねた。
「晴彦は、耳元で何か囁かれた、もしくは何か幻聴みたいなものが、聞こえた事はないか?」
「へ?」
「いや、それより前の段階なら……」
眉を寄せた少年に、男は考え考え続けた。
「時々、知らないはずの情報が頭に浮かんで、ついつい口に出してしまって、周囲を怒らせたことは、ないか?」
晴彦は目を剝いた。
「……そうか、初期の方だな」
「な、何ですか、それは?」
「高野家の特殊能力、という類かな」
頷いたエンに詰め寄る少年に、雅が優しく答えた。
「君のひいお祖父さんは、探索型なんだよ。元々は」
「え。いや、でも……」
「剣を使う憧れの人がいたんで、試行錯誤の末に探索に使う子らを、武器にする事が出来るようになったと言っていた」
だが、本来の使い方は、人が入りにくい場所への侵入と探索だった。
「意外に遠くまで範囲があって、重宝される力だったよ」
「武器にしていたジュラの子らは小さめだったが、探索以外殆どしなかったジュリの子らは、大きめだったな。あれは、無数で飛びつかれると、厄介そうだった」
「お手玉で遊んでもらうのが、楽しかったみたいだし」
懐かしそうに二人が話す姿は眼福だったが、今はそれを微笑ましく見守れない。
「そんな、昔の人の事を出されても、分かりません」
「そう昔でもないだろう。お前の、ひい祖父さんの話だ」
日本が敗戦するより前の、外国で戦死した人の血縁なら、自分はもう一代後でないと計算が合わない。
なぜそうなのかは、ひい祖父さんが一人残して逝くひい祖母さんの事を気にかけ、これから生計が苦しくなる年代を避けて出産できるよう、一世一代の呪いをかけたせいだと言い伝えられているが、本当は違うのではと晴彦は内心疑っていた。
「いや、本当のことだよ。私は、戦後数年経ってから、君のひいお祖母さんのお腹が膨れ始めて、出産したのにも立ち会ったから、証人になれる」
「……」
「高齢での出産だったし、寡婦になっていたのに身重になったから、色々と話を作らないといけなかったけど」
少年の永年の疑いを察し、雅が優しく頷いた。
「信之も明彦も、思春期の頃は悩んだらしいんだが、中々相談してくれなくてな。こちらがそれとなく今の話をして、何とか活用を考えられる位に落ち着いてくれた」
晴彦の父親は、それを主に尋問の場で使っている。
被疑者の図星をついて崩すのが上手い、そんな刑事となった。
「明彦の方も、うまい使い方を考えて、上を目指すと言っていた。後は、お前がどうなるのかが、今のオレには気がかりなんだ」
目の前で亡くした数少ない友人の、血縁者を思う男の言葉は重みがあった。
だが……。
「こんな決死の事態で、どうやって使えと?」
今の状況を作り出した張本人に言われても、感動するまでには至らなかった。
気持ちは察しているだろうに、雅は楽しそうに声を立てて笑った。
「君が狙われてるわけじゃないんだから、決死じゃないだろ」
「でもっ」
「心配するな、お前を含めた全員、今のところは死ぬ兆しがないから」
「そういう、曖昧な力での太鼓判は、信用できないですっっ」
「ああ、それは知ってるのか。教えるならオレの事じゃなく、自分の事にして欲しかったな」
噛みつくのを止めない少年に、エンもついに声を立てて笑ってしまった。
扱いは、何処までも気楽なままだ。
悔し気に睨む晴彦に、男は何とかいつもの笑顔を戻すと、静かに言い切った。
「まだ、頭に浮かぶ感覚の状態なのなら、これを使った方が話は早そうだな」
本当は、折を見て怪木を弱らせるつもりで、わざわざある場所に立ち寄ってからここに来た。
エンは懐からそっとそれを取り出して、晴彦に見せた。
「? それは?」
見せられただけでは、何なのか分からない、徒競走のリレーで使うバトン位の長さの、細身の古ぼけた棒だ。
困惑する少年に、前に立つ男女は苦笑した。
「うーん、見ただけじゃあ、分からないよな」
「これを柄にしてたんだから、すごかったよね、ジュラも」
二人で笑い合ってから、エンがその正体をばらした。
「これは、ジュラが愛用してた剣の元、だ。これを柄にして、自分に侍った子たちを剣の形にして使っていたんだ」
「へ?」
どうみても、ただのぼろい棒きれだ。
そんな表情になった晴彦に、男は同調して頷く。
「刃物を扱うのは得意だったが、形を整えるのは苦手だったらしくて。まあ、これでも問題なく使えたようだった。本当は、あいつの伴侶に守り刀の代わりに貰ってもらおうと思ったんだが、断られてしまったんだ」
だから、普段は友人二人が眠る桜の木の下に、安置している。
それをここに持ち出した理由は……。
「オレも、あの怪木を弱らせる方法は、知らないんだ。退治するならまだしも、な。だから、その方法を伝授して貰う心算で、持って来たんだ」
幸い、エンが手にしていても、障りはない。
ジュラとは友人で、嫌われてはいなかったが、好かれてもいなかったのだ。
「ゼツは、ジュリの子の数匹に好かれてしまって、そのまま連れてるけど、ジュラの子たちは全員、それについたままだからね」
「お前は血縁者だから、永く手にしていては大変だが、まあ、少しの間なら大丈夫だろ」
言いながら、男は晴彦を促して棒切れを差し出した。
促されるまま手を出したその上に、軽い仕草で友人の形見の品を置く。
ざわりとした感覚を覚えたと思ったら、すぐに取り上げられた。
「……」
無言でもう何も乗っていない掌を凝視する少年に、エンは穏やかに言った。
「これで、充分だろう? 後は、健闘を祈る」
返事もしないで掌を凝視続ける晴彦に構わず、男は女と連れ立ってその場を離れて行った。
「……」
暫くそのまま手元を見ていた少年が顔を上げた時には、二人の姿は何処にもいなくなっていた。
消えた方向をしばらく見つめ、大きな溜息を吐いた。
「余り、役に立たない力だな……」
だが、確かにあれだけで分かった。
曽祖父の、大昔の記憶が、あの怪木を知っていた。
ついでに、弱らせる方法もいくつか、知っていた。
知ってはいたが、その方法を自分が行うには、力も頭脳も足りなかった。
ならば、一度幼馴染たちと合流した方がいい。
今後の方針を決めると、晴彦は再び動き出した。
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