第5話
地元の駅から首都の駅に行き、動物園行きに乗り換える道のりで、約一時間半。
「本当は、隣の県の動物園を狙ってたんだけど、乗り継ぎとか調べるのが面倒になっちゃった。御免ね」
凪が説明して、軽いノリで謝った。
「この地の駅には、この時刻、各駅停車しか止まらないからな。ま、それでも昼前にはつくから、充分だろ」
晴彦もそう言い、窓際を静に座らせて、その隣の通路側に腰を下ろした志門を見た。
「修学旅行は、空路とバスだったから、古谷は列車での旅行は、初めてか?」
確か、実家では殆ど外に出なかったと聞いていた為の問いだったが、世間知らずで知られる少年は、やんわりと笑って首を振った。
「いいえ。こちらに来た時の交通機関も、列車でしたので。ただ、あの時は、右も左も分からず、目的の駅で下りそびれてしまって、乗り越してしまいました」
「へえ、そうだったのか」
「……本当に、あの時は、師匠にも若にも、ご迷惑をかけてしまって……」
恥ずかしそうに話す志門に、事情を知らない同窓生たちは、呑気に笑って相槌を打っているが、隣に座った静と、その向かいに座った健一は、揃って苦い顔になった。
二人は知っていた。
恥じらうように語られる失敗の前にあった、忌々しい事情を。
本人も、詳しい事情と結末を知る者たちも好んで語らないから、弟子仲間の二人も多くは語れないが、どうしても顔が苦いものになってしまう。
扉が閉まって列車が動き始めると、抵抗なく女子に紛れて座っていた凪が、隣に座る姉の動きを見とがめた。
「姉さん? それ、仕事の資料? 今日は、お休み貰ったんじゃないの?」
鞄の中から、大判の茶封筒を取り出した里沙は、おっとりと答えた。
「私は、休みだけど。あなた達は、遊びがてらにお仕事、ってところね」
「へ?」
通路を挟んで、最年少二人組と向かい合わせで、晴彦と座った和泉が、含みのある女の声に眉を寄せる。
「あなた達って、オレ達の事ですか?」
「そうよ。研修みたいなもの、ですって」
「ええー。まだ入社してないのに」
「それに、まだ土地勘もないですよ。それでも、できる仕事なんですか?」
おっとりと答える姉に弟が嫌そうに顔を顰め、晴彦が不安げに問いかける。
凪の文句は無視して、里沙は幼馴染の少年の問いに答えた。
「その点は大丈夫よ。どうやら、目的の動物園内にいる筈の子を、探すお仕事みたいだから」
「へ?」
顔を見合わせる、今年の新入社員二人に、里沙は続けた。
「安全性に関しては、まあ、程々じゃないかしら。昨日、うちの両親が揃って出かけた後に、持ち出してきた話だから」
「昨日? それって、まさか……」
凪が顔を強張らせて、何故か声を潜めた。
「お山の伯父様の所で、貰ってきたお仕事?」
「ええ。そうみたい」
里沙も何故か、声を潜めて頷く。
この姉弟には、伯父が三人いる。
内一人は、血は繋がっていないが父が昔から世話になり、母も幼少から兄と慕っている若者だ。
もう二人は、それぞれ父親違いと母親違いの、母の兄だった。
その父親違いの兄が、山の家に住んでいた。
妙な雰囲気に首を傾げる面々の前で、弟が深い溜息を吐いた。
「そうか。だからお父さん、朝出掛ける時、神妙に仏壇に、手を合わせてたのね」
「わざわざ、このとんでもない時期に、あなた達の為に、それ相応のお仕事を貰って来てくれたんだから、気を引き締めて望みなさいよ」
「うん。命がけだっただろうし」
仕事は兎も角、物騒な話だ。
「あの。確かに、昨日の朝、市原さんご夫婦がいらっしゃいましたが……何か、あったのですか?」
そこに入り浸りだった志門が、不思議そうに問いかけるのに、健一が目を剝いた。
「え。知らないんですか? あの騒動を?」
「騒動?」
これは、静と志門の声が揃った。
「何だ、何かあったのか?」
黙り込んでしまった晴彦と市原姉弟に、和泉が眉を寄せる。
それに答えたのは、健一の隣に座っている、伸だ。
「聖君が、今月の頭に大怪我で病院に運び込まれたのは、ご存知ですよね?」
「ああ。親父も、叔父貴も、相当気をもんでた」
勿論、自分も心配していたが、時々病院に立ち寄って、経過を聞いて帰る程度しかやれることはなかった。
「その件が、どうやら、セイさん絡みの件での事故だったようで……手術の後、聖君が目を覚ますまで、一睡もせずに三日ほど、病院に泊まり込んでいたそうです」
「え。一睡もせず?」
静が思わず声を上げると、晴彦が無言で何度も頷く。
「で、意識を取り戻した後、病院で仮眠をとっていたんですが……」
不眠状態のセイだけでも恐ろしいのに、それは序の口だった。
「どうやら、偶然、
セイの兄貴分と姉貴分まで、一緒に病院へと乗り込んで来た。
「……何だよ、その、とんでもない修羅場はっ」
「というか、聖。お前、何でもう、退院出来てるんだ?」
事情を知らなかった面々が悲鳴を上げる中、全く蚊帳の外の章が、隣に座る聖にそっと呼びかける。
無言でVサインする少年は、二週間前まで瀕死だったとは思えない程に、回復している。
金田医師直々に執刀し、家の事情に触らない経過にまで回復できる位には、成功しているはずだと、野田と名乗る大柄な医師に説明された東と名乗る男は、すでに症状が安定している少年より、その後住処の山に戻った気配のない若者を心配した。
「何とか、そこで宥めて、お三方を帰せれば良かったんですが……」
その騒動に、院長室の仮眠室を借りていたセイが、出てきてしまった。
「……」
「もう、あれは、滅多にない修羅場だったと、金田先生はおっしゃっていました」
不機嫌丸出しの若者が、それでも静かに三人に事情を説明し、病院から叩きだそうとしたが、伊達に若者の下にいた訳ではない三人は全く折れず、完全に物別れ状態となった。
空気も緊迫し、建物の崩壊も危うんだ金田医院長は、こっそりと医師や看護師たちに患者の避難を指示した。
「というより先生は、野田さんの慌てた報告で、建物崩壊は想定していて、既に立て直しを模索していたらしいんですが……」
「……叔父貴、流石」
思わず健一が感心したが、その想定は覆された。
立て直しの相談のために呼び出した、
「何故か、あの人の折半論に、全員が折れたんです」
セイは、このままここの仮眠室で仮眠をとり、三人は病院を速やかに出る。
ちゃんと体調を整えてから、セイは山に戻り、一月謹慎すること。
そんな取り決めに、若者も渋々と頷いたのだった。
「……成程、だから、あんな事に……」
合点がいった静が唸り、志門も溜息を吐いて呟いた。
「でも、その松本建設の人って、すごいですね」
藤田弥生が感嘆し、吉本朋美も大きな目を輝かせて頷く。
「銀髪の人って、あの、この世離れした人ですよね?」
「そうそう、あの頑丈そうなイケメンさん。どこで、あんな人見つけたのかしらね」
小柄な少女の言い分に、凪も身を乗り出して頷き、溜息を吐いた。
「お祖母ちゃんとお祖父ちゃんは、あまり近づくなって言うけど……お近づきになりたいよね」
「お母さんは、止めとけって言ってたわ」
長身の涼しい目元の弥生が、一時期篠原家に立ち寄っていた男の事を話す、母親の表情を思い出す。
「恋愛にも、家庭にも馴染めない男だからって。好いたら苦労するのは、女の方なんだって」
「まあ、そうかもね。天に二物までは与えられても、他はボロボロの人、多いものね」
女たちは、何度もしたり顔で頷く。
昔から、天は二物を与えずと言うが、この土地に集ったある若者の関係者たちの言い分は違う。
天は、二物までは与える。
それを教え込まれている娘たちは、自然に理想通りの完璧さを、求めなくなっていた。
「どうせ、共働きする気でいるから、相手にも家事や子育ての教育が出来ていたら、助かるよね」
「そうそう。でも、子供が小さいときは、いっそのこと、仕事詰めになって、ご飯もどこかで食べてきてくれれば、いいんだけど」
「は? 何言ってんだ?」
弥生の意見に、晴彦が反応した。
「早く旦那が仕事から戻って、子供を見てた方が、色々やれるんだろ?」
「あなたこそ、何言ってるの? 仕事疲れした男が、きちんと子供を見てくれるなんて、信じられるはずがないでしょ?」
少女はきっぱりと言い切り、続けた。
「動くようになる頃には、妻の方だって仕事を再開してて、保育園か幼稚園に子供は預けてるわよ。それまでは、旦那の世話に気をとられたくない。泣くのが仕事の赤ちゃんを見ながら家事をして、夜泣きするのを旦那に嘆かれながらあやすの、嫌だわ。いっそ、その時だけ実家に帰っててほしいわ」
買い物は配達してもらえる世の中だから、最悪手がかからなくなるまでは、滅多に外出しなくても問題ない。
そうなると、子供の世話より、その間も旦那の世話をする方が苦痛と、弥生は言い切った。
「そういえば、うちの母も、専業主婦は楽だけど、それは旦那や姑の横やりがなければの話だって、言ってました。家事が多少できる旦那に限って、細かい所まで指摘して来たり、これ見よがしにやり直したりするから、鬱陶しいって」
「専業主婦をさせるなら、その仕方にまで口出しするな、って話よね」
「私が生まれる前に、夫婦間で取り決めをし直して、破ったら実家に帰るって脅して、今の形になったって、言ってました」
朋美と弥生が話す前で、市原姉弟もなるほどと頷いている。
「最近は、夫婦で協力して家事をするっていう風習になっているけど、男の人が出来る家事って、どこまで? 子供を十か月十日もお腹に宿して生んで、お乳をあげることは、出来ないんでしょう?」
「そうそう、それが一番、大変なのに。図体が無駄に大きい男なんか、動き回られると、邪魔なだけよね」
「……オレたちに、結婚は墓場と、誤認させる気か」
頭を抱えて嘆く晴彦の肩を、したり顔の和泉が叩いて言った。
「誤認じゃないだろう。それは、昔から言われてる」
話が夢のないものに大幅に逸れてしまったが、そこで里沙が咳払いして話を戻した。
「伯父様が、先週山のお家に戻られたのは、ちらほら耳に入っていたから、うちの両親が、電話で予定を聞いて、昨日の朝の訪問の約束を取り付けられたの」
そして、適度な研修の依頼を、手に入れて来た。
「伯父様が受け持つお話にしては、優しいお仕事だけど、あなた達にはちょうどいいと思うわ」
それが、今向かっている動物園に来ている筈の人間を探して説得する、そんな仕事だった。
「……」
場所が特定できている分、動きまわる距離は短そうだが……。
和泉が首を傾げて、尋ねた。
「説得って事は、家出人って事ですか?」
「ええ。今度中学に上がる、男の子」
しかも、自分達が卒業した学園の、中等部に入学予定らしい。
「名前は、真倉由良君。一昨日の夜、ペットと共に家を出て、そのまま帰らなかったそうよ」
母親と二人暮らしのその少年が、母親が少し目を離したすきに、いなくなった。
「ええー。少し目を離したって、そんなに過保護な母親なの?」
「仕方ない理由みたいよ。この春に、日本に出て来たばかりで、母親ですら右も左も分からない状態だったそうだから」
母親は、英国を中心にして活動していた音楽家だったが、今度日本の芸能事務所と契約した関係で、日本に渡って来た。
「その理由が、少しドロドロしていて、その旦那さんこの国で、他の女の人に産ませた子供がいるんですって」
「へえ」
あっさりと、言いにくい筈の話をする里沙に、まだ転入して間もない章が目を剝くが、それ以上にあっさりとした相槌が周囲で起こった。
あの学園では、家庭の事情を抱えた生徒が多い。
そんな事情よりも、個人を生かせる学習を目指している学園だから、マウントを取れるとしたら、学力や体力、技術力などの個人の得意分野でのみだ。
性格がねじ曲がっている者もいるが、それを相手に包容力を身に付ける事も、社会に出た上で役立つと教え込まれ、心身の傷害や物質の破損を伴わない限りは、個性を損なわせない取り組みが、なされている。
高等部卒業式の後、一クラスごとに訪ねて来た学園長が、最後にその秘かな取り組みを話し、保護者達は感銘を受けていたが、口に出すだけではなくそれを実行していたとすると、相当な負担が教師たちに圧し掛かっていたのでは、ないのだろうかと、和泉は幼馴染たちと疑ったものだった。
どんどん減っていく中でも、教師を続けるのであろう、高等部三年間受け持ってくれた教師を思い浮かべ、尊敬の念を思い出した時、里沙がおっとりと不思議な事を言った。
「どうも、ユメさんがこの国に来たのは、その女性とお子さんたちを探すのが目的みたいなの」
「え?」
戸惑う一同の中で、おっとりとした声が更に言う。
「うちの近所に越して来たのは、旦那さんが昔、この辺りに住んでいたからみたいね」
「……」
眉を寄せてしまった伸の代わりに、健一が控えめに尋ねた。
「うちの近所って、オレたちの地元?」
「そうよ。いくらなんでも、あの学園に入るからには、近場じゃなくちゃ」
「……土地勘ないのに、何で、今から行く動物園にまで、辿り着いたんですか?」
違和感に気付いた晴彦も眉を寄せ、次いでわざとらしく笑った。
「まさか、文字通り飛んで行ったとか?」
「おい、いくらなんでも、そんなこと……」
「そうみたい」
苦笑してふざけ過ぎた幼馴染の肘を小突いた和泉は、おっとりとした返しに固まった。
「は?」
笑ったまま固まった少年二人を見比べながら、里沙は続けた。
「とても、精神的に弱い子で、少しの怒気や空気の流れでも驚いて、すぐに飛んで行ってしまうんですって」
「り、里沙さん?」
「勿論、そんな状態の子を、通学させるのは躊躇うけど、最近ではペットのポチのお蔭で落ち着いたから、今回学校に通わせようと、決めたんですって」
「ポチ?」
眉を寄せたまま黙っていた伸が、思わずと言った様子で口走った。
聞きとがめて振り返る先輩たちに、取り繕うように手を振る。
「いえ、すみません。英国の方なのに、ポチと名付けているのかと、驚いただけです」
「ああ、そうだな。日本で犬猫と言ったら、ポチとか毛の色とかが簡単な名前だもんな。オレは、猫を飼ったらポチってつけるつもりなんだ」
「そう言う統計は調べた事ないから分からないけど、そう言う事もあるんじゃない? 旦那さんがこちらにいたという話だし、拾った猫たちに、色で連想する食べ物や飲み物の名前を付ける人だって、いるんだから」
実際、見知った野良ネコに名付けていた過去がある健一が軽く返し、里沙も軽く言った。
「でも、そんな情緒不安定な子を、通学させるの、大変でしょうに。まさか、そのペットも、一緒に連れて来るつもりでしょうか?」
学園的には、校則に反していないならと、黙認されそうだが。
既に卒業してしまった面々が、心配して眉を寄せるが、聖が明るく手を上げた。
「大丈夫ですよ。一応、僕たちとクラスが一緒の様に、取り計らわれるはずです」
「え、そうなのか? じゃあ、オレもちゃんと、協力した方がいいかな」
一人関係ないと、うっとりと前方を見ていた章が、我に返った。
「……まあ、何のメリットもなくていいなら、手伝ってくれ」
純粋な視線に居心地の悪い思いをしながら、何とも思っていない風で話に加わっていた和泉が、章と目を合わせる事なく返す。
大きく頷いた少年を見、里沙は資料の中から、一枚の写真を取り出す。
「これが、真倉由良君よ。お母さんは、真倉ユメさんで、さっきも言ったけど、今季から、日本の芸能事務所に籍を置く、英国育ちの音楽家よ」
「真倉、ユメ? それって、世界的に有名で、話題になってる、あの?」
「そう。旦那さんが、英国で浮名を流してる医師って事で有名な、あの歌手」
「へえ……」
相槌を打つ健一は、小さく唸る伸を不思議そうに見ながら、回って来た写真を受け取る。
「何だか、薄い子ね」
凪が、恐ろしく失礼な感想を述べたが、健一もそれ以上の言葉を探し切れなかった。
色白なのは分かるが、瞳の色も髪の色も白と見違う程に薄く、全身が透き通っているように見える少年が、写真に写っていた。
気弱そうな表情で、暗いイメージも見受けられる。
「ペットの方は? この子だけでも目立ちそうだからいいですが、抱えている動物の特徴も欲しいです」
和泉の当然の指摘に、里沙はおっとりと首を振った。
「その写真一枚だけよ。後は、家庭の事情の資料だけ」
「え。いや、それも、可笑しくないですか?」
「依頼者は、ペットは放置でいいって、言ってるそうよ」
そうは言っても、生き物を放置しては、後々問題が出て来る。
それを承知しているはずの人からの、仕事提供のはずだ。
はっきりとした違和感に眉を寄せた和泉は、話に無関心な二人を見た。
窓際で張り付く静を、微笑んで見守る志門に話しかける。
「あの若が、提供してくれた仕事にしては、中途半端じゃないか? 古谷はどう思う?」
振り返った少女が、鋭く睨んで来る。
邪魔をするのは申し訳ないが、二人の無関心ぶりは、不自然過ぎた。
静の隣でゆっくり振り返った志門は、首を傾げた。
「そう言う事も考えて、あなた方の思い通りに動くことが、研修なのではないですか? 私に意見を求められても、困ります」
人はいいが、決してお人好しではない同級生の言葉に、和泉はつい舌打ちした。
「……やっぱり、この話には、裏があるんだな?」
「え? どう言う事?」
きょとんとする凪の背中越しに座る晴彦が、小さく悲鳴を上げた。
つい堪え切れなかった声が、忘れてはならない事を思い出したことを、告げていた。
「忘れてた」
「何を?」
青褪めた幼馴染の様子に狼狽える凪に、晴彦は叫ぶように返した。
「昨日、若と一緒にいたかも知れない人たちがいた事を、だよっ」
何で、忘れていたのか。
苦い思いで、和泉も頷いた。
「あの人が謹慎してたのなら、誰か必ずついてるはずだ。喧嘩をしたっていう例の三人が一緒だったら、例え楽な仕事でも、裏があると考えた方がいいだろう」
「大袈裟な」
眼鏡を押し上げながらの言い分に、静が呆れて返した。
「確かに、先程のお話の三人が一緒でしたが、子供には優しい方々ですよ」
「優しいのは知ってるが、それは、十代以下だろっ?」
「いえ。確か、十五くらいまでは、子供に分類してる筈です。それに、最終的にそのお子さんが、何処にいるのか探してくださったのは、エンさんですよ」
宥めるように言う静の言葉に、何やら考え込んでいた伸が、突然顔を上げた。
「それ、本当ですかっ?」
目を剝いての問いかけに、志門は首を傾げて答える。
「本当です。若が謹慎状態となりましたので、代わりにその位はすると、快く引き受けて下さっていました」
天井を仰ぎ始めた伸に、更なる不審を覚える和泉の横で、晴彦が何度も首を振る。
「甘いっ。エンさんはな、確かに子供は好きだが、弱いわけじゃないんだ。必要とあれば、崖から蹴落とすくらい、平気でやるっ」
「ですが、とても優しい笑顔で、引き受けておられましたよ」
「その笑顔が、曲者なんだよっ」
志門が宥める言葉にも、同窓生の少年は更なる絶望を感じ、言い切った。
「あの人はな、笑顔の時が一番怖いんだっ。特に、人を安心させる笑顔を浮かべている時は、要注意だって言う警告が、うちには伝ってるんだぞっ」
現に、笑顔の殺人鬼の異名は、セイの傍に戻って以降、別な形で定着しつつあると、話題になっていた。
その言葉を受け、志門は小さく言った。
「そうですか。御存知だったんですね」
「当たり前だっ。あの人はな、うちのひい祖父さんの、友人だったんだぞっ」
「ハルちゃん、それ、言い切ったらダメでしょ。年齢的に、不自然よ」
身内や、他の事情を知る者達だけなら問題ないが、ここには今部外者もいる。
そう窘める凪に、晴彦はその勢いのまま返した。
「何で、そんなに落ち着いてんだよっ。エンさんがとんでもない画策をしているんだとしたら、並みの問題じゃ済まないぞっ」
「若もそれを止めなかったのですから、その分あなた方への期待があるのでは?」
やんわりと宥める志門を、取り乱したままの晴彦は睨む。
「そんな意地の悪い事を……お前、そんなにこの旅行に、行きたくなかったのかっ?」
「それは、関係ないです。確かに、これから数年遠出することになるのに、列車で出かけねばならない場所に行くのは、億劫だとは思っておりましたが」
正直な少年に、更に言い寄ろうとする幼馴染を制止し、和泉がやんわりと尋ねた。
「その、億劫なこの旅行に行くと、心変わりした理由はなんだ?」
「恐らくは、これが最後になるからです」
答えはすぐに貰ったが、短い言葉は意味不明だった。
「何が?」
再び尋ねた少年に、志門は正直に言った。
「十代の内に、静さんの願いを叶える事が、です」
「……」
直球の答えが、何故か変化球になっていた。
「……古谷」
その変化球を受け止められず、声もなく呻く静を目の端に留めながら、和泉は力なく指摘した。
「お前、それは、意表を突き過ぎじゃないか?」
何のことかと、眉を寄せる同窓生を見据え、凪が声を籠らせた。
「そう言えばあなた、伯父様の家に入り浸っていたんだったわね? 昨日もいたの? 朝から?」
剣の籠ったその言葉に、志門は少しだけ狼狽え、すぐに頷いた。
「市原さんご夫婦と、塚本さん方がお見えになった時、すぐに呼ばれましたので、大体のお話は把握しております」
「その、把握している話を、残らず話しなさい」
じんわりと脅す少女めいた同窓生に、少年は少しだけ慄きながらも、きっぱりと答えた。
「それは出来ません。あなた方の研修課題の件が、主でしたから」
目を細める凪を牽制しながら、和泉が静かに切り出す。
「その、研修の詳しい話はぼかしてもいいから、実際に昨日起こった事を、話して見ろ。その女、あの人たちを怒らせるような、何をやらかした?」
眉を寄せた志門は、困り顔の静と顔を見合わせた。
「そう言われましても……何が、あのお二人をあそこまで怒らせたのか、私たちには全く……」
「それでも、構いません」
きっぱりと言い切り、真っすぐに見つめたのは、腹をくくった伸だった。
「昨日の出来事と言うのを、初めから詳しく、話してみてください。この頭数があれば、誰かがその原因に思い当たるかも」
それは、全部話せと言っているのも同じだが、困り顔の二人はその後輩の真顔の呼びかけに頷き、代わる代わる話し出した。
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