17.生の旋律4

 線路沿いの道を公園のところで曲がり、そのまま真っ直ぐに進む。数分したところにほのかの家があり、僕はその門の前で立ち尽くす。

 葬式には、出なかった。そんな資格など無いと思った。大学をやめたあの日、もう彼女の前には現れるまいと心に決めていた。でも彼女の最後のメールがずっと頭にひっかかっていて、せめて焼香だけでもと思い、僕は彼女の家の前に立っていた。

 正直、まだ迷っていた。僕がそんなことをして許されるのか、よくわからずにいた。

 ぼんやりとそんなことを考え、チャイムの前に指をかざしたまま、僕は五分程そうしていた。夏らしいむわっとした空気に痛いほどの陽光が突き刺さり、嫌な汗が背筋から浮かび始めていた。雲のない今日は最高気温が三十五度を超える真夏日で、僕の首筋は既に薄い汗の膜に包まれていた。

 ふと窓が開き、女性が顔を覗かせた。初老と思しき、茶髪の質素な女性だ。その人は僕を見て驚いた表情になり、それから恐る恐るといった感じで口を開いた。


「もしかして、井上ユタカ君?」

「はい、そうですけど……」

「ちょっと待ってね」


 女性は勢いよく首を引っ込めるとこちらにも聞こえるぐらいの大きな音を出しながら玄関へと行き、扉を開けた。それから少し複雑な感情を笑みに含ませながら、僕を呼んだ。


「いらっしゃい、井上君。お久しぶりね。ほのかに会いに来たんでしょう? ほのかのことは、もう知ってるかしら?」

「ええ……それで、お焼香をあげさせてもらえればと思いまして」

「ありがとう、ほのかも喜ぶと思うわ。さあ、あがってくださいな」


 ほのかの母親である、目元がよく似た女性に言われるがままに僕は家へとあがり、リビングを通って畳の部屋に通された。ちゃぶ台がひとつ置いてあり、仏壇がひとつあるだけの、質素な部屋だった。

 僕はほのかの母親の顔を見、彼女が頷くのを見てから、仏壇の前へと座った。

 眼前には、ほのかの写真があった。高校の頃の写真だ。懐かしさが胸にすーっと浮かび上がって、それからぎゅっと僕を締め付けた。僕は何かを口にしたかったが、それはすぐさま謝罪の言葉になってしまいそうで、硬く口を噤んだ。


「井上君、今日はわざわざ来てくれてありがとう。お葬式では見かけなかったから、もうほのかに会いに来てはくれないのかと思ってたの」


 焼香をあげ終えると、ほのかの母親は僕に座るように促し、すぐさまそう言った。

 すいませんと僕が謝ると、そういうつもりじゃないのよ、と一瞬驚いた面持ちになってほのかの母親は首を横に振った。


「ほのかが会いたがってたから、どうしても会わせてあげたいと思ってて、純粋に嬉しかっただけなのよ。皮肉に聞こえてしまったのなら、ごめんなさいね」

「いえ」


 僕は途切れてしまった一年半のことを母親に聞いた。ほのかがあれからどうなって、どんな風にして死んでいったのか。それを聞きたいと思った。


「ほのかは、あれから色々と頑張ったのよ。いいといわれることはやれるだけやってね。医者にも驚かれるぐらい、ほのかは強く生きたわ。最期に穏やかな様子で死ねたのは、そのせいかもしれないわね……」

「ほのかは、穏やかに死んだのですか?」

「ええ」


 ほのかの母親は一瞬、どこか遠いところを見つめるような瞳になり、何かを思い起こすように目を瞑った後、しっかりとした表情で僕を見た。


「私はね、ほのかに謝りたかったの。彼女をうまく育てられなかったこと、病気で一番辛いはずのほのかに、親である私の方が喚き散らしてしまったこと。自分の弱さから、怖いお父さんと別れずにいてしまったこと、生まなければなんて何度も言ってしまったこと。こんな私から生んでしまってごめんなさいって、全部全部、謝りたかったの」

「……」


 複雑な気持ちが僕の中で沸き起こった。それは僕の母親に対する感情にも似ていた。

 今更そんなことを言ったって遅い。そう叫んでやりたかった。

 しかしぐっと堪え、僕は彼女の話の続きに耳を傾けた。


「でも私が謝ろうとしたら、ほのかは私の言葉を遮ったの。変なこと言わないでって。私、お母さんの言いたいこともう分かってるからって」

「……」

「それでね、ほのかが言ったの」


 ほのかの母親はうっすらと瞳に涙を湛えながら、彼女の最期の言葉を僕に教えてくれた。


「生きる上で罪も罰もあると思う。でもね、生まれてくることに罪はないと思うわ。無垢で何も知らない赤ちゃんが暗闇を抜け出して光に触れることの何が悪いの? 生まれてきたかったわけじゃないし、生まれたくなかったわけでもない。誰だって生まれてきたことを否定されるいわれも、それを罪に感じる必要も無い。だから、ね? 生まれてきてごめんなさいとか、生んでしまってごめんなさいとか、そういうことを言うのはやめよ? お母さん、ありがとう……って」

「……嘘だ」


 引き絞るような声で僕はそれだけを呟いた。

 信じられなかった。全身の毛が総毛だった。そんな風に、言えるわけがない。あんなにも辛い思いをして、こんなにも苦しい感情に苛まれて、そんな風に、僕は言えないのに……。


「私も、そう思った」


 母親は首を縦に振り、零れ落ちる涙を拭った。


「嘘だって。そんな風に本当は思ってないんでしょって。ほのかは優しいから、私にそんなことを言うんでしょって。そう思ったの。でもほのかの顔はすごく真剣で、柔らかくて、優しくて、嘘なんて欠片も感じられなかった。ほのかはたぶん、心の底からそう言ってたんだと思う。本当の気持ちで、ほのかはそう言ったんだと思う……」


 訳が分からなかった。どうしてありがとうなんて言えるんだ。僕らをこんなにも苦しめた存在に対して、どうしてそんな風に言えるんだ。

 でも僕の心は打ち振るえ、流れそうになる涙を必死に堪え、否定したい気持ちと納得したい気持ちに挟まれながら、彼女の言葉を受け入れようとしていた。彼女の言葉の何かが僕の胸を強く叩き、僕の全身を揺さぶっていた。


「どうして……」

「ほのかはね、死ぬ数日前に、こう言ってたわ。久しぶりにヴァイオリンを弾いてみたら、色々なことが分かったって」

「ヴァイオリン?」

「ええ。ほのかの部屋に今も置いてあるわ。よければ、もらってくれないかしら? ほのかに頼まれてたの。もし井上君がくるようなら、ヴァイオリンをあげて欲しいって」

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