七章 きょうだい
七章一話:兄妹
着替えを終え、ロッカールームから出た神嶋の前にはスマートフォンで何か打ち込む海堂がいた。神嶋を見ると画面から目線を上げ、スマートフォンを上着のポケットに入れる。その間に、神嶋は海堂と並んでロッカールームの扉の正面に立つ。
「お疲れ様でした」
「本当に疲れた」
珍しく天を仰ぎ、目を細める神嶋を見て海堂は小さく笑っていた。
「疲れない方がおかしいですよ」
「だけど……」
息を吐いた彼の横顔を、海堂は無言で見つめる。荒れた神嶋の唇の片端に角度がつく。
「すっきりした。憑きものが落ちた気分だ。お前から見るとどう見える?」
「そうですね、確かにすっきりしたような顔はしていると思います。これまでの追い詰められている感じは減ったかもしれません。友達も増えるんじゃありませんか?」
辛口なコメントを受け、神嶋は思わず海堂の顔を見た。海堂は一人で楽しそうに肩を揺らしている。勝利できたのはやはり嬉しいようで、アナリスト様はご機嫌だった。今にも歌い出しそうな雰囲気である。同じクラスの火野達に言わせると海堂は音痴らしく、音楽の実技試験では醜態を晒した上に教師にため息をつかれたとのこと。その酷い腕前に多少興味があったが、さすがにこの場では歌い出さないようだった。
横に立つ海堂の肩を見下ろしていると、ふと彼を見上げる。
「私は神嶋さんを救えましたか?」
「ああ、救われたよ。お前のおかげだ」
「よかったです」
今日は愛想が良いようで、普段よりいくらかマシな人相で笑っていた。気分を害したら悪いと思いながらも、心の底に残る感情を吐き出す。今さらこの後輩相手に、遠慮も恥もあったものではない。
「でも、あのバカとはやっぱり上手くやれる自信がない。全部に折り合いをつけられた訳じゃない気がしている」
「いいと思いますよ、それでも」
意外な返答だった。横に立つ海堂は彼の目を見て続ける。
「これは親が言っていたんですけど、どうしても関わりたくない人っているんだそうです。神嶋さんの場合はきっと、偶然それが兄弟だったってだけなんですよ。兄弟と関わらないようにするのは難しいから、こじらせて辛かったんじゃないと思うんです。もし私の仮説が正解なら、可能な限り距離を置くのが良いと思います。兄弟ですから、色んな意味で難しいとは思いますけど」
神嶋は即答できなかった。ややあって素直な感想を口にする。
「また救われた。お前はすごいな」
「神嶋さんは恩人です。こんなものじゃ恩返しにもなりません。春高でもっと結果を出して、神嶋さん達が卒業しても良い結果を出し続けて、北雷の名前を日本中に轟かせて、それでやっと釣り合いが取れます」
強気な言葉はいつもの海堂そのものである。聞き慣れた内容は、普通なら冗談かと笑うようなことだが、神嶋は笑わない。海堂ならやり遂げてしまうような気がしていた。
「そうか」
「楽しみにしていてください。海堂聖の名前に誓って、北雷の名に泥を塗るような真似はしません」
「頼むぞ」
「はい」
そう返された途端、二人の目の前の扉が開いた。
「腹減った! 途中で何か食ってから帰ろうぜ!」
「そう言えば、横須賀の駅前にピザ屋できたよね」
「やだよ。ピザなんて腹に溜まらないじゃん。違うのにしよう」
「じゃあ代替案出せよ」
「コスパ悪いかもだけど回転寿司とか?」
最初に出て来たのは一年生だった。空腹をどう満たすかで頭が一杯なようで、何を食べるかという話で大騒ぎしている。その後を追うように、今度は二年生が出て来る。
「お前ら、はしゃぎすぎて怪我するなよ! 春高本選出られなくても知らねえからな!」
「あ~、疲れた。歩きたくないから誰か背負って~」
「誰も一八十センチオーバーの男なんて背負えないぞ」
「一年は外で食ってくみたいだけど、俺らはどうする?」
「これだけ動いたんだから、もう何食っても足りねえって」
合わせて十五人にも満たない集団だというのに、廊下に声と足音が反響して余計に騒がしい。最後に出て来た設楽が神嶋の肩を叩く。
「直志、よく頑張ったな」
「はい」
神嶋、設楽、海堂の三人も足並みを揃えて、前を行く背中を追う。設楽は歩きながら思い出したように言葉を重ねた。
「どこの誰が何と言おうと、ここはお前のいるべき場所だと思う。お前がいなくちゃこのチームは始まらなかった訳だしな。聖が言ったように、俺からも感謝したい。お前がいたから、俺もまたバレーボールに関われた」
「そんなことは……。監督なら、いずれ誰かが然るべきところに引きずり出したでしょう」
海堂は何も言わなかったが、内心で神嶋の意見に賛同する。設楽という男の経歴を考えれば、誰もが放っておくはずはないのだ。無名校の監督をやらせるには、その過去はあまりに鮮やか過ぎる。
「そうかもな。でも、今の俺にとっちゃ、ここが然るべきところだよ。名門校でもなく、プロリーグの強豪チームでもなく、一人の頑固者が血反吐を吐くような思いで作り上げた、愉快で面白いチームが」
神嶋は何も言わず、ただ設楽の目を見つめた。堅志達の世代の多くは、設楽の背中を追ってバレーボールの世界に飛び込んでいる。多くの少年少女を駆り立てた偉大な男の手が、今度は神嶋の背中を軽く叩いた。
「お前が諦めなかったから、こんなに面白いチームができた。俺は北雷のバレーボールが好きだよ。だけど、またバレーボールが好きだと思えたのは直志のおかげだ。本当にありがとう」
すぐに何か言おうとした神嶋だったが、声が詰まって何も言えない。その年相応な表情を見て、設楽はこの上なく嬉しげだった。
帰宅した海堂を迎えたのは吟介だった。リビングでコーヒーの入ったマグカップを片手にテレビを見ていたが、海堂の姿を見るとテレビを消す。
「聖、県大会優勝おめでとう」
吟介は、海堂にそう声をかけた。すると珍しく妹が満面の笑みを見せる。
「ありがとう、兄さん」
「ちょっと変わったな」
「そう?」
「そんな笑い方、小さい頃にしか見なかった。お前は覚えてないだろうけどな」
ぽかんとした海堂の頭を撫でてから問う。
「昼飯は食ったんだよな?」
「うん。みんなで食べて、ボーリング行って帰って来た」
「ボーリングか。何気に人生初だろ。どうだった?」
「面白かったけど難しかった。一年の中だと私が一番下手だった」
それを聞いた吟介は苦笑いし、ソファーから立ち上がった。
「出掛けようか。家には俺達だけだし、優勝祝いに何か食べに行こう」
「やった。準備して来る」
階段を下る妹の背中を、彼は静かに見送った。
それから二十分後、二人は近くのバス停に向かって歩いていた。雨はとうに止んでいた。雨のおかげでここ数日酷かった乾燥が随分マシになっている。風は冷たいが、湿気を含んでいるせいか冷たさはいくらか和らいでいるように思えた。まだ日差しは復活していない。今日は太陽を拝めないのだろうかと思いながら、海堂は歩いていた。
「なあ聖、謝らせてくれ」
人の少ない住宅街で、吟介は突然そう言う。
「何を?」
難しい顔の吟介を見て、海堂は首を傾げた。兄の珍しい表情に驚いているのか、瞬きの回数が増える。
「お前が怪我をしたときのことだ。ろくに見舞いにも行かなかった」
「仕事でしょ? 謝るようなことじゃないと思うけど」
「違う。行けなかったんじゃなくて、行かなかったんだ。自分の意志で、行かないことを選んだ。確かに仕事はあったし、俺には俺の生活があったけど、行こうと思えば行けた。でも、行かなかった」
海堂は何も言わず、目を合わせようとする。もう兄妹の間に大した身長差は無いはずなのに、不思議なほど目が合わない。それが無性に寂しく思えた。
「謝っても仕方ないし俺の自己満足だけど、謝らせてほしかった」
「ついでに理由も聞いていい?」
答えが与えられるまでに少し時間がかかる。海堂が足下の濡れた葉を踏みしめた直後、掠れた声が聞こえた。
「怖かった。変わり果てたお前を見るのも、向き合うのも。何もかもを失ったお前に、何を言えばいいのか分からなかった。何も失っていない俺が横にいても、恨まれるだけだと思った。お前に恨まれたくなかった」
兄はそう言い切ってから、
「すまなかった」
と続ける。数年越しに与えられた想定外の真実に、海堂は思わず下唇を噛み締めた。知って気分が良くなるような理由ではないと覚悟していたが、実際に知るとどう反応すればいいか分からない。しばらく悩んで、それからようやく口を開いた。
「ずっと来てほしかった」
数年前に思っていたことを、初めて言葉にした。足を止め、その場で思ったことを躊躇わず言葉に変える。そうでもしないと、進めない気がしていた。
「学校の先生とか監督とかも私のところに来たけど、お父さんとお母さんの次に来てほしかったのは兄さんだった。ずっと待ってた。一番苦しいときに一番一緒にいてほしかった。どうして来てくれないのって思ったこともある。でも困らせたくなかったから何も言わなかった」
恐る恐る目線をずらすと、ようやく兄の目が見える。罪悪感と自身への失望で塗り潰された目をしていた。
「でもいいの、兄さん。もういいの」
「俺に気を遣ってるのか?」
「それだけは違う」
語気が勝手に強くなる。兄を傷つけたかった訳ではない。かと言って、本心を隠し続けたまま生きていきたい訳でもなかった。言うなら今しかないという確信に従い、海堂は自分の口を止めない。
「あのときは築いたもの全部奪われた、私が世界で一番不幸だと思ってた。だけどそれは間違ってた。本当に全部無くしたのなら、アナリストなんてできなかったし、夢だって何一つ持てなかった。本当に不幸だったのなら、北雷のみんなには出会えなかった」
もう一度兄と目線を合わせる。どんな言葉より、目の方が余程物を語ることをこの数ヶ月で嫌と言うほど学んでいた。
「今は真逆で、私は新しいものを築いているし、兄さんは私に向き合ってくれてる。今が一番たくさんのものを持っていて、一番幸せだと思ってる。だから安心して、そんな顔しないで、まずは褒めてよ。だって私、神奈川の赤い王者を倒したんだから」
雨雲の裂け目から差した西日を浴びる妹の顔は、いつの間にか随分と大人びていた。その変化を素直に喜べぬ己を情けなく思いながら、吟介は頭に手を乗せる。
「強くなったな。お前は自慢の妹だよ。聖、優勝おめでとう」
「ありがとう」
海堂は、僅かに溢した涙を、兄に悟られぬよう拭う方法を考えねばならなかった。
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