第2話

 終業式を間近に迎えた、放課後。

 望月千里もちづきちさとは、いつものように授業を終え、すれ違う生徒たちの挨拶に挨拶を返しながら、職員室へと向かっていた。

 一月前に、担任だった三年生を送り出したものの、教科の担当クラスは卒業生だけではなく、一息つく間もない。

 去年の新学期に新任としてやって来た教師たちは、何とか落ち着いて来たが、未だに教師不足が続いており、国語の教師は自分しかいないという、悪境遇だった。

 私立だからとはいえ、生徒優遇の学園づくりをしていては、教師の不満が募るばかりで、それが居ついてくれない原因なのだが、望月の同級生だった現理事長は、全く意に介していない。

 それどころか、この位安全面を重視してくれているのならと、この地の保護者達からは好意の目を向けられているのをいいことに、特に警備面は少々やり過ぎの域に差し掛かっていた。

 理事長が、生徒の安全を真剣に考え始めたのには、訳がある。

 彼がまだ十代で、この学園に通っていた頃の話だ。

 高校最後のテストを終えた頃、学園を揺るがす不祥事を起こした教師がいた。

 理科の生物担当のその男教師は、秘かに男子生徒が憧れていた女子生徒を生物室に連れ込み、無体を働こうとしたのだ。

 その女子生徒は必死で抵抗し、生物室から転がるように逃げてきたところを、廊下にいた生徒に助けられて無事だったが、加害者である教師は平然と無罪を主張した。

 急遽集められた保護者代表たちや、教師たちの前で誘われたのは自分だとうそぶき、女子生徒を泣かせた。

 それを聞いた男子生徒も、女子生徒の真面目さを知る同級生も、かなり真剣にその教師の抹殺を計画したものだった。

 全員で袋叩きにして、焼却炉にくべてしまおうと、真顔で言ったのは今の理事長だ。

 同じく同級生だった高野信之のぶゆきが宥めなかったら、本気でやっていたかもしれない。

「半殺しで、辛抱しろ」

 全殺しはいかんと言い切る当たり、高野も腹を立てていたようだが、当時の副担任が真顔で窘めた。

「あんな奴の為に、将来を棒に振る気か? こんな大事な時期に、あんな仕出かしをする方もする方だが、それに煽られて卒業すら危うくなっては、目も当てられんぞ」

 その時は、教師の顔を立てて、怒りを治めたのだが、将来、学園を継ぐ立場になる男は、深く考えたらしい。

 その結果が、今のこの学園の現状だ。

 件の生物教師は、精神病院に入院し、未だに出て来れないでいる。

 どうやら、あの場で弁明を聞いていた女子生徒の兄を通じて話を知った誰かが、何やらやらかしてくれたらしい。

 らしい、としか言えないのは、その女子生徒もその兄も、あの件が障って変化した事柄はなかったと、望月は聞かされているからだ。

 保護者代表の一人で出席した中に高野の父親がおり、後にその時の事を息子に語った。

 学園に呼ばれた若者が、古谷家に妹と共に戻った時、望月の同級生の少女は目を真っ赤に腫らしていたと、知り合いの女にも聞いていた。

 視聴覚室から出て来た少女は、兄にしがみ付いたまま顔を伏せて泣いていたから、腫れているのは不思議ではなかったが、あれはもしかして、生物教師の暴言に耐えかねてではなく、兄の真顔での真実の暴露に耐えかねて、だったのかと思い当たった。

 望月が当時様子を聞いて顔を顰めたのを見て、昔馴染みの女が複雑そうな表情になったのも、恐らくはその泣いた原因を少女に訴えられていたせいだろう。

 本来ならば、その件は学園側に任されて、生物教師もその処罰を受ける事になるはずだったのに、なぜ今、精神科のお世話になっているのか。

 話を聞いて、同じように戸惑っている同窓生に苦笑しながら、高野は答えた。

「その夜、古谷家に宿泊していたあの人に、あの教師から電話があったそうだ」

「へ?」

「教師曰く、あなたの妹の仕出かした事を、写真に収めている。証拠として学園に提出しようと思っているのだが、その前にあなたとお話したいとの事で、家に誘われた」

 固まった面々を見回しながら、高野はことさらゆっくりと続ける。

「はねのける返事をしようとしたら、その前に、丁度訪ねて来ていた人が、あの人の声音で、行くと、返事をしてしまったんだそうだ」

「……」

 固まった同窓生の内、今は学園長として君臨している男が、呆然と呟いた。

「そうか。本当に、天誅が下っていたんだな……」

 その、若者の声を真似て返事をし、鉄槌を下した人物が誰なのか、この時は敢て追求しなかったが、彼らを知る面々には予想がついていた。

 それ相応の処分を教師が受けた事件を得て、理事長は今の学園を作り上げた。

 先代から徐々に増えていた監視カメラが、今は本当にプライベートな空間以外、無数に据えられている。

 人の目が余り要らなくなった昨今、このまま定数の教師が居座らなくなったら、逆に好都合と考えそうな理事長だった。

 友人だった男を学園長に据えた後、どんどん思い通りの学園像を作り上げる同窓の男は、殆ど見た目が変わらない望月を、これ幸いと極限までこき使ってくれる。

 迷惑な話だが、昔に比べると命の保証はあるから、ましだとも思っている。

 とりとめのない事を考えながら職員室に戻った、望月を迎えたのは、隣の席の女だった。

「お疲れさん」

 保健医のその女は、白衣と机の上に投げ出したまま、椅子に腰かけて教師を迎えた。

 見上げる女を見返して軽く挨拶を返し、教科書を机に置く。

 杉田百合すぎたゆりと名乗る小柄な女は、椅子の上で大きく体を伸ばしながら、何気ない問いを投げる。

「すぐに帰れるのか?」

「ああ。試験も終わったし、宿題も伝えてあるからな。後は、終業式までに今学期の授業の内容を、終わらせるように手を尽くすだけだ」

「ふうん。中等部の方も、もう卒業式は終わったんだったよな?」

 問われるままに答えていた望月が、ここで少し考えて頷いた。

「中等部の問題児たちが、今度はこっちに来る」

 望月は、クラスの隠れ問題児たちを、ついこの間送り出したばかりだ。

 それなのに、一月ほど後に本物の問題児たちを、迎える事になる。

「他校の中学の大沢おおさわって言ったっけ。あの子、就職するって? よく周りが許したよな」

「それだけ、決意が固かったんだろう。中卒で、後から苦労しないならいいが……」

 他界した父親の借金を肩代わりしてくれた松本まつもと建設で、早く一人前に役に立てるようになりたいと、大沢しのぶは常々言っていたそうだ。

 もし、後から高校に行きたくなったら援助すると、松本社長が力を入れて約束してくれたから、母親も渋々許したと聞いた。

 その大沢の就職先の社長の長男は、新年度から望月のクラスに来る。

 他の二人の問題児と共に。

「松本建設の倅は、扱いが難しいだけで、問題じゃないんだろ?」

「ああ。真面目だ。中等部の方の、柔道部の部長もしていたらしいし、ちゃんとその辺りの事は、分かっているはずだ」

 この学園に入学した生徒には、まずは生徒手帳の校則を読む事からが教育と教え込んでいるから、初等部の時から在籍している松本ごうは、弟と共に慎重な学園生活をしている。

「まあ、今度進学してくる問題児の抑えは、頑丈なのに流されやすいからなあ」

 にやにやしながら杉本は言い、話を別な方に向けた。

「朝の朝礼で言ってた転入生、中等部らしいぞ」

「そうか」

 何やら複雑そうな顔で、学園長がその話をしていたのを思い出しながら、望月は立ったまま生返事をし、帰り支度を始める。

 杉本も、帰り支度を始めながら続けた。

「ほら、少し前に人気になった、真倉まくらユメ。母親が、あの女だった」

 思わず手が止まり、女を見下ろすと杉本も望月を見上げていた。

「今度中学に上がる息子を、この機会に日本で学ばせたいんだってさ」

「帰国子女……ではないか。確か、英国の旦那と結婚して、子供も向こうで産み育てたとか……」

 どこで聞いたのかは思い出せないが、望月がそう口に乗せると、女はしんみりと言った。

「どうやら、その旦那が元々いた地に、根を下ろそうと思ったらしい」

「そう、か」

 英国の医者であったはずのその旦那が、こちらに住んでいた関係か。

 そう納得した望月だったが、ふと首を傾げた。

「ん? どこかで聞いた話だな……」

「……」

 まだ生徒としての興味がない時に、その事情を知るすべはまだない筈なのだがと、眉を寄せる国語教師を見上げながら、杉本は何故か溜息を吐いた。

「? どうした?」

「何でもない。それにしても、微妙な時期に来たもんだな。進学間近で、周囲も浮ついてる」

「それは、今年だけに限った事じゃない。毎年、この時期は浮ついている」

 妙な事を言い出した女に、望月は反論した。

 浮ついているのは、社会に出る者も同じだし、今年新任予定の教師も浮ついているだろうと、昔の自分を思い出しながら思う。

 本当に昔の話になって来たので、迎える側となった今では、マンネリ化しているようにしか感じないが。

 そんな事を言う教師に、保健医の女は首を振った。

「それが、今年は、それだけじゃなさそうなんだよ」

 言いにくそうに口にした情報は、望月も眉を顰める物だった。

「……この地に、妙な奴らが集まり始めているらしい。その中には別な地で、大量に行方不明者を出していると疑われている奴も含まれてるから、注意しろってさ」

「馬鹿な。そこまで目立つ奴を、この地の壁は弾かなかったのか?」

「そうなんだよ。最近、壁を広げたって話も聞いたから、大丈夫だと思ってたんだけど、入ってたね」

 杉本が何気なく妙な奴と呼ぶのは、妖しの類の事だ。

 杉本自身も狸なのだが、その力は限りなく弱い。

 二人に分かれているため余計に弱いのだが、日常生活には障らないし、二手に分かれているお蔭で、保健医をしながら別な場所で情報を集められると、この学園に勤め始める前に言っていた。

 困ったものだと嘆く女を見下ろしていた望月は、手を止めて自分の席の椅子に座る。

 見返す保健医を見据え、尋ねた。

「その妙な奴らと、接触しているのか?」

「……まさか。私は、そんなにうろちょろしてないよ」

 それは、知っている。

 だが、杉本が接触していなくても、疑いは晴れない。

 この女は保健医としてこの学園で働いているが、もう一人は日中街中をぶらついているのだ。

 それを口にする前に、保健医は明るく笑って見せた。

「大丈夫だよ。生徒を標的にするのだけは、避けさせるから」

「そんな事、お前たちにできるのか?」

 真顔の問いに、杉本が詰まって目を泳がせ、咳払いして返す。

「や、やって見せるから、お前は、暫く大人しくしてろよ。私たちが目を付けられるより、お前が狙われる方が、心配なんだからなっ」

「……」

 顔を曇らせる望月に頬を膨らませてしまいながら、女は立ち上がった。

「今日は少し遅くなるから、夕飯は適当に食べてくれ」

白銀しろがね

 今の呼び名で呼びかけられ、ここで呼ぶ名ではないと睨む杉本を見上げ、国語教師は真顔で言った。

「……生徒が無事終業式を迎えるまでは、気を抜くなよ。朝帰りは厳禁だ」

「え、そっちの心配か?」

 拍子抜けしながらも頷き、保健医が帰って行く背を見送ると、望月は深い溜息を吐いた。

 短めのやり取りで、知らない内に厄介な事になっているのが伺えた。

 先程の会話を思い出しながら、最悪な状態を予想する。

 望月にとっての最悪な事態は、この学園の生徒が巻き込まれる事態だ。

 杉田と名乗っている自分の連れは、生徒を標的にするのは、避けさせる方向で動いてくれると言ったが、力量を考えると安心できる太鼓判ではない。

 と言って、自分が動くのは、不味い相手のようだ。

「……」

 しばらく考え込んだ望月は、仕方ないと首を振って腰を上げた。

 まずは、話に出た転入生の情報を、学園長の口から、貰ってこよう。

 学園長の執務室に入った国語の教師が、血相を変えて職員室に戻り、珍しく慌てた様子で帰路についたのは、その十数分後だった。

 事態は学園内を軽く飛び越え、全く別な場所で火を噴く事になる。

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