第18話 壮馬の後悔

俺が初めて葵ちゃんと出会った日。

とても寒い中薄着で震えていた彼女を見た俺は何を思ったか彼女を自宅まで連れ込んでしまった。


翌日になり、俺が大学から帰ってくると葵ちゃんはとても焦っていた。

話を聞けば妹がいて、今まで自分だけが虐待の対象だったのに自分が家を出てきてしまったせいで妹が虐待されるかもしれないというものだった。

しかも妹はまだ小学生。大人が振るう暴力など到底耐えられるものではないだろう。


―――目の前にいる少女はひどく焦っていた。


「あなたはどうして私を助けてくれたんですか?」


難しい質問だ。確かに俺は今まで困っている人がいても放っておいたし、これからもそうするつもりでいた。そうしないとつらい過去を思い出してしまいそうだったから。

でも、目の前の少女はただその場で助けを乞うだけの人間とは違っていた。


そもそも他人の助けなど期待していないかのような素振り。

希望のない暗く濁りきった瞳。その表情がどこか昔の俺を彷彿とさせた。

このまま少女を放っておくとこの世から消えてしまいそうだった。

しかも何度か見かけたのだからたちが悪い。まだ若いのだから希望はある。

厚かましいけどそんなことを教えてあげたいと思った。


「……君が昔の俺にそっくりな雰囲気を纏っていたから」

「もう一つだけ。これは私からの提案です」


嫌な予感がする。

でもそれは……それを許してしまうと少女の心は確実に壊れてしまう。

せっかくスタートラインに連れ出せたんだ。

また元の虐待される日々に戻るなんて……希望をちらつかせてから絶望に足を踏み入れるなんてそんなの耐えれるわけがない。


「やっぱり私は家に帰ります。今までありがとうございました。そして、ごめんなさい変な人だなんて言って」

「待ってくれ! まだ俺からの提案を話していない」


少女の顔には焦りの表情が色濃く映る。

いいのか? このまま見殺しにして。助けてあげる素振りをみせながら、地に突き落とすような真似をして。それじゃあまるであの時のあいつらじゃないか。

俺はあいつらとは違う。ここまで来たなら、これだけ関わってしまったのなら責任を持って少女を幸せにして見せる。


ふと、今日の授業で教授が言っていたことを思い出す。

それは強いトラウマやストレスなどを患っている人間に対して暗示をかけることで治療を促すという暗示療法の話だった。


暗示には主に運動支配・感情支配・記憶支配という3種類があるらしい。

記憶支配で妹のことを忘れてもらい、葵ちゃんの精神状態が良くなってから妹を助けに行く。


幸か不幸か俺は大学で心理学を専攻していた。

暗示をかけれるかどうかは別として試してみる価値はある。

そう思った俺は立ち上がり、教科書を手にした。

日常生活で使うことなんてない机上の空論とばかり考えていたがこんなところで使うことになるなんて。やっぱり大学での学びは実用的だ。


いきなり立ち上がり本を持ってきた俺を少女は不思議そうな目で見る。


「これは俺からの提案だ。今から君に暗示をかける。そして妹のことをすべて忘れてもらう。そうして君が他人が感じれきれないくらいの幸福感を感じたとき妹の存在を思い出す。それから妹を救出するんだ」

「いやぁ!! やめて! それだけは……そんなことをしたら私は小春のことを!!」


俺の言葉を聞き、少女は泣き叫ぶ。顔色はどんどん悪くなっていくばかりだ。

それでも。彼女たちを救わなければ。


「ごめん。葵ちゃん。俺はつくづく最低な男だ」


この提案を思いついた自分に嫌気がさす。家族の存在を忘れさせる? 

しかも妹は彼女にとって一番大切な存在なのだろう。

俺はそんな宝物を隠してまで彼女を救おうというのだ。偽善も甚だしい。

結局は他人を助けるだけの力を持ちあわせていなかった。

できないとわかっていながらも希望をちらつかせてしまう。


俺が人助けをしない理由の1つ。

解決できるだけの力を持っていないのに中途半端にかかわるだけ関わって結局は相手を傷つけてしまう。

中途半端な善意が一番嫌いなはずなのに俺は……


自分に対する怒りを抑えるために唇をかみ切りながら教科書の通りに暗示をかけていく。


"君には妹なんていない。この暗示を解く鍵は他の人が感じきれないくらいの幸せだ"


同じような表現を紡いでいくうちに次第にうつろな目をし始める。

それから少女は眠りに落ちてしまった。

俺はそんな少女を抱きかかえ布団に連れていく。


いまだ成功したかどうかの確証はない。

けれど、今はただ葵ちゃんに寄り添ってあげなければ。

俺はこの先罪悪感に押しつぶされないだろうか。



――目を開けると家とは違った天井。ここが旅館であることを思い出す。

時刻は0時を回った。あれから2時間程経つが葵ちゃんは依然として起きる気配がない。

当初の予定では明日……いやもうすでに今日か。

今日の午前中まで滞在できることになっていた。

朝になり葵ちゃんが無事に目覚めたとして数kmの道のりを歩き電車に揺られることに耐えられるか?


いや、そもそも妹の存在を思い出してしまえばどんな精神状態になるかわからない。

改めてなんて危険な賭けをしたのかと彼女にかかる負担を考えなかった自分を殴りたい衝動に駆られる。


やはりここは女将さんに言っておくべきか。でももう0時を回っている。

とりあえず明日の朝様子を見てから判断するか。


激しい後悔に苛まれた俺は言うまでもなく寝付けなかった……

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る