春なんだし

夕目 紅(ゆうめ こう)

春なんだし

「ねえ、聞いてる?」

「え?」


 ぼんやりとしたまどろみの奥底から意識を拾い上げると、新ちゃんがあたしの顔をぐっと覗き込んでいた。長い睫毛が春の風を浴びてふわり。その距離僅か5センチ。瞬きを二度繰り返したところで頬が紅潮して、あたしは思わず新ちゃんを強く突き飛ばしていた。


「うわっ」

「ご、ごめん。大丈夫?」

「……いてえ。少しは手加減しろよ」


 通学路にはまだ凍り付いた雪が残り、今年の冬がどれだけ寒かったかを思い知らされる。現にもう四月だというのにコートとマフラーを手放すことが出来ず、革靴が膨張する程に分厚いソックスを履き、それでも時折身を震わせるぐらい指先が微かにかじかむ。

 前を行く同校の女生徒が――それが果たして今年の新入生なのかどうかはわからない――短く折り畳んだスカートからすらりとしたふくらはぎを覗かせているのを見ると、許しを請うまで何重にもストッキングを履かせたいという衝動に駆られる。新手の変質者か。

 友人からはよく「震えたがり」「北国に生まれるべきではなかった」「赤道に近づけ」等々言われもするのだが、寒いものは寒いのだから仕方がない。

 道路脇に積み上げられた雪山にずっぽりと片足を埋め込んだ新ちゃんにそっと手を差し伸べると、ふわりと小さな桜の花びらが舞って、ようやく少しだけ「ああ、春なんだな」と思った。

 春だ。

 一緒に通学路を歩くこの中にきっと新入生がいる。

 あたしは高校二年生から高校三年生になった訳で。

 それはつまり――。


「最近よくぼーっとしてるよな。そんなんで受験大丈夫か?」


 頭から掻き消そうとして無情にも浮かび上がったその二文字。

 去年の秋頃から飛び交い始めたそれはあたしにとって第二のインフルエンザウイルスのようなもので、途端に激しい倦怠感と抑うつに苛まれるのだった。


「……それ、嫌い」

「どれ? ぼーっと?」

「違う」

「そんなんで?」

「その後」

「大丈夫か?」

「……」


 新ちゃんがニヤついた笑みを浮かべるのを見て、あたしは握られかけた手をそっと引っ込めた。躊躇いもなく踵を返し、また足早に通学路を歩き出す。唇を噛むと、痛みが不快感を滲ませた。

 第二のインフルエンザは実に強力である。進学の二文字が絶対ではなかった時代はそれ程猛威を振るっていなかったようだが、今では全国の高校生の九割以上が必ず感染するそうだ。それが冬だけに飽き足らず、二年の秋から三年の冬まで一年以上続く。人によっては入学式する前から感染する子もいるらしい。

 おまけに感染力が非常に高い。ついこの間まで一緒にカラオケへ行ったりプリクラを撮ったりしていた友人達は気付けば「ごめん、塾があるから」とか「模試が近いから」とか熱に浮かされたように呟き、「受験っていってもまだ来年じゃん」と言うと可哀想な眼差しで見つめてくるのだから堪ったものじゃない。

 結果、残ったのは病の予兆に敏感に反応し懸命に予防を続けてきたあたしと、バカは風邪をひかないを能天気に証明し続ける新ちゃんだけ。

 そんなバカが慌てて駆け寄って来て、足元に付着した雪を払いながら「怒んなよー!」と肩を小突いてきても、あたしの心は晴れるはずもない訳で。


「……何だかなあ」


 天を仰いでも曇天。俯いても汚れたアスファルト。

 去年まで溶け込んでいたはずの騒々しさから弾き出され、耳がキーンと痛くなる。


「……本当に春なんだか」

「春だろ。梅も咲いてるし、桜散りそうだし」

「……うるさい、バカ」

「いや、バカはお前だろ。どう見たって春じゃん?」

「そういう意味じゃないの」

「じゃあどういう意味?」


 もういい、という言葉の代わりにため息をついて歩く速度をあげても、バカはずっとついてくる。無駄に長い足の歩幅が変わっただけで、歩数そのものは変わらない。コツコツとのんびりした足取りが鳴る。コツコツコツコツ。あたしの足音は自分でも驚くほどせかせかしていて、何だか……バカみたいだ。


「まあ、なんだ。ようはあれだろ? 受験ノイローゼ、的な?」

「……」

「いや逆か。受験ノイローゼは受験頑張り過ぎちゃった人がなるもんだもんな。美夏の場合、アンチ受験ノイローゼか」

「黙れ。無理して横文字喋るな」

「どう? 前澤に似てる?」


 学年一の理屈屋の名前をあげ得意げに微笑む彼を、あたしは真剣な眼差しで見つめた。


「ねえ、お願い、新ちゃん」

「ん?」

「無理に頭使わないで。ずっとバカでいて」

「難しいことを言うな」


 バカでいることは難しいことなんだろうか。いや、確かに意図的にバカを演じ続けることは意外に難しいことかもしれない。ずっと天才を演じ続けることが難しいように。


「じゃあ勉強して。もっと賢くなって。空気読んで」

「たるい。だるい。空気は読んでるつもり」

「本当かなあ」

「本当だなあ」

「何だかなあ」


 あたしの心はいつもそこに帰ってきてしまう。

 そう思うと途端に全身から力が抜けていった。泥沼を歩くような速度に、それでもやっぱり新ちゃんは歩幅を合わせてくる。与えられたその器用さが、時々凄く、恨めしい。


「でもまあ仕様がないだろ」

「何が」

「受験」


 耳を塞ぐための両手は、しかし通学鞄に占領されていて身動きが取れない。


「誰だって分かってたことじゃん?」

「だから何が」

「じゅ――」

「その言葉禁止」

「……つまりこの時期になれば謎の勉強トレーニングに勤しまなければならないってことが」

「謎過ぎる」

「かもな。でもその禁止用語を一度も聞かずに生きることは不可能に近いし、それがいつか自分の身に降りかかることもさすがに分かるわけじゃん」

「何で?」

「だって中三の時に既に一度経験してるだろ」

「中学の時は何もしなかった」

「そうかい。だからお前は俺と同じ高校にいるわけだな」


 確かに高校入学当初、中学の頃から不良でそこそこで有名だった新ちゃんと同じ学校に通うと分かった日にはショックで三日程寝込みそうになった。けど、同じ母校を持つ者として何度か話すうちに、頭は悪いかもしれないけど人間としては悪いヤツじゃないらしいということは分かった。頭はとことん悪いかもしれないけど。うん。

 だから。


「別に、それはいい」

「そうか、それならよかった」

「何が」

「さあな」

「自分のこともわからんのか」

「人間というのは神秘に満ち満ちている」


 まだ校門は随分と遠くにあって、通学路を並走する線路の上を列車が高速で駆け抜けていった。その激しい風が通り過ぎるのを待って、あたしはぽつりと呟いた。


「……分かっていることと、受け止められることは別じゃん」


 呼吸が熱を帯びて、ほんの微かに白く息づく。


「中学の時は初めてだったし、今よりももっと子どもだったし、そういうもんだからって言い聞かせてたよ。親も先生もそう言ってたし、講演で来たどっかの偉い人も受験するのが当然って言い方だったから」


 それは本当にただの独り言で、別段答えは求めていなかったけれど。

「まあな」と新ちゃんは返して垂れそうになった鼻水をすすった。


「疑問を持つ方が変わってる」

「分かってるよ。でも今回もそうしちゃったら、それでどっかの大学入って四年が過ぎて就職する時もそうなんだろうなって。きっと就職した後もそうなっちゃうんだろうなって思ったら、何か怖くて……」

「ふうん」

「あるじゃん、そういうの。子どもの頃から当然だと思ってたことが、疑っちゃいけないと言い聞かせてたことがずっと心のどこかに引っかかって、息が苦しくて」


 不意に、脳裏に先週国語の授業で教わった古典の一文が浮かび上がった。

 ――泡雪の水際ばかり光りけり。

 そんな風に、吹いたら泡のように消し飛んでしまう雪ならよかったのに。

 あたしを囲む現実はずっしりと重くて、灰色に淀んで、呼吸すらままならなくて。


 これ以上積み重なったら生きていけないような、そんな気がした。


「……ああ、そっか」


 急に涙が込み上げてきて、ようやく触れられた心の一端が心許なく揺れる心地がした。


「どうした?」


 突然黙りこくったあたしを心配そうに――今度は少し距離を置いて――覗き込む新ちゃんから顔を背けて、あたしは目尻をそっと拭った。


「何でも。人間って神秘に満ち満ちてるなって思っただけ」

「だろー?」


 今日までずっと、何も出来ないと、抗うことなんて出来ないと決めつけていた。

 でも心が決めたことなら、それはどんなことだって行動なんだ。


「ねえ、新ちゃん。あたし、決めたよ」

「ん?」

「あたし、勉強しない!」


 右手を高らかに掲げて宣誓する様をぽかんと見つめて、新ちゃんは瞬きを何度かパチクリ。シャッターのように繰り返されるその先、焦げ茶色の瞳に映るあたしは、不敵に微笑んでみせる。


「どうせ役に立たないし!」

「……いやまあ、そりゃあ好きにしたらいいだろうけど。てか大丈夫か? モアイがそこから睨んでるぞ」


 担当教師――顔が驚く程真四角なので通称モアイ――にもあたしの誓いは届いていたようだが、気にすることはない。

 モアイがあたしの代わりに生きてくれる訳じゃない。

 親も先生も、進学塾の偉い人だってそう。

 ワクチン接種して予防する人もいれば、そんなことしなくても感染しない人もいる。

 でもあたしの免疫能力では、第二のインフルエンザは誇張でも何でもなく、死に至る病なのだ。だったら逃げ出したところで何も悪いことなんてない。

 そう思うと全身がぽかぽかと温かくなってきて、今まで知覚することの出来なかった世界の息吹を感じた。梅の花の匂いとか、桜が渦を巻いて浮かぶ様とか、小さな川面の煌きとか、新緑の瑞々しい青さとか。


「どうでもいいよ、そんなの。だってさ」


 軽くなった心がふわりと舞って、心にもう一度季節を刻む。

 相変わらず空気は凍えるように冷たいけれど、でも、そう。


「春なんだし」

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春なんだし 夕目 紅(ゆうめ こう) @YuumeKou

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