13.ユタカの旋律8
「お前なんか死んでしまえばいいのにねえ、生まれてこなかったことになってくれたら楽なんだけど」
そんな呟きを残し、親への退学報告の電話はぶつりと切れた。
つーつーという音が耳に痛い。懐かしい痛みが胸を抉っている。
僕は苦笑を浮かべ、受話器を置いた。いつだってそうだ。残された静寂の中で、言葉が耳に木霊している。慣れることはきっと出来ないに違いない。でも、諦めることを僕はもう覚えたはずだ。
コートを羽織り、ヴァイオリンケースを手に外に出ると、降り積もった雪の塊が道路脇に並んでいた。それを投げ合っている子供が微笑ましく、また羨ましくもあった。ただ生きているということに何の迷いも感じられずにいられたら、人生はきっと、楽しいに違いない。
僕は道を行き、住宅街を抜け、川沿いの土手に出た。それからその土手を河口へと歩いていき、枯れ木やランニングをしている人達の脇を通り、光の柱の落ちる空やその光が水面に映り揺れる様などを見つめた。
繊細で美しく、それでいて常に流れに逆らうことが無い。壊れることがあっても誕生があり、そういった流転するという事実だけが不変として存在している。
僕も彼女も、今までずっとそんな日々にいた。
なのに、どうしていつの間にか、こんな風になってしまっているんだろう……。
悔しさが胸を過ぎる。頑張って生きているはずなのに満たされない感情が、胸の内で軋んでいる。
僕は道を歩くのを止め、そのまま川辺へと下りていった。そして落ちている石を拾い、川へと投げた。何度も何度も、腕を水平に動かし、石を水面で弾ませようと試みた。
けれど、一回、二回。うまくいって、三回。
それだけしか、石のジャンプは見られない。
「ねえ、ユタカ」
不意に彼女の言葉が川のせせらぎと同化するように、耳元で流れた。
「子供の頃はうまくいってたのに、大人になると出来なくなってしまうことって、あるよね。あれって、どうしてなんだろう」
僕は石を投げる。投げる角度を少し変えてみる。一回。そして沈んで見えなくなる。
「例えば久々に前転とか倒立とかするとすごい貧血気味になって頭にすぐ血が上ってしまって小学生の頃のようには出来なくなってたり、だんご虫をつついて遊ぶとか蝶々取りとかやっても楽しく感じられなくなってたり、がらくたみたいなものをすごい宝物として扱うことが出来なくなってたり、信じることが当然で無くなったり、夢を描き続けることがすごく困難なことになってたり……」
僕は石を投げる。強く力を込める。振り下ろすと同時に、力みすぎたせいだろう、水平にうまく投げきれていないことに気づく。
石は水面に飛び込み、そのまま視界に出てこなくなる。
僕は全てに嫌気が差し、その場に座り込んだ。冷たい地面に腰を落ち着け、ほーっと息を吐くと白い色が乗る。その瞬間にもまた彼女の記憶が再生され、僕の中に浮かび上がってくる。
まるでシャボン玉のように、美しかった世界はその中に包容され、弾けることで僕に届く代わりに、そうすることで失われていく。
僕の続けてきた三年間が、そうして消えていく。
……どうしてなんだろう。こんなにも頑張っているのに、どうして日々はただ辛く苦しく、時折悲しみが込み上げてくるのだろう。
東京に来てからのほぼ一年間は、ずっとそんな思いに振り回される日々だった。その度にまだまだ頑張りが足りないんだと僕は思い、さらに勉学やバイトに没頭しようと勤め、常に昨日よりも努力しようとする日々が続いた。彼女の分まで頑張ろうとしているのだから、辛いのも当たり前だと自分に言い聞かせていた。
けれど結局それはいたちごっこのようなもので、いつの間にか僕はどこまで頑張ればいいのかもわからなくなり、ただ愕然とした。何かやろうとする意志に引っ張られるのではなく、そういった意志を無理やりに作り出してまで自分を動かそうとしている自分がいることに、僕は気づいてしまったのだ。
日常の様々な場所に倦怠感は潜み、付け入る隙をいつでも狙っている。
どんなに頑張っていても、夢を描いていても、充実感は日々失われていき、ただ闇雲に生きているという感触だけを事実として残す。
それを理解した僕は、大学を辞める決意をした。もう限界だった。医者になることにだって、今では何の価値も見出せない。なることよりもなろうとしている自分を作り出すことに必死になっていた僕に、そんな職に就くことが許されるわけもない。
僕は大学を辞めた。医者になることを、彼女を救うことを、夢を放棄した。
理解すれば理解するほど得られる絶望や焦り、苦痛、未来や時間への不安――彼女への思い。
全てから解き放たれた僕は、何もかもを出来る代わりに何もかもする意味のない自由を得た。
そしてそんな自由を得た僕は、これからどうやって生きていけばいいのだろう……。
いつの間にか俯いていた顔を上げると、高校生達が川に架かっている大きな橋を大きな声で笑いながら自転車で走り去っていくのが見えた。
高校生。僕にもそんな特別な時間が、確かにあった。
あの頃は、世界はただただ綺麗で、好きな人がいて、こんなにも素晴らしい世界を失ってしまうことは、本当に悲しいことだと思っていた。
必死に勉強して、医学部に入って、医者になって、人を助けたいと思った。病という突然の、本来あるべき人生の切断に対して、切り捨てられてしまいそうな時間を繋ぎとめて見せたいと僕は思っていた。
こんなにも素晴らしい世界で彼女を失ってしまうことは、世界を失ってしまうことと同義のようにさえ思えた。
だから、医学を勉強しようと思った。
彼女の時間を繋ぎ止める。世界の中心を失わずにいられるだけの力を、得る為に。
「でも僕の夢はきっと、夢じゃない……」
僕の夢は、心の空白を埋める為の何かのようだった。僕の夢が最大限に膨らむ時、僕の穴は塞がっている。しかし一度夢が萎むと、途端に空白はその存在を覗かせ、僕の日々を脅かした。一日一日を最大限に生きなければ僕の空白は埋められず、常に限界で日々を過ごさなければいけないことに僕はただただ苦痛を感じた。怯えさえ抱いた。疲れた頭も体も、悲鳴をあげ、日々逃げ出すことばかりを考えるようになってしまっていた。
気がつけば充実感とは程遠い生活を送っている僕は、この東京という街に飲まれ、薄汚れた空気を吸い、川に向かって石を投げ、子供の頃とは違いたったの数回弾ませるだけで終わってしまっている……。
僕は地に置いておいたケースを開き、ヴァイオリンを取り出した。それから顎にあてがい、弓を力むことなく握った。
細い木の感触が握る手に伝わり、構えた状態による独特の視界が目に与えられる。平たくも見えるヴァイオリンのぴんと張った弦に対し弓を当てると、自分の心に触れた気になんとなくなれる。久しぶりにとった体勢が、あの頃へと僕を引き込もうとしているかのように思える。
僕はふっと息を吸い、曲を弾き始めた。
名前はわからない、しかし楽譜を見なくてももうすっかり覚えてしまった、彼女がいつも弾いていた曲だ。
僕は荒々しくヴァイオリンを弾いた。一音一音に注意を向けるのではなく、もはやそういったことを無視し、ただひとつのベクトルに向かって弓を動かした。
同じベクトルに対する思考が様々に浮かんでは消え、心を震わそうとし、しかし何も出来ずに奥底へと沈んでいった。
どう弾けばいいのか、どういう気持ちで弾きたいのか、どうして弾いているのか。何もかもが分からなくて、僕は全ての理由を考え、当てはめようとし、違うと気づき、放棄した。
もう、戻れない。
何も残ってはいないんだ、僕には。
ただそれだけを自覚してしまうと分かっているのに、むしろそれを望むかのように、僕はヴァイオリンを弾き続けた。
やがて全てを終えると、僕はヴァイオリンを地へと叩きつけ、粉々に壊した。砕けた破片を蹴散らし、荒い息で惨状を見つめた。川面に映る僕の姿がゆらゆらと揺らめく。
僕はケースを川に放り捨てると、もう一度川辺に転がっていた石を投げ、二回だけ弾んだのを確認すると、ポケットに手を突っ込んだ。そしてそこから携帯電話を取り出し、そのメール履歴に一年以上前から止まっている彼女のメールがあることを確認した。
東京へ逃げ出したあの日のメール。彼女の制止の言葉を振り切った僕の言葉が、僕の終わりを決めていた。
ぎゅっと祈るように携帯を握り締め、僕は溢れ出しそうになる弱さを懸命に食い止めた。すぐさま連絡を取りたくなる気持ちを後悔で塗り潰し、後は何も考えずにただ腕を振るうだけだった。
水平に腕を動かし、携帯電話の角をしっかりと持って、水面に向かって携帯電話を投げる。
ぽちゃんという大きな音を立て、一度も弾むこと無く、携帯電話は川底へと沈んでいった。
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