眠りの為の安らかな場所

夕目 紅(ゆうめ こう)

眠りの為の安らかな場所

 雪を見たのは久しぶりだった。かれこれもう十年になるか。久しぶりに戻って来た村の様子は変わっておらず、アジーンは少しだけ嬉しい気持ちを抱いた。故郷の村“ドヴァー”は雪に埋もれて様々な音を失い、それでも人の呼吸や衣擦れの音が響く、静寂に包まれた村だった。

 アジーンは村人と言葉を交わすことなく道を進み――知人も何人かいたが、恐らく自分の変わり様のせいでアジーンと気付かなかったらしく、ただすれ違うだけだった――やがて一軒の家に前で立ち止まった。村はずれにあるその家はおおよそ生活感と呼べるものが感じられず、誰も住んでいなさそうだった。アジーンの胸に一瞬不安が去来したが、臆することなく戸を開いた。ギイィィ、と錆びた音が響き、そしてすぐさま雪に吸われて消えてしまう。


「……チェトレ」


 家の中には、アジーンの望んだ通り、一人の男がいた。がっしりとした体つきだが脂肪らしい脂肪が見当たらず、やせ細った身に強靭さを宿しているような感がある。首が太いせいか顔がやけに小さく見え、その表情は乾き切っていた。

 固く結ばれた唇がそっと開かれ、虚ろな眼差しに僅かな光が宿り、そこに自分が映し出される様を、アジーンはじっと見つめた。


「アジーン……帰って来たのか」

「ああ」


 アジーンはチェトレと固く抱きしめ合い、それからそっと身を離した。以前はよく笑う男だったチェトレも、今では仏頂面の方が自然な様だ。そんなことを考えていると相手も似たようなことを考えていたらしく、チェトレは力無い笑みを浮かべた。


「お前の瞳、昔はとても澄んでいて綺麗だったのに、今じゃ澱んでいるな」

「ああ……何人も人を殺した。綺麗でなんか、いられないさ」


 中へ、とチェトレは部屋の奥へと誘った。それから開きっぱなしだった戸を閉め、暖炉の火に薪を足した。外界と遮断されているはずなのに、あるいは遮断されているせいか、その部屋は雪以上に音を吸い込んでおり、耳鳴りがした。


「相変わらず、音を奏でているのか?」


 アジーンは小さなテーブルの前に置かれている椅子に腰掛け、チェトレが運んで来たジャム入りの紅茶を口にしつつ、そう尋ねた。


「ああ、もちろんだ。もはやその為だけに生きているといっても過言ではない」

「どれぐらいになったんだ?」

「見てみるか?」


 チェトレが部屋のさらに奥、固く頑丈な扉を指差した。淀んだ空のせいで窓からは濁った光しか入り込まず、暖炉の火の色や影が天井や壁、床にそっと伸びていた。

 胸がぎゅっと締め付けられる思いがした。しかし、もう逃げ出したり立ち止まったりしなくてもいいようになった。

 月日は流れたのだ。とても長い、あるいは短い、そんな時が。


「見せてくれ。いや、聞かせてくれといった方が正しいのかな」

「似たようなもんさ。こっちだ」


 チェトレはポケットからカギを取り出すと、その頑丈な扉を開け放った。そして中に入り、そっと振り向いて両手を広げた。

 部屋の中には太古の“機械”と呼ばれるものが並んでおり、その奥にいくつもの棺が並んでいた。空気がとても冷たく、肌がざわざわとする。それ以外に何もないのに、部屋はもう埋まっていた。また棺の数が増えれば、部屋を広くしなければならないだろう。

 かつては、棺はひとつしかなかった。今は違うということが何を意味するのか、アジーンはじんわりと心に広がる何かを感じた。


「奏でるぞ」


 チェトレが機械を操作すると、不意に音が流れ出した。オルゴールに似た、鈴の音のような、いやしかしそれよりもどこまでも澄んだ、美しい響きだった。その一音一音が流れている。簡素だが、しかし胸が痛む。何故このように切ないメロディになるのか。何故切なさと美しさは似ているように思えるのか。心にはいつも何かが広がったり失われたりするが、しかしアジーンの意識がそれを汲み取ろうとする時、それはいつもどこかへと姿を消してしまう。後に残るのは僅かな感触だけだ。


 それは、死者が奏でし音色だった。


 死者の遺体を特殊な機械で火葬すると不思議な音が響き、それを別の機械で録音したものがこのメロディだった。途中で色の色彩が変わるのは、別の死者のメロディへと切り換わった証だろう。チェトレは十年前からこの仕事を続け、様々な人の依頼を受けて火葬し、そのメロディを親族へと届けている。もしかしたらアジーンもまた同じことをすることになっていたかもしれない、そういう道だ。


「下らないということは分かっているが」


 音は奏で続けられていたが、チェトレは構うことなく言葉を続けた。


「僕には時折死が甘美に思えて仕方が無い。これ程に澄んだものだというのなら、澱んだ生よりは数100倍マシだ」

「一瞬の迷い事だよ。連続性を所有しようとするな」

「分かっているさ」


 しかしチェトレの言いたいこともよく分かった。確かにこれ程美しい音色を聴いて、そこに一切の不安や恐れを感じずにいられるのなら、死は甘いものに思えるかもしれない。だが同時にアジーンの経験がそれを否定してもいる。チェトレにもそれを伝えたくなり、そっと口を開く。


「あれから俺は傭兵としていくつもの戦場に出た。たぶん、死を全く恐れていなかったんだろうな。そのせいで他の人間よりも勝つことへの意識が澄んでいた。その分誰よりも長く生き残ってしまったよ」

「……そうか」

「戦場ってのは、ひどいもんだ。敵も味方も次々と死んでいく。けれどそれを見ている暇なんてないんだ。気が付いたら周りは死体だらけで、それを踏みながら戦っていることなど気にすることも出来なくて、数日経つとカラス達が死体を突いて見るに堪えない姿になっている。それでもどっちかの国が勝利し、勝利した国の民は諸手をあげて喜び、祝福の声をあげるんだ。俺達に礼を言ったりするんだ。人間ってのは失われたものを弔う気持ちよりも先に、そんな感情がやって来るらしい」


 目を瞑るといつだってそんな光景ばかり浮かぶ。死体を眺めていると、何が味方でどれが敵なのか分からなくなる。時折声が聞こえて来る気がする。幻聴だと分かっている。しかしその響きが耳に木霊してなくならないのだ。血の匂いも肌から消えない。気がつくと食事をしていても酒を飲んでいても隅の方へ行っている。そうしないと誰かに死を纏っていることを感づかれてしまいそうな気がするからだ。

 死は、自然と人が恐れるもの。

 しかし死はやけに近い場所にある。あまりにも近過ぎて、もう距離を離すことは出来ないだろう。それはしかし、アジーンだけの話ではない。チェトレもまた、似たようなものだろう。


「昔は、人が死ぬってことがよく分からなかったな」

「そうだな」


 チェトレは静かに頷いた。音色は止まらない。まるで雪のようだ。


「でも今は、少しだけ分かるようになった。人が死んで、その遺体が残って、そしてさらに何かが残るということ、その意味が。そして人が死ぬことそのものに価値などないのかもしれない、ということ」


 ――人は死んだら無になるのよ。


 彼女がそう言っていたことを思い出す。アジーンとチェトレの幼馴染である女、トリィの言葉だ。彼女は心臓の病だった。そして二人の願いも虚しく、16でこの世を去った。彼女の棺がこの部屋に初めて置かれた棺だ。中身はない。この部屋にある棺の全てが空だ。


「天国や地獄、そんなものがある確証なんてどこにもないんだ。それを信じることは自由だし、正しくはなくとも間違いでもないと思う。死ぬということは本当に恐ろしいことなんだ。何かにすがりつきたくもなる。例えそれが幻想であろうとも」

「けれど、彼女はすがりつかなかった。ただ現実を受け止めた」


 アジーンはチェトレの言葉に強く頷いた。戦場では兵隊が若ければ若い程、死の間際に響く絶叫がひどかった。死にたくない、助けてくれ、何でこんなことに、どうして……。しかしベテランの兵は違った。あまりにも多くの死を見て来たせいだろう。ある種の感覚が麻痺した結果、しかし現実的に物事を見つめ、着実に生を掴むことを考えて来た。恐らくは、トリィも同じだったのだろうと思う。


 ――私ね、昔は死ぬのがちょっとしか怖くなかったの。お母さんやお父さんと離れ離れになるの嫌だなとか、アジーンやチェトレと遊べなくなるの嫌だなとか、そういう風にしか考えてなかった。でもある日ね、少しだけ死ぬ瞬間のことを想像してみたの。それは眠りにとても近いのよ。何か色々考え事をしているの。昨日のこととか、明日のこととか、アジーンやチェトレのこととか。そうするとね、気が付いたら眠ってしまうの。いつ意識が途切れたのかも分からないの。そして目覚めないの。帰って来れないの。私が無になってしまうの。


 それは静かであるとか、闇であるとか、そういったどちらかというとマイナス的な意味合いを含むものですらない。無言ではなく空白であり、空っぽではなく虚無なのだ。


 ――お母さんが昔、転生のお話を聞かせてくれたことがあったけど、あんなの何の救いにもならないよね。だって生まれ変わったらもう何も覚えていなくて、私という意識もなくなって、それじゃあもう私じゃないじゃない? それって結局、私って死んじゃってるってことじゃない?


「俺はどうしてあいつが希望を持とうとしなかったのか、理解出来なかった。許せなかった」


 天国や地獄を信じて、いつか天国で会おうねと、だから悪いことしたりして地獄へ行っちゃだめだよと、そう言ってくれたなら、アジーンはきっと村を飛び出さずに一生を平穏に終え、彼女に会えることを信じて死を迎えただろう。

 けれどそうはならなかった。彼女は死んだらたぶん無になるのだと考えていた。だから古い機械に隠された機能を知った時、そこに救いを求めた。希望はあったのだ。


「何も残らないっていうのは本当に悲しいことなんだよな」


 チェトレがぽつりと漏らした。静けさの中に木霊し、メロディの中に紛れ、心の中に一滴の雫となって落下し、小さな染みのように広がる。


「僕も数多くの死を見て、それを音に変えて来た。僕はお前と違って、彼女がどうして自らの遺体を音に変えることを強く望んだのか、どうにかしてそれを理解しようと努めた」

「お前は偉いよ。俺はただ逃げ出しただけだったからな」

「変わらないさ、僕もお前も」


 チェトレは小さな微笑みをアジーンへと向け、アジーンはそれに苦笑した。それでも胸中で呟いた。この村に残り続けることが出来たお前はやっぱり偉いよ、と。


「遺体が残って、人はようやく悲しむことが出来る。死を見つめることが出来るんだ。何もない空白を見て、ただ誰かが亡くなったと知らされて、そんな情報だけで泣くことが出来る人間なんているか? たぶん、そういうことなんだろう」

「ああ。俺もそう思う。だからこの村に戻って来たんだ。戦場で誰だか分からない遺体になってはいけないと、そう思ったから」


 もう、生きることを粗末にするのはやめようと、そう思った。それに気がつくのにはあまりにも長い時間を費やしてしまったが、しかしそれに気付けるまで生き続けられた幸運に、アジーンは感謝していた。もしかしたら彼女の言葉がお守り代わりになっていたのかもしれない、とも思う。


「いいことだ」


 しみじみとした口調で言うチェトレに、アジーンは肩を竦めた。


「茶化すな」

「茶化していないさ。僕もまた、似たような決意を抱いている」


 そっと深呼吸をして、少しの間を置いた。それからどこか遠くを見るような眼差しで、そっと想いを紡いだ。


「遺体が残って人は悲しむことが出来て、そして音になってそれを毎日聞くことが出来れば、生きている人間からすれば寂しさが胸を衝いて離れないかもしれないけれど、しかし死者からすればこの上ない幸福になるのかもしれない。死が無には、ならなくて済むのだから」


 アジーンが力強く頷き返すと、チェトレは嬉しそうに微笑んだ。


「トリィが言いたかったのはたぶん、そういうことなんだと僕は思っている。だからこの仕事をこれからもずっと、死ぬまで続けようと思っている」


 そこで丁度メロディが途切れた。アジーンはチェトレと顔を見合わせて、それから互いに何も言わず部屋を出た。頑丈な扉が閉まると再び静寂さに包まれ、アジーンはテーブルに置きっぱなしにしていたカップをそっと口に付けた。紅茶は冷めていた。しかし味は変わらなかった。不意に涙が込み上げて来た。

 死の前日、トリィはアジーンとチェトレを呼び出し、そしてそれぞれの手の甲にキスをして言った。


 ――ねえ、私はもう死んでしまうけれど、生きているうちに大したことも出来ずに消えてしまうけれど、でも、ねえ、二人ならきっと立派になれるから。私、そう信じてるから。だから生きるのを頑張って。私の分までなんて言わないから、ただ自分の思うように生きてみて。その先にたぶん、幸福があるのだろうから。


 アジーンもチェトレも、幸福とは言い難い現状にいる。しかし様々なことを理解し、素直に彼女の死を悲しめるようになった。その事実だけは、とても幸福なことだと、そう思った。だからどんなに心が擦り減るような現実があっても、そのせいで自分達が徐々に澱んで来ているのが分かっても、この胸にあるその汚れなき何かをどこまでも持ち続けていたいと、そう願った。それがやがていつか自らの死の際に、生と引き換えに奏でる音となった時に、その音の清らかさを決めるような、そんな気がした。


「これから戦場で亡くなった者達の慰霊碑を作ろうと思っている」


 涙をそっと拭ってから、アジーンはチェトレへと振り向いて言った。


「ひとつやふたつじゃ済まない数になるだろう。でもそうでもしないと、何千人もの命がただただ無になってしまう。俺はきちんと彼らの死をこの世界に残したい」

「いいことだ」

「茶化すなよ」

「茶化していないさ。つまりもう、行くってことだろう?」


 少し寂しげにチェトレの表情が揺れた。やや下がった眉尻に申し訳なさを感じたが、しかし全てを終えるまでは安易に立ち止まることなく、前へ進み続けたいと思った。


「ああ」

「君もまた、僕と同じような仕事をすることになったんだな」

「随分と時間がかかってしまったが、そういうことになるな」


 名残惜しくはあったが、しかしそれ以上言葉は交わさなかった。ただ黙って家の戸を開け、外へと出て、そして二人で別れの言葉を言い合った。さようならではない。再会を約束する言葉だ。

 雪が降り積もる道を歩きながら、アジーンは静かに目を瞑った。あのメロディが蘇って来る気がした。そしてトリィの柔らかな笑みや声も。また涙が出て来そうになったが、どうにか堪えた。さっき流した涙で今は充分だと思った。無にならなかった死者が心苦しく思うのはきっと、そのせいでいつまでも誰かが悲しんでしまうことだろうと思うから、彼女の気持ちを理解した自分だからこそ、悲しむのはそこそこに抑えて胸に沈め、時折彼女の音を思い起こすことの出来る喜びを噛み締めながら、ひたすら前へと進んでいこうと誓った。

 眠りの為の安らかな場所から遠い街まで、アジーンの深い足跡は続いていった。

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