七章二話:兄弟と姉弟



 間違いなく、これまでの十八年の人生で最悪の目覚めだった。

 堅志はベッドの上に投げ出した腕を折りたたみ、頭まで毛布を被る。ドアの向こうから聞こえる声を聞きたくなかった。

「堅志、いい加減に起きて朝飯食ってくれ。テーブルの上が片付かないって母さんがイライラしてる」

 弟の声である。一体どの面下げて、こんな呑気なやり取りをしているのだろうか。

「おい堅志……」

「分かったよ! 食えばいいんだろ⁈」

 扉を開けて怒鳴りつけてやると、そこには北雷のジャージが壁のように立っている。

「ああ、それでいい」

 彼を見下ろす目には、何の意思も温度もない。困惑と苛立ちを抱えてリビングに出ると、誰もいなかった。嘘をつかれたことに気がつき、眉をひそめる彼の後ろに神嶋が立つ。

「お前が家を出る前に、せめて一度でいいから腹を割って話したい。そうでもしないと、俺達兄弟は一生前に進めない」

「何だよ、それ。嘘ついてまでやることか?」

「少なくとも、今の俺にとっては」

「ふざけんな。お前に話すことなんて一つも無い。顔も見たくねえってのにこんな真似しやがって!」

 声を荒げても無駄なのは分かっていた。彼の弟は並大抵のことでは動じない。腕を組み、堅志を見下ろす。

「俺達は兄弟で、同じ家で暮らしているんだから、全く顔を見ないなんて不可能だろ。それに、今は良くてもこの先このままじゃ絶対に困る。だけどお前は三月中にはリノセの寮に移ってしまうから、話すなら今しかない」

「あのなあ……!」

「あと十五分したら俺も出る。昼飯は部活のヤツらと食うし、その後どこかで遊ぶから夕方まで帰らない。夕方には親も戻って来る。二人だけで、誰の邪魔も入らずに思ってること言い合えるのは今だけだ」

 元々口で勝てる相手ではない。堅志は黙り込む。

「頼むよ」

 そう頼み込む弟の目には、久しく見なかった縋るような色があった。それがまだ兄弟が兄弟らしく機能していた頃に見た色だと堅志が気がつくのは、数時間後のことである。

「……何なんだよ、お前。妙にすっきりしたようなツラしてると思ったら、今度はそんなツラしやがって。昨日の晩飯のマグロは美味かっただろ、良かったな!」

「お前、俺のことどう思ってる?」

 会話のキャッチボール。

 ふと小学校時代の記憶が蘇る。キャッチボールが成立しないってこういうことかと、堅志は半ば呆れ、ついでに呆れた。椅子に座ってから、思っていることを全てぶつけてやる。

「どうって、普通に嫌いだけど。色々持ってて恵まれてるくせに、それを分かってないところが死ぬほど嫌い。あと親父とそっくりなそのツラが嫌。お前は? オレのことどう思ってんの?」

「兄貴」

 続きを待って口を閉じていたが、本当にその一言で完結してしまった。思わず問い返す。

「それだけ?」

「一昨日の夜に聞いてくれていたら色々言ってやれた。恨みも文句も、いくらでも」

 それから弟は向かいの椅子に腰を下ろし、二人は食卓を挟んで向き合った。東向きの窓越しに差し込む冬の太陽が眩しい。

「一回勝てたからどうでもよくなった。そういうのを全部抜くと、結局お前は俺の兄弟でしかない。兄貴以外の何者でもない」

「なら何のためにこんなことしてるんだよ」

「お前の本心が知りたかった。俺のことをどう思っているのか、どうしたいのか、お前は口にしない。だから嘘を吐いた。嘘を吐いたとしても、知る価値があると思った」

「……ああ、そう」

 昨日の勝利は、彼の弟に劇的な変化を与えた。これまで年中険しかった目つきがいくらか和らぎ、余裕をもたらし、一晩で別人のような雰囲気に変わっている。前に変貌したときも変わるのは一瞬だったから、戻るのもまたそうだということなのだろうか。

 堅志は身体の向きを変え、弟に向かって言い放った。

「さっさと出掛けなよ。今日はもうその顔見たくねえから」

「最後に一ついいか?」

「何?」

「俺は北雷のヤツらを最高の仲間だと思ってる。でも、今の俺があるのはお前がいたからだ。俺はお前に憧れて、その横に立ちたくて、バレーを始めた。バレー自体も楽しかったけど、それと同じくらいお前の横に立つ資格が欲しかった。良くも悪くもきっかけはお前で、俺に誰より影響を与えたのはお前だ。その点に関しては認めている。まあ、回り回ってこじらせたがな」

「あのさ、オレはオレでお前のこと嫌いだからね? 何でも持ってるのに、何でも与えられるのに、それを蹴って違うところに行って、そこで結果を残すお前のしぶとさが嫌い。ムカつく」

「知ってるよ」

「正直、もう兄弟仲良くなんて無理だと思ってる。こうなったオレ達にそんな選択肢はないよ。今さら、そんなバカみたいなことできない」

 本心からの言葉だった。弟にもそれが伝わっているようで、彼も深々と頷く。

「海堂が、俺達がこうなったのは、兄弟だからじゃないのかと言っていた。俺達は元々相性が悪い人間で、偶然兄弟として生まれたからこんな面倒なことになっているんじゃないか。これがもしただの他人だったら、関わりを持たないで生きることもできた。でも兄弟だとそうはいかないと」

「あの子、あの顔でそんなこと言うんだ」

「俺は海堂にそう言われて救われた。こう考えると納得できるから、しばらくはこう考えることにする。お前はどうする?」

 神嶋はそこで席を立つ。そろそろ時間が迫っていた。県大会優勝翌日に主将が遅刻などしていては周りに示しがつかない。堅志は顔を背けたまま楽しそうに答えた。

「家を出たら、クソ弟のことなんて忘れて自由にやる。お前に会うのは、親戚の結婚式か葬式くらいの距離感で生きる。一応、お前の葬式か結婚式には愛想良くしながら出てやるよ」

「何で葬式の方が先なんだ。俺とお前なら、生まれた順から言ってお前の方が早く死ぬだろ」

「何となく。感じ悪くしてやろうと思って」

 その答えを鼻で笑い、神嶋はリビングを去った。堅志は首を回してため息をつき、それから箸を手に取る。まずは朝食を済ませないことには、何も始まらない。



 同じ頃、羽村家の二階ではすっかり荒れている保多嘉と、呆れる誉がいた。

「ねえ、今日部活あるの分かってるよね?」

 誉が声をかけた保多嘉は、布団に突っ伏している。その背中を誉が数回叩いた。

「分かってる」

「いつまで布団にいるの? さっさと出ておいでよ」

 布団の端から保多嘉の足がはみ出している。上下スウェット姿の誉は、何もかもを諦めて片割れの横に腰を下ろす。そこでスマートフォンを触り始めた。

「うるせえな。テメエこそダル着から着替えろよ。俺はもうジャージに着替えてっからいいんだよ」

「髪の毛が鳥の巣みたいだし、いつものロードワークやってないけど、それはいいの?」

「だから……」

「そんなに納得いかない?」

「はぁ?」

「緋欧の主将になることが、そんなに嫌なのかって聞いてるの」

 保多嘉は何も言わなくなる。枕に顔を突っ込み、小さく呻いた。



「春高が終わった後、主将は保多嘉に任せる。副主将は滝根。ま、誉と三人で上手くやって~」

 堅志は、昨日の帰り道で唐突にそう言った。保多嘉と並んで聞いていた誉も、一緒にいた滝根も驚いて顔を見合わせる。

「お、俺が主将ですか⁈」

「そうだよ。他に保多嘉って名前のヤツいないじゃん。え、いないよね?」

「いや、そうじゃなくて俺にやらせていいんですか?」

 保多嘉はすっかり混乱していた。それを見ている堅志は軽い口調で頷く。

「うん。監督と和也と話し合って決めた。この決定はもう変わらない」

「あの……、すいません、理由を聞いてもいいですか?」

「あ~、何でだっけ。忘れた」

 突然話を振られた片岡だったが、こちらの話も聞いていたらしい。困惑する様子もなく淡々と答えを与える。

「お前は、堅志がユースでいないとき、よく俺を手伝ったよな。癖の強い三年が相手でも、アイツらが俺の言うことを聞かないときは何とかしようとした。しかも一、二年をまとめて面倒を見てたこともあった。誉と一緒になって、提出物なんかを回収してくれただろ」

「だって、あの人数の分をコイツが一人で回収するのは無理じゃないですか」

「そういう面倒見の良さも含めての決定だ。誰よりも向上心と技術と経験があり、面倒見が良い。これ以上に主将に相応しいヤツはいない。お前なら、俺達は後のことを安心して任せられる」

 片岡の返事はそれだけ。堅志も何も言わない。納得ずくのことだと言わんばかりに、彼らは唇の両端を持ち上げる。

「誉、滝根、保多嘉を頼むよ。三人で上手くやってね」

「来年は他の連中を押さえつけて、絶対に第一代表になれよ」

 二人に託されたものの大きさを保多嘉が自覚したのは、その日の夜のことだった。

 

 

「結局、俺はお前のためになんかなってない。証明もできてない。このまま行くと、俺はあの人に勝てない。やるって決めたこともできないようなヤツが、緋欧のトップになんかなれるかよ」

「何言ってるの」

「あ?」

「まだ春高がある。今回の試合で監督は保多嘉の評価を改めた。みんなの見る目も少し変わるはず。きっと、もう誰も爆弾なんて呼ばない。それにぶっちゃけると、目標の達成なんてもう誰も気にしない」

「……周りの評価はどうでもいい。俺は証明したいんだよ。お前のやり方が正しかったんだって」

「それはもういいって」

「まさかアイツらを許すのか⁈」

 保多嘉は布団から飛び起き、誉の両肩を掴んだ。勢いのあまり、肩に引っかかっていたカーテンが揺れる。

「お前の腕に嫉妬して、あんな嫌がらせをした連中を許すってことか? お前は何も悪くないのに?」

「そんなこと言ってない」

 誉は即座に言い返し、それから目を伏せた。

「許さないけど、保多嘉がやるべきなのは保多嘉のバレーだと思ってるよ。私のバレーは、形はどうあれもう終わった。納得してる。それぞれ、向き合うべきものがある。だから、ちゃんと主将候補として、部活と部員と向き合わないと」

「じゃあお前の向き合うべきものって何?」

 保多嘉は再び不貞腐れて布団にうつ伏せになる。コート外では単純な思考回路で生活している彼にとって、その問いは少し難しかった。ところが、そんな問いを与えた本人は実に晴れやかに言う。

「具体的には全く分からないけど、きっと何かあるよ」

「ふざけんな、俺にはそんな難しい注文つけといて肝心のお前は分からねえのかよ」

「強いて言うなら、先輩達から託されたものじゃないのかな。私は先輩達も、緋欧のバレーも好きだから、大事にしたい」

 想定外の返事に、保多嘉の反応が遅れた。誉とそっくり同じ形の双眸を見開き、それから思い出したように声を出す。

「それは、俺が任されてんだろ」

「一人で背負うには重そうでしょ? 私と滝根と、三人で分担したらそこそこ軽くなると思わない?」

「……そんなに背負いてえなら、喜んで背負わせてやる。こればっかりは女だからって軽くしてやれねえから、後で文句言うなよ」

「ありがとう」

 俺のセリフ取ってんじゃねえよと言おうとして口を閉ざす。片割れとは言え、万が一にも情けない声など聞かれたくはなかった。






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