一章四話:平常運転

 その翌日の部活では、普段の練習に加えて三浦国際とその後対戦する可能性のある二校の対策を進めた。紅白戦を中心に組み立てたことを除けば、大会期間であっても練習メニューはほとんど変わらない。それに不安を感じたらしい涼が設楽に問いかける。

「コーチ、本当にこんなんでいいんですか?」

「何が?」

「いつもとほとんど練習メニューが変わらないじゃないですか。今週末にはまた二試合あるのに」

 涼の問いかけに設楽は床に腰を下ろしたまま返した。

「毎回特別なことは必要無いって言ってんだろ〜。いつも通りのメニューをいつもより高いレベルでこなすことが大切なの。とっとと集中しなさい」

「でも……」

「急に違うことやって調子崩したり怪我したらそれこそ困るだろうが。ほらほらさっさとやらんかい!」

 追い立てられてコートに入った涼だが、彼の考えは他の数名が抱いているものと同じである。今まで到達しなかった領域に手がかかり、ついに県のベスト十六にまでやってきた。これだけでも十分未知の世界だというのにさらにその上に行こうとしている。漠然とした不安を抱いても当然だ。設楽はそれを分かっていて通常と同じ状態を貫いている。

「涼クンはもしかして怖いのかな〜? ビビっちゃってるのかな〜?」

 火野がネット越しにからかうと涼の頬にカッと赤みが増した。

「ビビってるんじゃなくて先のことをよく考えてるんだよ!」

 いつも通りギャンギャンと騒ぎ始めた二人を、神嶋と能登が割り込んで取り押さえる。押さえられた方はまだ威嚇しあっているが、それを見て審判の海堂が電子ホイッスルを鳴らした。電子ホイッスルの音に二人の動きが停止する。

「二人ともこれ以上ふざけたら荷物ごと体育館から放り出す」

「仕掛けてきたのは火野なのに何で?」

「それは困るから止めて!」

「全体の進行の妨げになる選手はいらない。どっちが仕掛けてようが反応している時点で同罪とみなす」

 ピシャリと海堂に言われて、二人揃って口をつぐんだ。不服そうな表情を見せているが反論したほうが自分のためにならないことは学習している。

「双方が大人しくなりましたのでこれより紅白戦を始めます!」

 海堂の号令で紅白戦が始まった。その様子を設楽は床に座ったまま見ている。野島の打った足の短いサーブを火野が拾って高尾に繋ぐ。

「高尾!」

 川村が名前を呼ぶとそちらへボールが上がった。神嶋と長谷川のブロックに当てられたボールを久我山が床で拾い、野島に行ったボールが水沼のバックアタックに変化する。能登のブロックをすり抜けて相手コートのライト側にスパイクが通る。その背後には火野が待ち構えていた。ドッ!と音をさせてボールが跳ねたが、パスをしたかった相手の高尾の頭上を大きく越えてサイドラインから飛び出てしまう。それを見て火野が硬直した。

「す、すいませ〜ん……?」

 恐る恐る振り向いた火野の頭に能登が軽い平手を食らわせる。ついで川村の

「下手くそ! ド下手! マジでいい加減にしろよ、火野!」

 という怒号が響いた。一拍遅れて数人分の笑い声が生まれる。

「片方の足を前に出すんだよ! 腕を振るな! 体重移動が大事だって死ぬほど教えただろうが〜!」

 思わず違うチームの久我山も叫んでしまったらしい。その様子を見た設楽が腹を抱えて笑い出した。神嶋は設楽に

「笑い事じゃありません!」

 と食ってかかる。海堂も呆れた顔で火野を見ていた。設楽はヒラヒラと手を振りながら怒り狂っている川村と久我山を鎮めようとする。

(緊張感が無くなった……)

 旧体育館の様子を見た海堂は内心そう思ったが、設楽は特に怒る様子を見せない。軽く火野に注意をしてからは怒りを鎮める役割に徹している。設楽が何もしないのならそれでいいかと思い、海堂は再度電子ホイッスルを吹き鳴らす。全員の視線が集中したのを確かめると

「これ以上遅れると遅延とりますよ」

 と脅した。それを聞いてから旧体育館の空気が大人しくなったのは言うまでもない。



「どうして怒らなかったんですか?」

 練習後のミーティングを終えてから海堂が設楽に問いかける。その曖昧な問いに設楽は帰り支度をしながら眉一つ動かさずに答えた。

「全体的に無駄な力が入ってるような気がしてたから、だな。緊張感があるのは良いが無駄な力が入るのは良くない。和樹のミスで必要な力まで抜けた感じは否めないが、これから試合までの間に充填していけばいいさ」

 コートの中では自主練が始まっている。十月中旬以降、自主練のために残るメンバーが増えた。海堂のパソコンの前に座って数字を確認しているメンバーもいる。誰もがこれから先の戦いに向けて備えていこうとしているのが見て取れた。

「聖は何で俺が軽く和樹を叱ったときに口を挟まなかったんだ? 今までのお前なら絶対に怒ってたタイミングだったろ」

「……コーチがキツく叱らなかったのには意味があるんじゃないかと思ったからです。コーチはいつもチームのことを考えて、私達を諭してくれます。そういう人の判断を信じるべきだと思いました」

「えらく買いかぶられたモンだが、まあ俺はコーチだからな。そのくらいするさ」

 軽く笑った設楽は旧体育館の玄関に向かって歩いて行く。その背中を辿りながら海堂は淡々と語った。

「私はコーチの基礎こそ全てという考えにすごく共感しています。しっかりとした基礎という土壌と正しい努力という幹と根があって力という花が咲き、やがて結果という果実が実る。私がいつも考えていたことです。それを的確な言葉にして語る大人はコーチが初めてでした」

「そうか、そうか」

「コーチのことは昔からテレビで見ていました。その頃の私には芸術品のようなトスを上げる正真正銘の天才にしか見えなかった。でも違ったんですよ。天才と謳われた設楽泰典は、ただの天才じゃなかった」

「何が違った?」

「私の知る誰よりもバレーボールを愛し、丁寧に向き合う謙虚な人でした」

 海堂の返答に設楽は若干口角を上げて応じる。スニーカーを履きながら横目で海堂を見ていた。

「褒め殺しだな。恥ずかしいわ」

「事実です。コーチのことは同じくバレーボールを愛する人間としてはどこまでも尊敬しています」

「めちゃくちゃストレートだな……」

「ライトからのクロスの方が得意でした」

 的はずれな答えに笑って、設楽は旧体育館を後にする。十一月の冷たい風を肌に受け、海堂はすぐに自分のパソコンの前へと戻ったのであった。


 その週末、試合会場にて。

「緊張してきた……。何で試合に出ないのにこんなことに〜……」

 冷え始めた手の先をこする高尾を見て、野島が意地悪くニヤリと唇を歪める。

「分かんないヨ? おれが試合中に怪我したら高尾に代わってもらわないと」

「止めてくださいよ、そういうこと言うの~。ホントにそうなったらどうするんですか」

 ユニフォームに着替えたセッター二人の会話を聞いて周囲が苦笑いした。第一試合のアップ開始まで待機している状態で、各々好きにしている。必要以上に待機場所から動かなければ良いとしか言われておらず、意味もなくサポーターを触ったりテーピングを確かめている者もいた。しかしその場の全員に共通しているのは、顔に薄く緊張した表情が乗っていることだ。

「そう言えば神嶋は? さっきから見てないけど」

 瑞貴が能登に聞くと、能登は首を傾げた。

「さあ。自販機かな?」

 その頃神嶋は能登の予想通りに自販機のところにいた。水筒の補充のために追加で飲み物が必要になるのは目に見えているが、この後買いに行く時間の余裕があるか判断できなかったからだ。小銭を入れてボタンを押すと、ガコンと音をさせて麦茶のペットボトルが落ちてきた。

「あ〜、絶対それにすると思ってた」

 背後から投げかけられた声に、神嶋は関節が錆びついたかのような鈍重な動きで振り向く。さらに別の声が鼓膜を揺すった。

「よう、直志。久しぶり」

 神嶋の背後にいたのは三浦国際の十番の勝海幸四郎と十一番の一条伊吹である。勝海は一歩神嶋に近づくと神嶋を見上げる。

「堅志さんはあんまり伸びなかったみたいだけど、お前はかなり伸びたんだな」

「相変わらずデケえ〜」

 一条は半ば呆れたような声音でそう言った。神嶋は身を固くして二人から視線を離さない。薄く開いていた唇がわずかに震えた次の瞬間、地の底から湧き出てきたかのような声が空気を揺らす。

「お前ら、どの面下げて……」

 神嶋の表情は凍りついているが、胸の中には轟々と嵐が吹き荒れている。それを態度と声に出さないように必死で抑え込んでいる。だが一条は首を傾げた。

「勝海、今の聞いた?」

「……なあ直志、もういいだろ。悪いことしたとは思ってるけど、卒業式からどんだけ時間が経ったと思ってんだ」

 勘弁してくれよ、という勝海の一言に神嶋は唇を噛みしめる。二人の軽い言葉に額に青筋が浮く。荒れていた唇に突き立てられた白い歯に薄く色がついた。ペットボトルを持つ手に力が入り、ミシリと音が鳴る。深く息を吸って再び口を開いた。

「あの日、お前らは俺を笑った。だが俺はお前らが笑ったことのためにここまで這い上がって来たぞ」

 神嶋の言葉に二人は神嶋を見上げた。冷たく冷え切った表情は彼らが知っている神嶋の表情ではではない。狂気すら感じさせるような目の色に背筋が凍ったのは気のせいではないだろう。目の内に渦巻く狂気も、鋭く尖った眼光も、全てが敵意に満ちていた。

「笑いたければ気が済むまで笑え。お前達がそうしている間に俺は自分のために突き進む」

 神嶋は宣言するように言ってからかつてのチームメイトを睥睨する。嫌悪感と同時に、脳裏には息ができなかった中学時代の日々が蘇った。そして最後に

「勝つのは、俺だ」

 と言い残し、その場を後にした。

 

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