14.生の旋律1
「お疲れ様。後やっとくから、先帰っていいよ」
その言葉に押し出されるようにして、僕はバイト先の裏口から細い路地へと出た。
冬が過ぎ、春を経て、もうすぐ夏だ。高いビルの窓ガラスから反射される光の眩しさに眩暈を感じながら、僕はいつだってあの頃が随分と遠くへ行ってしまったような錯覚を覚える。まるで夢のように、遠ざかった日々を見つめる僕の現実は、ひどくつまらない一日の連続だ。燦燦と照る真っ赤な陽の輝きも、後ろめたさを影として伸ばす。
僕は何も言わずに扉を閉め、真っ直ぐに駅までの道を歩き出した。
駅にはたくさんの人が密集していて、強引に狭い空間へと入り、意味のない群れを成してどこか遠い場所へと移動していた。考えてみればそれはどことなく歪な運動のはずなのだけれど、誰もが当たり前の顔をして切符を滑り込ませている。僕はそれが妙に気持ち悪くて、顔を背けて駅前を通り過ぎる。けれど彼らと僕とで、どう違うというのだろう。不意に込み上げる感情は、明らかに彼らを羨むもので、僕は毎日情けなさばかりを感じている。
ふと前方を見やると、高校生らしきカップルが並んで歩いていた。これから大学受験のようで、進路のことをお互い話し合っているらしい。俺はこうなりたいだとか、私はこういう道に進みたいだとか、フリーターはまずいしなとか、ニートにだけはならないでよねとか、そんな軽口を混ぜながら未来を語るその様子は、いつかの自分を彷彿とさせ、懐かしさと痛みを胸によぎらせた。
そうだ。あの頃僕らには夢があった。漠然としていても、どこか輝きを信じていた未来があった。
でも今の僕には、何も無い。ただ深い闇が蔓延る未来を当ても無く歩き続けているだけだ。僕が抱え込んだ夢でさえ、ただの自己救済の手段でしか無く、自分を救うことさえ結局出来なかった。
その事実は、一生消えないような、そんな気がする……。
何だか歩き続けることに疲れを感じた僕はそこでゆっくりと立ち止まり、道を振り返った。公園横のいつかの道はどこまでも真っ直ぐに伸びていて、部活を終えた学生が何人か歩いているだけだ。あの頃と変わらず、不思議な静寂に満ちている。あの足音のステップが作る不思議なリズムも、耳を澄ませば聞こえてきそうな気がする。
――胸が、ずきりと痛む。
僕は胸の辺りに手を当て、唇を噛み締めた。彼女があの頃どんな気持ちで胸の辺りの服をぎゅっと掴んでいたのか、最近になってよく分かるようになった。
いつだって痛みは胸に来る。そしてそれを取り除こうと、痛みをぎゅっと握り締めるように服を掴むのだけれど、結局うまく取れないのだ。
不安や迷いや絶望を抱える心は焦燥感に煽られ強くけたたましく叫び、心の中でひどく暴れている。どうしようもない苦しさを抱えながら、どうしようもない僕を苛み続ける。
自分を取り除くことは、自分には出来ないことだから、そのジレンマに泣き喚いているのだ。
でも胸を侵食するその痛みからは、僕が生きている価値なんて無いんじゃないかという声が放たれ続けていて、それが僕の心臓を刺し痛みとなる。誰とも連絡を取り合わずにただバイトをし、冷たい視線を浴びながら実家で過ごす毎日と、そんなことを続ける僕に対する悲しみが、そうやって僕自身を罵倒する。
――どうして僕は生きているのだろう。
僕は照り返すアスファルトのひび割れからゆっくりと視界を空へと向け、濃厚な空気の層の上に浮かぶ大きな入道雲を見た。眩しさを遮る為に瞼の上に手を置き、目を細めながらも凝視する。
深い、紅色だ。
それがゆっくりと空を覆い、徐々に広がり、彼方までを染め上げていく。光に近ければ近いほどその色は失われ、そこには空の青も陽の紅も無く、ただ真っ白な光だけが存在している。
そう、遠く。どこまでも遠く。
離れていくたびに色は強くなる。青と紅が映る入道雲が本当にゆっくりと動いているのをなんとなく知覚する。
僕や彼女のように何かに染められる瞬間を失ってしまった存在は、ただ流れゆく世界の中で、動いているのかもわからないぐらいの速度で動いている……。
不意に、携帯が震えた。
僕はポケットに手を突っ込み、届いたメールを開いた。差出人は高校の友人だ。すっと視線を動かし、本文を読んだ。
心臓が、どくんと跳ね上がった。
僕は目を瞑り、深いため息を吐き、それからもう一度だけ本文を見た。捉えどころのない感情が膨らんで、一言だけ僕の口から零れ落ちた。
「そっか……死んだか……」
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