18.生の旋律5

 僕は六畳ほどのほのかの部屋に入り、勉強机の上に置いてあったヴァイオリンケースを開けた。丁寧に手入れされてあるそれは、不思議と音も狂ってなく、彼女がちゃんと大事にしていたことを証明していた。


「僕の演奏……」


 ほのかはそれを聞きたがっていた。そして彼女自身、ヴァイオリンを弾いてみて色々分かったと言う。だから不意に演奏してみようかなという気になり、僕は弓を手に部屋の中央に立ち、ヴァイオリンを構えた。

 夏の日差しが半分程開けられたカーテンによって室内に入り、それが丁度部屋の中央にいる僕の足元までを照らし、僕の上半身は濃い影の中に飲み込まれていた。周囲には家具と本棚があり、彼女が読んでいたのであろう、外国文学の本がずらりと並んでいる。その上にはいくつもの賞が飾られており、清潔そうなベッドには僕がゲーセンで手に入れた人形が置いてあった。

 いつだったか、彼女がどうしても欲しいと願ったものがあった。普段欲しいものなど言わない彼女だから何かと思って連れられてみれば、ゲーセンのユーフォーキャッチャーの景品だった。しかもたくさんある中で一番不細工な人形。


「これが欲しいの?」

「うん」

「……センス悪いね」

「……じゃあ、いい」


 怒ったように店から出ようとした彼女の腕を慌てて掴み、結局自腹で僕はそのユーフォーキャッチャーに挑戦した。

 持っていたお金は二千円。景品を手に入れた時の残額は三百円。

 苦労した。心底苦労した割には不細工な人形だった。サルの顔を潰したようなその人形を彼女は大事に抱え、家に飾ると言っていたのを思い出した。

 温かい気持ちがすっと胸によぎり、何だか彼女がそこにいるかのような錯覚を感じる。今でも、不思議と当たり前のように、彼女の存在をどこかで感じている。

 僕はふっと息を吸い、弓を弦に当てた。弾くのは、あの曲だ。

 僕は彼女のヴァイオリンを弾いた。彼女のヴァイオリンで彼女の曲を弾いていた。

 弓を動かし、体をリズムに合わせて動かし、柔らかく緩やかなその曲に何かを込めようと思った。

 感情だ。僕の感情を込めたい。

 でも何をどう込めればいいのか、どんな気持ちを込めたいのか、僕にはよくわからなかった。大学をやめたあの日と同じだ。どうすればいいのか、どうしたいのか、何もわからない。

 それでも、僕はヴァイオリンを弾き続けた。ほのかが聞きたいと言っていたのだ。最後まで演奏しようと思った。

 夏の日差しがカーテンの揺れに伴って波のように影との境界線を揺らし、少しだけ空いていた窓から一陣の風が入り込む。病院の屋上で演奏したときのことを思い出し、僕は少しだけ泣きそうになる。

 頑張りたかった。それは本当の気持ちだった。あの日美しいと感じた世界は、幻に終わってしまった。

 悲しく、切ない。そういった感情が音に乗る。壁を走る光が若干の揺らぎを放ちながら、部屋を包み込もうと手を伸ばしている。静けさの中に外から飛び込むセミの音と、僕の奏でる音が響いている。

 嫌だ。どうしてこんな風になってしまったんだ。

 それだって、本当の気持ちだ。

 諦めたくない。もっと頑張るべきだった。どうしてやめてしまったんだ。

 それだって、本当の気持ち……。

 僕の中で様々な感情が浮かんでは消え、悲しみや絶望や怒りや迷いとなり、それを全て音に乗せていた。こんな演奏でいいのかと思う反面、僕はただひたすらに演奏をし続けていた。

 やがて、不意に僕は思い出した。唐突に、頭の中で音が再生された。

 彼女が最後のコンクールでした、演奏――。

 それは、今僕がこうして演奏している音によく似ていた。あの演奏は僕にとって最高の演奏だった。だから僕も近づきたいと思い、彼女の音に重なるように演奏をしようと試みた。

 一音一音を丁寧に、集中力が切れそうになるときは心を奮い立たせ、頭の中で何かを考えたり、それを追い出したりしながら演奏をする。

 そうやって僕らの音は生まれ、あの頃の日々を美しく輝かせていた。


 ……あぁ、そうだ。今、何もかもが分かった。

 どうしてあの時彼女が僕の演奏を聞きたがったのか。どうして僕が、彼女の演奏を好きだったのか……。


 あの時、彼女は僕のように迷っていた。苦しみ悩み悲しみ、それでも美しさを感じ、どう生きていくかを考えていた。

 そういった意識の全てが演奏に乗り、完璧ではない演奏になっていたのも事実だ。

 でも。

 でも、僕は……。

 僕はそういった、迷いや不安を抱えながらも懸命に美しさを奏でようとする彼女の演奏がすごく好きだったんだ。僕のように、あるいは誰かのように、迷いを伴った音がふらふらしながらも誰かのもとに必死で辿り着こうとする。そんな彼女の、思い悩みながらも奏でられる、不完全だからこそ胸に染み渡る演奏に、僕は心打たれたんだ……。

 心の中のわだかまりが解れていく。耳で音を拾い、美しさで涙が出る。陽だまりが足を温めている。奏で続ける音が、僕の全てを震わす。

 美しい彼女の生の旋律。僕は彼女を奏でている。そして僕自身を奏でている。僕が生きてきた全てを、今こうして奏でている――。

 そうだ。僕は諦めるべきでは無かったんだ。どれだけ嫌になっても、どれだけ勉強をサボってしまっても、どこかでまた頑張り始めればそれでよかったんだ。

 世界は、あの頃僕が思っていたほどには美しくない。

 でも世界は、辛く苦しい日々の連続の中にあっても、だからこそ、こんなにも美しい。

 幻想みたいに綺麗でなくたって、世界が美しいことに変わりはないんだよ。


「ほのか……」


 生まれてくることも、生むことにも、罪はない。謝る必要もない。

 僕らに罪があるとするなら、その後どうやって生きていくかだ。

 まだ、間に合う。これから頑張って生きていくよ。こんなにも迷い悩みながら、それでももう諦めずにちゃんと生きていくよ。僕の人生を、僕自身の手で、最後まで奏でるんだ――。

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