第6話

 玄関で声を上げて呼びかけ、勝手を知る四人の客は、隣の部屋へとぞろぞろと入っていき、それぞれ挨拶を交わした。

「ご無沙汰しております、お兄様。このような時刻に、申し訳ありません」

 静かに挨拶したのは、市原朱里だ。

 セイの父親違いの妹で、今は二児の母でもある女だ。

 若者とはまた違った、日本美人の小柄な女性で、耳元で真っすぐ切りそろえられた黒髪は、市松人形を思い起こさせる幼さがあり、とても高校を卒業したばかりの息子がいる様には見えない。

「昨夜、連絡があったからこの時刻になっただけで、別に忙しくはなかったから、構わないよ。逆に、今日はこの時刻しか空いてなくて、済まない」

「そりゃあ、仕方ねえだろ。お前が、一週間も前から、ここにいる事を裏付け出来たのが、昨夜だぜ? お前、痩せたんじゃねえのか?」

 セイの言葉に答えたのは、強面の大柄な男だ。

 どちらかというと、危ない筋の仕事に就いていそうな面構えだが、現場を駆けまわる、真面目な刑事だ。

 その外見と裏腹に、心配そうな言葉を太い声に乗せた男と、若者は昔馴染みの上義理の兄弟の関係で、その理由は男とその言葉に同調した女との、婚姻関係にあった。

「時々は、うちにも寄って下さいな。年末年始の一日くらいは、本当の水入らずで、過ごしてみたいです」

「そう言う懇願は、うちの連中を説得してから言ってくれ。あいつらも、涙ながらにそんな事を言うんだ。鬱陶しいからこちらの弁を聞いてるだけだ。二つに身を裂けるわけでも、分身を作れるわけでもないんだから、その辺りは諦めてくれ」

「え? 出来ないんですか? お兄様なら、その位朝飯前だとばかり……」

 真面目に驚いている女だが、隣に部屋では別な事で驚いている二人がいた。

「……あの人が出来ない事を、課題として選んでしまったんですね」

 秘かに聞いていた志門が、がっくりと肩を落としているのを見ながら、静はしみじみと呟いてしまった。

 ある意味、若者も期待しているのだろうと、声を潜めて慰める少女の耳に、別な声が聞こえた。

「この度は、息子の事で心配をおかけして、誠に申し訳ありませんでした」

 神妙な男の声は、塚本伊織だ。

 先程話題に出た塚本聖の父親で、塚本家は古谷家と高野家と共に、若者を表の社会から手助けする立場となっている家柄だ。

 女受けする甘い顔立ちに相まった、低めの甘い声に、今は切実な色が滲んでいる。

「話にゃあ聞いてたが、見舞いには行けなかったからな。山を登ってた所を見るに、もう不具合はねえんだな?」

 朱里の旦那の市原葵が、気遣うように子供に声をかけると、幼さの残る声が元気に答えた。

「はい、金田先生のお蔭で、もうこの通りです。何なら、すぐにでもやり残したことを再開してもいい位で……」

「まだ、駄目だ。もう少し間を空けてから、検討すると言っておいただろう」

 きっぱりと遮る父親を見上げ、口をとがらせる少年を見、セイは小さく息を吐く。

「逆に、この機会に、危ない稼業は終いにするっていう手も、あるんだからな」

「それは、ありません」

 伊織が、願望の籠るその言葉を、即否定した。

「もし、聖が駄目でも、他に目ぼしい子供は、何人かおります」

「駄目って、なんだよ。見込みがあるから、試させてくれたんだろ?」

 頬を膨らませる息子に構わず、父親は神妙に礼を言った。

「もし、あの場に若がいなかったら、金田さんがすぐに手を煩わせてくれなければ、子供を一人、失う所でした」

「私が、あの場を用意したんだから、助けるのは当たり前だ。礼なら、金田さんにしてくれ」

「はい。あの人には、今後一生、頭が上がりません」

 声は優しく響き、きっと眼福な笑顔が浮かんでいるだろうと、想像できた。

 昔はその顔で、何人の女の人を侍らせていたのだろうと、ついつい下世話な事を考えていた静は、女の切り出した言葉で我に返った。

「ところでお兄様。隣で聞いている子たちとは、挨拶させてはもらえないのですか?」

 長机を挟んで、茶を啜りながら耳を傾けていた二人の子供は、ついぎくりとしてしまった。

 別に、盗み聞きしているつもりはなかったのだが、指摘されると居心地が悪い。

 そんな子供たちの気持ちを察してか、セイがやんわりと答えた。

「話とやらが終わってからでも、差し支えないだろ? 極秘の話なら、席を外させる」

 いくら何でも、隣の部屋ではまる聞こえだ。

 慌てて、湯飲みや茶菓子をまとめている二人に、朱里は溜息を吐いた。

「極秘のお話ではありませんから、そこまで気を使わなくても、大丈夫です。志門君や静ちゃんも、無関係ではないお話ですし」

 妻の言葉を受けた男が、隣の部屋との間を仕切る襖を開けた。

 部屋から退散しようと準備中の二人に、葵が苦笑いで言う。

「ほれ、それを持って、こっち来い。お前たちにも、無関係な話じゃねえから」

「……」

 その様子を、セイは目を細めて見ているものの何も言わないので、二人は茶菓子セットを乗せた盆を掲げ、そのまま隣に部屋へと移動した。

「いらっしゃっているのを承知していたのに、挨拶もせず申し訳ありません」

 神妙に頭を下げる二人に、市原夫婦は笑顔で答える。

「そうびくびくするな。二人とも、正月以来だな」

「志門君も、無事に卒業できたそうね。おめでとう」

 恐縮する少年に、初等部を卒業した息子を横に座らせている男も、優しく微笑んだ。

「もう向こうへ行く準備は、整ってるのか?」

「はい。大きなものを準備する必要がありませんので、宅習期間の前半に完了しております」

 志門の大学には、寮がある。

 朝食夕食付きで、ある程度の家具も置いてあるらしく、用意する物は衣服と文房具、生活用品位だ。

 そのもろもろの買い出しに付き合ってくれたのは、一年早く就職した石川いしかわ志桜里しおりだ。

 北九州に定住していた石川家に引き取られた志桜里は、去年この地の大企業に就職し、近くに越して来た。

 数日の有休をとって、その半分ほどを志門の買い出しの為に使ってくれた。

「そうか。お前の姉ちゃんも、元気でやってるんだな。確か、篠原財閥の子会社での事務員、だったよな」

「はい。篠原君が上司になる日が来るのかと、思っていたのですが……」

 それとなく、和泉に進路を聞いた時には、驚いた。

 まさか、幼馴染二人と共に、興信所に勤めると決めるとは。

「説得したそうよ。お父さんが決めた、優秀な女性従業員と結婚するから、自由にさせて欲しいって」

「聞いたことがある言葉だと思ったら、去年里沙が、それを言ったんだよ。誰が、好き好んで、刑事を娘にあてがうってんだ?」

「説得って、あんた一丁前に、娘の将来に文句を言ったのか?」

「んな訳ねえだろ。ただ、あんまり遠くで暮らすのは、心配だったんだ……って、こら。一丁前って、どう言う意味だっ」

 割り込んだ無感情な声に神妙に答えた葵が、遅ればせながら睨みつけると、声をかけた方は客たちに茶を行きわたらせて、自分に注いだ茶を啜っていた。

 熱い番茶の器を両手で包んで溜息を吐き、答える。

「そのまんまの意味だよ」

「このっっ」

 言って詰まった大男の妻が、相変わらずの兄を見返し、溜息を吐いた。

「お兄様、いい加減、その言い方は戻してくれませんか? 私は、もう何とも思っていませんから」

「何の事だ?」

「……」

 首を傾げられ、朱里はつい天井を仰ぐ。

「無自覚だったのね。気遣ってくれてるとばかり、思ってたのに」

「……まあ、気にすんな。本音を一々口にし始めてただけで、昔から態度は変わってねえから」

 がっくりとする妻を、葵は苦笑して宥めているが、聞いている子供たちと塚本氏には意味不明だ。

 顔を見合わせる面々の前で、葵が改めてセイに向き直り、真面目な顔を作る。

「わざわざ時間を作ってもらったんだ、こっちの話も真面目に聞いてくれるよな?」

「まあ、訪ねて来るのを迎え入れた時点で、そのつもりだけど。分かってるか? 私はそろそろ、謹慎状態になるんだぞ?」

 そう答えた若者の弁に、そうなのかと驚いたのは志門と静だけで、他の客たちは承知していたようだ。

 市原夫婦も神妙に頷き、朱里が答えた。

「承知しています。今日は、相談をしに来ただけです」

「相談?」

 女は真顔で頷き、塚本氏に目を向けた。

「塚本さん、聖君の怪我の経緯を、差し支えなければ教えていただけませんか?」

 不意に切り出され、塚本氏は一瞬目を見開き、セイを見る。

「家の不手際ですので、あまり大きな声では言えないのですが……」

 まあ、秘密事ではないと、男は答えた。

「実は、我が家の当主は代々、ある一定の時期になりますと、力試しと過信の牽制の為、忍び込むことの難しい場所での課題を試みるという、試練を課せる仕来りとなっておりまして、聖はそれに、失敗してしまったのです」

「え」

 思わず目を剝いたのは、静だ。

「塚本さんの家は、隠密に長けていると聞いていますが、そんな家柄でも忍び込みが難しい場所が、ありますか?」

「まあ、セキュリティーが万全になった今、困難にはなったが、その裏を掻けばそこまで難しくはない」

 純粋な驚きに微笑み、塚本氏は答えてくれた。

「だが、確かにこの国ではそんな試練になりそうな場所は、少なくなっている。忍び込みは難しいが、忍び込んだら後は楽勝な場所が、増えてしまったんだ」

 隠密の仕事は、目的を達成するまでが使命だ。

 忍び込んでも、見つかってしまったら最期、という現場が、最近はなくなっていた。

「実は、先々代までは、この国でも難関が残っていたんですが……」

 それは、最大の難関だったのだが、その先々代で使えなくなった。

「……ある家の私有地内から、物を一つ盗んで来る試練だったのですが、先々代が狙ったのが、その私有地の所有者だったもので……」

 そこで苦笑いを浮かべた塚本は、セイに一礼して続けた。

「お蔭で、若と言う尊い方に仕える栄誉が、得られました」

「……尊い? 何もかも飛ばして、結論だけ言って誤魔化すな。知ってるんだろ? その所有者を狙った先々代が、まず狙ったものを?」

「全く効かなかったと、言い伝えられておりますが」

「物が一つ二つ無くなるのは、大目に見てたけど、人間を狙うのなら、相手にしない訳にはいかなかったんだよ」

 その時、元祖と呼ばれる女と話を付けたのが、塚本家との馴れ初めだった。

「あの方が、試練として強力な術者のいるこの私有地を、指定しておりましたので」

 この、セイとの衝撃的な衝突のせいで、先々代は狙った男を連れ去ることは出来なかったが、似たようなものは盗んで来た。

「子種だけは、ちゃんと盗んで参りましたっっ」

 と、元祖に報告したと、言い伝えられているそうだ。

 現在は完全に若者の下にいるので、程よい罠と程よい監視が最適だったこの場所を、使う訳には行かない。

 そこで、先々代はダメもとで、先代の試練の時期に、若者に提案したのだった。

「つまり、セイが、場所を指定してるんですか?」

「と言っても、この三代とも、同じ場所だけどね」

 静の問いかけにセイは頷き、塚本もしんみりと続ける。

「適度な場所です。私も一度失敗し、命からがらな所で救われたと、父から聞いております」

 深々と頭を下げる親子に、セイは無感情に答える。

「指定する側が、助けるのは当然だ。あんな辺鄙な所で死なれると、後味悪いからな」

 何でもないように言う若者を、葵は呆れたように見やって、深い溜息を吐いた。

 朱里の顔が、険しくなっていた。

「……お兄様」

「何だ?」

「一つだけ、不思議なのですけど」

「何が?」

 あくまでも無感情な返しに、女は若干顔を引き攣らせながら尋ねた。

「なぜ、身内には無関心なのに、赤の他人の方々には親身になれるのですか?」

「別に、親身になってはいない。今、言っただろ。場所の指定を乞われた関係で、その危険度を知りながら黙認するのは、後味悪い」

「そうですか。それなら、私からの頼みも、親身になって下さるんですね?」

 妙に真剣な問いかけに、セイは眉を寄せながらも答えた。

「無茶な頼みでないなら、な」

「なら、考えて下さい。凪を、教育する手を」

「? 教育? したんじゃないのか? 一応、持ってても損はない高卒資格も、取れたんだろ?」

 首を傾げる若者に、朱里は辛抱強く言う。

「ある程度の教育は、です。自制に関する教育が、あの学園は甘いんです」

 生徒寄りの学園づくりを目指したせいか、あの学園にはそのきらいがあると、女は真顔で力説した。

 刑法に触らない程度の節度を持った校則のお蔭で、生徒はのびのびと成長しているが、それで済ませてはいけない生徒も、中にはいる。

「……去年、里沙が卒業後、うちに就職して来た時、実感しました」

「里沙で苦労したのなら、何とかなるんじゃないのか? 凪は方向音痴じゃないし、浮ついたところもないだろ」

 セイも、里沙がどんな場所でも迷うため、事務員として定着したことは知っている。

 だが、凪は母親の方に内外共に似て、大人しく見える。

「……見えるだけだと、知っていますわよね、勿論?」

「子供は元気な方が、安心だ」

「元気のレベルが違うから、こうして……っ」

 全く心が動いていないのが見て取れる兄を前に、朱里は思わず拳を握る。

「どうして、うちの人に似てくれなかったんでしょうか。私に似たのでなければ、こんな心配はしないのに」

「可愛いからいいじゃないか。私としては、葵さんみたいな人は、一人でいい」

 赤くなって慌てる葵の横で睨む妹に、セイはきっぱりと言い切った。

「どんな問題があると思っているのかは知らないけど、お前に似たのならば、色々と誤魔化しがきくから、大丈夫だ」

「では、その誤魔化し方を、具体的に教えてくださいなっ」

 頬を膨らませる女を、旦那である葵や年上のお兄さんである塚本氏は微笑ましげに見ているが、対する若者には変わりがない。

 無感情に答えた。

「万が一、過剰な防御で訴えられたら、涙目で神妙にしているように、今からでも教えて置いては? お前がやったように」

 女が目を剝いて、膝を浮かした。

「それは、もしかしなくても、あの時の事を言ってるんですかっ?」

 あの時、とはどの時なのか、子供たちは全く分からなかったが、大人たちには周知の話だったらしく、二人の男は揃って狼狽えた。

 オロオロとする二人の傍で、朱里が顔を歪めて若者を睨む。

「私は、好きで泣いてたわけじゃないですっ。言い返せなくて、悔しかっただけで……」

「そんなに悔しかったのに、手を出さなかったのは、褒めただろう?」

「だったら、どうして、あれを誤魔化しとおっしゃるんですかっ」

「例えで言っただけだ。小柄で御しやすい体格は、目を付けられやすい分、同情も買いやすい。被害に遭わない防御をしつつ、世間にも同情される方法を、伝授しておいた方がいい。過剰な防衛で、加害者を返り討ちにしても、偶然急所を攻撃してしまった体をとって、下手に出て謝り続ければ、大体は騙されてくれる、多分」

 ここで多分、と付け足すから、信ぴょう性が薄くなるのだ。

 無感情に言った若者を、葵が呆れ顔で見やる。

 それに気づいたセイが、天井を仰いだ。

「私は、一度も成功した事が、ないけど」

「……あの面々が相手じゃあ、な」

 神妙にすることが、この若者に関して言うと白々しい。

 というか、外部の人間なら引っ掛かりそうなのに、身内内でしかそれを試さないのも、理由の一つなのではないか。

 塚本氏が小さく唸り、志門も考える。

 若者がしおらしくしていると、何か裏がある事が多いから、珍しい事であっても油断できない、というのが身近な者たちの判断なのではと思う。

 ひとしきり唸る面々の空気の中で、葵が真顔になった。

「朱里の場合は、結局何もなかったうえに、問題にもなってねえが……凪の場合は、そうはいかねえ。社会に出てからの話だし、朱里と違って、全く別な暴走が考えられる」

「それは仕方ないだろ。曲がりなりにも、あんたと朱里の子供だ。凪はうまく混ざったけど、それでもどういうタイミングで暴走するか、分からない」

 分かってんじゃねえかと、顔をひねる大男に首を傾げ、朱里と交互に見ながら続けた。

「でも、それは、経験で何とか抑えていける様になるものだ。それをフォローするのが、親の役目じゃないのか?」

「でもっ、もし、私たちが目の届かない所で……」

「そこまで、信用してないのか?」

 身を乗り出して反論する朱里を見据え、セイはやんわりと微笑んだ。

 その笑顔に詰まる妹に、ゆっくりと言い切る。

「あの子が、自分の力を抑えきれないからと、行き過ぎた行為で他人を害するのを仕方ないと、割り切る子供に見えるのか? よその大人の手を借りてまで、助けないといけない程に、頼りなく見えるのなら、それはお前が子供を信じなさすぎだ」

 胸を突かれたのは、朱里だけではなかった。

 同世代の子供たちも、その親の塚本氏も胸を突かれて、感動してしまった。

 そんな、静まり返った部屋で、葵が深く溜息を吐いた。

「セイ」

「何だ?」

 呼びかけに微笑んだまま返す若者に、大男は心底呆れた顔で言った。

「遠回しすぎで、本来の思惑が、全く見えねえぞ」

「何のことだ?」

「お前、単に面倒臭えだけだろ? はっきり拒否すれば、いい話だろうが」

 え、と我に返る面々の前で、セイは無感情に戻って返した。

「はっきり言ったら、朱里が泣くだろ」

「……その答えは、はっきり言ってるような、もんだろうが」

「大体、あんたたちも、遠回しに言ってるじゃないか。はっきりと、塚本さんの所の様な場所を、探せと言ったらどうだ? すぐ断るのに」

 机に頭を突っ伏す朱里の隣で、葵が苦い溜息を吐いた。

「はっきり頼んだら、断られるから、遠回しに言ったんじゃねえか」

「どちらにしても、断るのは変わりない。知ってるだろ? 私は、謹慎中だ」

「知ってるぜ。だがまだ、その期間には入ってねえだろ?」

 にやりと、悪党のような笑みを浮かべる葵を見つめ、セイは眉を寄せた。

「今朝、連絡があった」

「ん?」

「病院を出る時に、連絡くれると思っていたと、怒り心頭だ」

 その割に、折り詰めを持って来るからと付け加えるのが、分からないんだよなと、セイはしみじみと言う。

「……お前、まさか、山に戻った時、連絡入れてねえのかっ?」

 とんでもない事実に行き会い、一転して青褪める大男に、若者はあっさりと返した。

「そんな約束、してないからね」

「してないから、じゃねえだろうっ」

 事が思ったよりも深刻な事態だと気づき、頭を抱える葵と戸惑っている朱里を見比べ、若者は静かに言った。

「あいつらが、何人で連れ添ってくるかは知らないけど、そんなに長い時間は取れない。あんたらのその相談、私でないと出来ない事だったか? 葵さんも知ってるだろ? その子には、私の他に、後二人兄がいるんだ。まずは、そっちを当たって見たのか?」

「当たって来たに、決まってんだろうっ。二人とも、当てもねえし、あっても子供に任せられる程、適度な仕事じゃねえって、断られたんだよっ。そうでなきゃ、ただでさえ来づらいここに、この時期に来る覚悟は……」

「あれ? 声が聞こえると思ったら、珍しいお客さんたちがいるね」

 わざとらしいほどに優しい声が、喚くように言葉を投げていた大男の舌を、一瞬で凍らせた。


 平日の昼間の普通列車の普通席だが、今日は貸し切り状態の車両だった。

 その一両の車内が、凍り付いていた。

 一時期は、セイの市原家の子供たちに対する話で、何ともこそばゆい感覚を覚えていたのだが、その空気は軽く塗りつぶされた。

 その中で、静がしみじみと言う。

「先程、事情を聞いて納得しました。どうしてセイが、心配しているはずのあの三方に、一週間前に連絡を入れなかったのか」

「松本家のあの方が、説得に関わってしまったからだったんですね。どうやら若は、あの方の扱いを持て余しておられるようで、不機嫌な状態に水を差された反動で、あのような嫌がらせをしてしまったのでしょう。要するに、八つ当たりだったのですね」

 志門も、しみじみと頷く。

 呆れ果てる伸の隣で、健一も呆れ顔で首を振った。

「火に油を注ぐような事をして、一番損するのは、自分なのに」

「何と言うか、ここで済んでいれば、まだ良かったんですね」

 そう、まだ、続きはある。

 まだ、登場していない者がいる。

 正直、聞きたくない。

 頭を抱える晴彦と、青褪めている市原姉弟に構わず、仲良く微笑みながら少年少女は続きを語った。

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