第10話
ふれあい広場に入る前に一息つき、卒業生たちとその後輩たちは、他愛ない会話に花を咲かせていたが、不意に聞こえた悲鳴がそれを途切れさせた。
女子たちが向かった、トイレの方角だ。
振り返る様に走り出す晴彦を追い、和泉も緊張して走り出す。
中等部卒業組二人もその後を追って行くのを見て、聖が呟いた。
「見つけた。良かった」
「ん? 何だ?」
「こっちの話」
聞きとがめた章に曖昧に返し、少年は友人を促した。
「ほら、お前も行ってみろよ。もしかしたら、厄介な奴に絡まれてるかも」
そう言われても、怪我人の友人を気にしていた章だが、先輩が二人、ここには残っている。
向こうの方が不味い事態かも知れないと頷き、悲鳴の聞こえた方へと走り出した。
「意外に、早く見つかったな」
「そうですね。そろそろ、始めます」
志門が真顔になるのを見ながら、女子たちの方に向かった面々を気にしていた水月が、不意に目を細めた。
振り返って、ゆっくりと歩いて近づく聖の方を見て、細めた目に剣が帯びた。
つられてそちらを見た志門と静も、目を丸くするのに気づき、聖は自分の背後に何かが近づく気配があるのに気づく。
振り向こうとした少年に、鋭い声が言った。
「振り返るなっ、走れ!」
聖は突然の厳しい声に身を竦めつつも、視線の端に写ったそれを、つい二度見してしまった。
「う、うわあっっ」
思わず悲鳴じみた声を上げてしまった事が、次の悲劇を生む。
柄にもなく竦んだ少年に、何かが振り下ろされた。
立ち尽くす志門は、地面にめり込んだそれをしばらく見つめ、呆然と空を仰ぐ。
「……ここまで、大きくなるものだったんですか」
呟いた静に答えたのは、聖を抱え込んで振り下ろされた何かから救い、二人の隣に降り立った水月だ。
「オレも、実際に見るのは初めてだが、ここまで大きくなるものだったんだろう」
こちらは呆れたように空を見上げ、しみじみと言った。
「これに、ポチとつけたのか。もう少し、勇ましい名前があっただろうに」
「そ、そう言う問題ですか?」
ついそう返してしまう聖に目線だけ落とし、短く問う。
「怪我はないか?」
「はい。有難うございました」
「無駄な体力を使わせない要員だからな、オレは。これくらいは朝飯前だ。それより……」
再び空を仰いだ水月は、首を傾げた。
「オレたちが標的になっては、不味いんだろう?」
「ええ。聖君と由良君の体格が、似通っているからこそ、先程は間違えたのでしょうが……暴走しそう、ですか?」
はっきりと分かり辛いその気配に、志門は慎重に問うと、水月は小さく唸った。
「暴走とまではいかないが、まだこちらを気にしている」
「それは、困りますね」
「ああ。仕方ない。そちらはそちらで動いてくれ。あいつは、本来の標的の方へ、誘導する。ついでに、戦闘要員でない女子も、任せておけ」
眉を寄せた志門にあっさりと言った水月は、いつの間に拾ったのか、拳大の石を片手に乗せ、掌で回している。
「はい。よろしくお願いいたします」
少年の言葉を背で聞き、動いたと思ったら遥か向こうにいた。
ポチの向こう側に立つ水月が、今度は片手に石と、もう片方の手に太い切枝を攫んでいる。
「意外に、動きはとろいな。悔しければ、捕まえて見ろ。図体だけの大木が」
その言葉に煽られたように見えたのは、気のせいか。
勢いよく体をくねらせ、それは大きな体をものともせず、小さな少年の後を追って行った。
「……だ、大丈夫でしょうか?」
その様子を、固唾をのんで見守っていた聖が、ようやく心配の声を上げる。
志門も息を吐き出し、一度緊張を逃がした。
「あの人が任せておけと、そうおっしゃるのでしたら、大丈夫だと思います。とても、特異な方ですから」
「私たちが心配するような事になるような人なら、もう少し緊張しないでお付き合いできるんですけど」
静も深く溜息を吐き、本音を漏らした。
「鏡が、一目置く人ですから、それも難しいんです」
静の師匠は、他の若者二人よりも年長だ。
その鏡月が一目置き、他の誰よりも信じていると、静は言葉の端々で察していた。
そんな少女の言葉で、何となく納得した聖は、志門の切り出した頼みに、躊躇いなく頷いた。
ポチが飼い主と、その他の少年たちに目を向けている間に、別な問題の下準備を始めなければならない。
悲鳴の主は、市原凪だった。
トイレの前で待っていた凪を、背後から襲った者がいたのだ。
「い、命知らずなっ」
健一が思わず悲鳴を上げたのは、無理がない。
市原凪が、「猫の皮を被った鉄球」などという異名を持ち、周囲から憧れと共に多くの畏怖の念を受けている事は、学園内でも有名だったのだ。
青褪めた篠原和泉が、凪が身を竦める前で仰向けに倒れている少年を見下ろし、そっと顔を伺う。
「し、死んでるか?」
「……私、思いっ切りぶん殴っちゃったの」
「し、死んでるよっ」
高野晴彦も、青褪めて小さく叫ぶ。
「なのに、息してるのよっ。動いたのっ。化け物だわっ」
血相を変えて言い切り、凪は堪え切れずに泣き出した。
「え。何か、話がおかしくないですか?」
河原章が、思わずその話のおかしさを指摘するが、それに返事せずに、速瀬伸が倒れたままの少年の前に膝をつき、手首を取る。
「……本当だ、脈がある」
「ええっっ」
凪の幼馴染二人が音を立てて後ずさり、少年から距離を取った。
「……あの拳を受けて、生きてるなんて。怪我は? 無傷じゃないよな?」
健一も、真顔で呟き、友人に確認する。
「顎に拳が入ったらしいが、見たところ痣になってるだけで、骨には異常ない」
「痣。そうか、良かった」
何が?
章が突っ込みを入れたそうな顔をしているが、中卒組の二人はそちらを見向きもしない。
身を縮めて泣く凪を、幼馴染の少女が優しく慰める。
「大丈夫よ、無傷じゃないって。化け物じゃないわ」
「ほ、本当?」
「あの東刑事のお孫さんなのなら、頑丈なのは当然だろ?」
晴彦もそう言って宥める。
東とは、真倉ユメの父親の戸籍上の苗字だ。
名前をもじって名付けた名は、古めかしいと有名だ。
その孫が、凪の鉄拳を受けて、ここに倒れていた。
「……実物は、写真よりは普通に見えるな」
体格は塚本聖くらいで、年相応だ。
褐色の肌の母とは真逆で、透き通るような肌と髪色が印象的だが、そこまで薄いとは感じない。
「あれと一緒ね。運転免許証の、証明写真。絶対人には見せたくないくらい、写りが悪くて、犯罪者みたいよ」
少し前まで自動車の教習所に通っていた藤田弥生が、そんな例えを出したが、的は外れていない。
光の加減と背景が悪くて、あそこまで薄く見えたのだろう。
まだ起きて目を開いた所は見ていないが、今のところは何処にでもいそうな、大人しい少年に見えた。
仰向けに倒れていたから、もしかしたら頭を打っているかも知れないと、伸が頭の方も気にかけ、そっと持ち上げてみる。
「路面の様子から見ても、出血はないですが、医務室の方を呼んできましょうか」
医者を目指してはいるが、治療ができるわけではない少年のまっとうな意見に、晴彦が頷いた。
「よし、ひとっ走り、行ってくる」
今にも走り出そうとしていた晴彦が、倒れている少年を一瞥して目を見開いた。
同じように視線を落とした一同の目線の先で、薄く目を開いた少年がいる。
虚ろな目を泳がせ、不意にその目を剝いた。
突然身を起こした少年を支えていた伸が、思わずぎょっとして身を離す。
「え? えっっ? な、何だっ、あんた達はっ」
驚く一同よりも狼狽え、真倉由良はその場から少しでも逃れようと、地面を張って後ずさった。
その顔は、恐怖で引き攣っている。
「……何だ?」
思わず、健一が低い声を出してしまった。
「お前が突然、飛び出してきて倒れたから、どうしたのかと見てただけだろうが」
不機嫌な声で説明する少年は、こちらの落ち度を上手に隠している。
明らかにこちらに非があると、暗に言われた少年は、悲鳴をかみ殺して詰まった。
「……頭を打ったようだからと心配したが、気にする事なかったか」
冷静な和泉の呟きに、伸が首を振る。
「それは、精密な検査をしないと分からないです。もしかしたら、後から急に異変が起きて、ぽっくり逝くかも」
「そ、それは、困るっ」
最悪な事態をはっきりと予想する後輩に、凪が小声で訴えた。
「まあ、突然、卑猥な事をしようとしたその子が悪いんだから、罪悪感は少しでいいわよ」
おっとりと里沙が言うと、由良は色々と思い出したようだ。
「あ……」
「女子トイレの前で友達を待ってたこの子に、突然抱き着くんですもの。リスクは充分わかるわよね?」
青褪めた少年に、社会人二年目の女はおっとりと首を傾げる。
「真倉由良君ね?」
「は、はい……?」
名を呼ばれて返事をした後、何故知られているのかと不審に思ったようだ。
「な、何故、それを……」
「あなたを探してたのよ、私たち」
凪が、取り繕うように笑顔を浮かべて答えた。
姉とは違う愛らしい笑顔で、その顔を見た少年はつい見惚れて顔を赤らめた。
「……詐欺」
その様子を見た健一が、思わず口走ってしまい、慌てた伸に窘められる。
「馬鹿、殺されるぞ」
「聞こえたわよ。後で、覚えてなさい」
笑顔のまま刺された釘が、二人一遍に動けなくする威力を持っている。
「昨夜、何も言わずに家を出て来たんですって? お母さんが心配して、私たちを寄こしたの」
「え? お母さんが?」
きょとんとする由良に頷き、凪は優しく説明する。
「ポチ君を抱えて家出したって聞いたけど、ちょっと考えが足りなすぎよ。家出するなら、ちゃんと行く当てを考えてからにしなくっちゃ」
きょとんとしたままだった少年が、そこで我に返った。
慌てて首を振り、答える。
「家出なんか、してませんっ。僕、すぐに戻る心算で……」
「戻る心算なのに、こんな遠くまで来たってのか?」
和泉が話に割り込んだ。
「お前さんの住まいは、うちの近くなんだろう? この動物園は、列車で一時間弱の道のりを得て、ようやくたどり着く距離だ」
まさか、この距離の移動を近場と思っているのか。
ついついあり得ると思ってしまい、和泉は自分の感覚の麻痺を実感する。
そんな年上の少年を見上げ、由良は驚いたように首を振った。
「こんな所に来るまで、捕まえられないなんて思わなくって。うちから遠ざかっていくとは分かっていたんですが、財布を忘れてしまって……」
通信機の類を持っていなかった少年は、母親に連絡することが出来なかった。
「……?」
その説明を聞いた和泉が、話のおかしさに気付く。
同じように気づいた伸が、出来るだけ声を抑えて尋ねた。
「財布を忘れたのなら、どうやってここに入ったんですか?」
動物園に入園するのなら、そのチケットを購入しなければならない。
偶々、そのチケットを持っていた、という訳ではあるまい。
それを受けた少年は、頷いて答えた。
「この中に逃げ込んだのに気づいたけど、中に入れなくて。うろうろしてたら、お父さんの知り合いの小父さんが、丁度女の人と一緒にやって来て、チケットを買ってくれたんです」
「……」
健一が、珍しく苦虫をかみつぶしたような顔で、顔を逸らした。
隣の伸は、頭痛がして思わず額を抑える。
そんな後輩たちの代わりに、和泉が出来るだけやんわりと問いかけた。
「その小父さんと言うのは、エンと名乗っている男の人、か?」
「は、はい。今日は、綺麗な女の人と一緒でした」
決定的だ。
晴彦が、堪え切れずに低く唸った。
「そ、その人は、偶々ここに、遊びに来たって言ってたんだな?」
「はい。多分、デートじゃないかと」
幼馴染の唸り声をバックに和泉は神妙に確認し、最後に一番確かめたいことを訊いた。
「お前が、早く捕まえようとしていたのは、飼っていたペットの、ポチ、なんだな?」
「はい。まさか、寝床から自分で抜け出すなんて思わなくって。そんな事、母さんに知られたら、危ないからって捨てられちゃうかも知れないんですっ」
やっぱり、こっちの方がやばいじゃないかっ。
未だ見つからないペットが、どうしてここに向かったのか。
その原因が、あからさまに偶然を装い、由良と接触した男にあるのは、間違いない様だ。
幼馴染たち二人が取り乱すのを背に、凪は少年を前に笑顔だった。
「捨てられるのは、可哀そうね。一緒に探して、一緒に帰りましょうね。私たちも、手伝うわ」
「ほ、本当ですか。有難うございますっ」
日本語上手いな、とこんな時ながら感心しつつ傍観していた章が、妙な気配を感じ、振り返った。
小さく息を呑んだ少年に気付き、健一が同じように振り返る。
そんな背後に気付かず、凪は優しく尋ねた。
「私たち、そのポチがどんな子か知らないの。どう言うペットなの?」
「どんなと言われても、説明が……」
言い淀んだ由良は、空を仰いで目を丸くした。
目を見開いたまま顔を輝かせ、凪の背後を指さす。
「あ、あれ。あれを、もう少し小さくしたような生き物が、ポチです」
「あれ?」
その指先を振り返った凪は、絶句した。
同じように、その存在に気付いた面々も、言葉もなく固まっている。
「これ、まさか、そんなはず、ないよな?」
「嘘だろ。ここまで、大きくなるのか」
健一が目を剝いたまま呟く傍で、伸が呆然と呟く。
「もしこれの事なら、確かに、学園にありますねえ……」
同じように目を剝いて呟く章のそのすぐ横に、一人の少年が音もなく降り立った。
「う、うわっ」
「すまん、わざとだ」
思わず飛び跳ねる少年に笑いかけ、森口水月は一様に固まる少年少女たちを見回した。
「ぼんやりしてる間はないぞ。これからが、本当の研修。いや、卒業試験と言ってもいい」
言いながら、水月は片手に持っていた太い切枝を、呆然としたままの和泉の腕に押し付けた。
「ほれ、後は、頑張れよ」
「な、何ですか、これは?」
我に返って見下ろす同年の少年に、水月はその正体を暴露した。
「ポチの手のどこか、だ」
信じたくない事実だったからか、珍しく飲み込むのに一拍かかった。
「や、やっぱり、あれが、ポチですかっ」
耐えきれなくなって叫んだのは、晴彦だった。
思わずさした指の先にいたのは、大樹だった。
周囲に生えた木々を軽く上回る大きさのそれは、まだ成長し続けていた。
見覚えある種類の木だ。
あの学園のシンボルともいえる、銀杏の木だ。
ひし形の、今はまだ青い葉っぱが、和泉の腕にある太い枝にも、あの大樹にも無数についているのが見えた。
「え? ポチ? そんなはずは……」
呆然と、由良が呟く。
この場の誰よりの、そのことを疑っているようだ。
目を細めて巨木を隈なく見つめ、声を上げる。
「あ、首輪がある。本当に、ポチだっ」
「え? 首輪? 首は何処よっ」
我に返った凪は思わず突っ込み、由良が指さす無数の枝に、赤い首輪が付けられているのを見つけた。
「……何で、あの首輪、切れてないの?」
そんな事、どうでもいいと思いつつも聞いてしまう少女めいた少年に、由良は明るく答えた。
「伸びる首輪なんです。もしもの為に、大きくなっても切れない首輪をって、お母さんが買って来てくれたんです、百均と言う所で」
「へ、へえ。色々あるのね、百均って……って、そうじゃないわっ」
我に返った凪が、突然叫んだ。
「ちょっと、こんなに大きくなる種類だったのっ? こんなの、聞いてないわよっ」
「ぼ、僕もここまで大きくなるとは。寝床にいれば、一緒に生活できるからって、お父さんが……」
「寝床……鉢植えの事かっ」
「自分で出る事はないって、そう聞いてたのに……自立できるんですね。あんなに大きくなって」
感動する飼い主に低く返したのは、一時は呆然とポチを見上げていたが、今は険しい顔で何かを考えていた伸だった。
「……喜ぶ場面じゃないですよ。これは、成長じゃない」
固い声の指摘に、きょとんとなった少年に、伸はきっぱりと言った。
「これは、『膨張』です」
「ぼ、膨張っ。って事は……」
険しい顔の少年とは逆に、由良はまた顔を輝かせた。
「喜んでる場合ですかっ。君は、そう言う好かれ方をしないから、一緒に生活できていたんでしょう? それなのに、こうなってしまったと言う事は、君でない誰かが、そう言う好かれ方をしてしまったと言う事です。そうなれば、君がどうなるのか位、教えられているはずですよねっ?」
話を聞いただけの伸が知っているのだ。
実際に養う由良には、教えられているはずだ。
そう決めつけた言い方は、間違いではなかった。
輝いていた顔が、今度は青褪めて引き攣る。
ガタガタ震えだす少年を一瞥し、和泉は鋭く後輩に切り出す。
「もういいだろう。これは、どう言う事なんだっ?」
研修だなんだと理由を付けて、隠す時期は過ぎている。
それをすんなり受けた伸は、珍しく吐き捨てるように答えた。
「エンさんですよっ。あの人は、何故かああいう怪木の類に、好かれる体質なんですっ」
しかも、並な好かれ方ではない。
その子を宿したいと、そう思う度合いの好かれ方だ。
「はあっ? 何だよ、その体質はっ」
「木なのに、人間と子を宿したいのっ?」
「話によれば、数ある樹木の中には、稀に意思のある物が生まれるそうです。大概はそのまま、木としての生涯を全うするそうですが、極まれに、好かれる人間と接触した時のみ、それが怪木となると、そう聞きました」
一気に吐き捨てた後は、少しだけ声を静めて説明するが、信じられる話ではない。
腰を落としたまま動かない由良が、泣き笑いになりながら、伸の説明を補足した。
「……ポチは雌株で、そう言う感情を抱いた時は、今の様に膨張して、近くの何よりも大きくなるんです。そうして、自分は何にも縛られていないからと、アピールするんです。もし、飼い主がいた場合でも、いなかったことにするために……」
見上げた先で、凪が目を見開いて見下ろしていた。
その顔を見返し、ついに泣き顔一色になった。
「……飼い主を、真っ先に養分にしようと、襲い掛かるんです」
四月に近いこの時期に、恐ろしく寒い空気が漂った。
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