16.生の旋律3

「何当たり前みたいな顔して帰ってきてるのよ。はやく出ていってくれないかねえ。本当に疫病神なんだから……」


 家に帰るなり、母親にそう言われた。中学の頃はよくキレていたが、今はもう慣れてしまった。買ってこいと頼まれていた食材を冷蔵庫に入れ、領収書を机の上に置く。そうしている間にも、母親の苦言は続く。


「せっかく大金出して、勉強しにくいって言うから一人暮らしまでさせてやったっていうのに、まさか大学やめるとはね……本当にあんたは、親不孝者だよ」

「……」

「医者になるっていうから金かけてやったのに、一銭も返しやしない。働きもせずに、フリーター続けてる。そんなやつを養っていけるほどうちはお金持ちじゃないんだよ」


 母親の小言は果てがないようだ。それでいて言うことは、いつだって間違ってはいない。請求されている家賃等はバイト代でしっかりと払っているといっても、それだけのことだ。だから僕も、何も言いはしない。

 いつからだろう。耐え忍ぶことが、当たり前になっていた。


「あんな男と結婚しなければよかった……そうすればあんたみたいな子供も生まれなかっただろうしね。せめてあんたを向こうに押し付けられたらよかったのに、あたしも人がよすぎたねえ。せめてそんなあたしの為に、もう少し頑張ってくれる息子になるかなとも思ったのに、やっぱり駄目だねえ……」


 僕は、やはり無言だ。小学校の頃からずっとそうだ。成績が悪かったり、他の子が出来ることを出来なかったりすると、母親はいつもそう言う。出来ないのは事実なのだから、僕に反論の余地は無い。怒られたって、確かになんら不思議では無い。今だってそんな僕でも家に置いといてくれることに、むしろ感謝の念を抱かなければならないだろう。

 そう自分に言い聞かせようとしたところで、ふと脳裏に彼女の事が思い浮かんだ。玄関の前で立ち尽くす彼女の寂しげな顔が思い起こされた。そして次の瞬間には、急激な速度で怒りが込み上げた。

 いつもは流せる言葉のはずなのに、母親のそのやけにのっぺりとした口調が苛立った。自分のミスや自分自身の正当化を僕に押し付けるその傲慢さが、すごく腹立った。

 僕は下唇を強く噛み締め、全身に力を入れ、何とか堪えようとした。

 でも、言葉はまだまだ止まらない……。


「いつだってあんたはそうだよ。何かをやろうとして失敗する。あたしが少しでも期待しようものなら、それをふいにする。あたしに絶望感ばかりを与えてくる。嫌な子だね、本当に」

「……」

「お前なんか死んでしまえばいいのにねえ、生まれてこなかったことになってくれたら楽なんだけど」

「――うるせえ!」


 腹の底から僕は怒鳴った。空気がざわめき、ぴんと張り詰め、物が少し震えたようにさえ感じられた。

 母親はびくんと体を大きく跳ねさせた後、若干の震えを握りこぶしに見せながらも、憎悪の篭った目で僕を睨み付けた。


「あんた、誰に口聞いてるんだい?」


 僕は睨み返し、低い声色で叫んだ。


「お前だよ。何が死んでしまえばいいだ。あんたがそんなことばっか言うから、僕は何もかもうまくいかないんだよ! あんたがそうやって僕を否定するから、どこでだってうまくいかないんだ。人間関係も才能も、何もかもうまくいきやしない。僕のせいじゃない。あんたのせいだろ!」

「何言ってるんだい! ここまで育ててきた恩も忘れて、よくそんなことが言えるね! あんたのそういう冷たさが、あたしを苛立たせるんだよ!」

「ふざけるな! そんなんで僕らに死んでしまえだの生まれてこなければだの言うんじゃねえ! そんなことばかりあんたらが言うから、僕らは必要以上に悩むんだよ。もう少しうまく生きれないんだよ。医者にもなれなければ、生きるのだって諦めちまう。あんたらがそんなんだから、僕らだってそんなんにしかならねえんだよ!」


 僕は勢いよく地を蹴り、二階へとあがった。階段横にある僕の部屋に飛び込み、僕は荒い息を吐いた。

 ありとあらゆるものが視界に入り、その全てが嫌な記憶に結びつこうとする。子供の頃の失敗、笑っていない写真、賞の入っていない額縁、無理やりやらされた勉強の本の群れ。そのどれもが、今まで僕のせいだった。

 でも。

 でも――違う!

 あいつらが悪いんだ。僕は何も悪くない。彼女だって何も悪いことなんてない。諦めちまうのだって、生きるのがよくわからないのだって、全部全部あいつらのせいだ。この前テレビで見たじゃないか。子供の頃安心感を得られなかった子供はうまく成長出来なくなるって。だからあいつらがいけないんだ。僕の何が悪いというんだ。こんな僕だから何もかもに失敗してしまったのだろうけれど、こんな僕にしたのはあいつら親じゃないか。

 僕は、絶対に悪くない。悪くないんだ……。

 そんな風に強く思うはずなのに、なぜか虚しさも心に募って、僕は部屋の中央で蹲った。情けなかった。生きる意味なんて感じられなかった。死んでしまえという母親の言葉が、耳の中で残ったまま反響を繰り返していた。

 ――どうして僕は、生きているんだ……。

 死んでしまうのが、この世界から消えてしまうのが、一番いいことなのだろうか。僕がいなくなればそれで、母さんも喜んでくれるのだろうか……。

 涙が零れそうになってぎゅっと体を抱きしめた。不意に、彼女の最後の言葉が思い起こされた。

 僕が東京へ逃げようとした時に、彼女が送ってきた最後のメールのことだ。


「ねえ、ユタカ。東京へ行ったって、きっと何にもならないの。それはね、私がヴァイオリンやめるって言ったのと同じなの。ヴァイオリンは捨ててないけど演奏をすることはやめてしまった、私みたいなものなのよ。ねえ、ユタカ。ユタカのおかげで、少しずつ私だってわかってきたの。ユタカが私の演奏を聞きたがったように、私だってユタカの演奏が聞きたいのよ。東京にいったら、それも出来なくなっちゃうのよ。だからユタカ、お願いだから、東京に逃げないで。私にユタカのヴァイオリンを聞かせて。待ってるわ、私。ずっと待ってるから……」

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