12.ユタカの旋律7

 四年前の冬。

 彼女が入院した。あのコンクールから何ヶ月か経った後のことだ。その日から、僕の全てが変わった。

 僕はほぼ毎日病院へと行き、彼女に会い、家に帰ってからは彼女の病気について調べた。すぐさま死ぬというものではない、しかし死に至る可能性のある病ではあった。

 彼女はあの高校一年の夏、その病気を医者に告げられたらしい。それからは今までやってきた全てに疑問を持つようになり、演奏の考え方が変わったそうだ。結局あれ以降入賞していなかったのも、その答えが見つからぬまま、今に至ってしまっているかららしい。


「いい演奏はいい演奏。誰かに届く演奏も、いい演奏かもしれない。でもいい演奏じゃなくても、誰かに届く演奏は、出来るかも。だからね、ずっと、よくわからなくて」


 彼女はそう言って胸の辺りをぎゅっと掴み、それから手を離して微笑した。終わったんだよ、という言葉に、僕は首を振るわけにはいかなかった。

 僕はどうにかして彼女のことを治したいと思い、また同様にそういった病気の人達を助けたいと思って勉強を始めた。

 うちに医学部へ行くほどのお金などないし、その時の成績では到底無理な話だった。だからこそただひたすらに勉強をし、奨学金とバイトでお金をやりくりすることで、大学へと入った。

 合格の発表を見に行った日、僕は真っ先に彼女の下へと向かった。


「ほのか、受かったぞ。医学部だよ」

「本当? すごいね、ユタカは」

「別にすごくなんかないよ。当然のことを当然のようにやったら、こうなっただけさ」


 真っ白い部屋は病的なまでに潔癖で、差し込む日差しでさえ何かを通してからでしか届かない。外科と違い、内科の空気はただただ薬の香りがする。機械の音と、テレビの音と、静かな足音だけが響いて聞こえる。誰もあまり話そうとはしない。死を思う人が多いからこそ、病院内の中でも隔離されたフロアのように静謐に包まれている。

 僕はほのかのベッドの近くに置いてあった椅子に座り、携帯で取った合格発表の映像を彼女に見せた。彼女は少し苦笑し、それを手にとってまじまじと見つめた。もう見慣れてしまった水色のパジャマから伸びるその細い手は白く、病におかされているというよりはこの病院という場所の独特な空気に蝕まれているように僕には思えた。


「ねえ、ユタカ」


 彼女は携帯を僕の手に返しながら言った。


「ヴァイオリン、弾いてよ」


 僕は驚いて彼女の顔を見た。何回か瞬きをする彼女の表情は穏やかで、少しこけた頬がただただ痛ましかった。

 膝に置かれたテーブルにある昼食。手は、ほとんどつけられていない。

 僕は頷きたかったが、だめだよ、と首を横に振った。


「他にも人がいるんだから」


 同じ室内ではあるが、他に三人の人が入院している。カーテンで遮られていてどんな人が入院しているのかはわからないが、確かにそこに存在するのだ。ヴァイオリンは静かな方とはいえ、弾くわけにはいかない。

 彼女は少し残念そうに唇を尖らせたが、不意に起き上がりスリッパを履くと、病室の外へと歩き出した。


「お、おい」

「屋上行こ。屋上なら弾けるでしょ」


 いくつかの階をエレベーターで飛ばし、一番上の階から階段で屋上へと出る。冬の寒い空気が蔓延る屋上には、人は一人もいなくて、ただ高い空を舞う風が空気を裂く音が聞こえる。

 僕は彼女の肩に自分の着ていたコートを着せ、それから手に持っていたケースからヴァイオリンを取り出し、弓と共に構えた。


「曲は……どうする?」

「私がいつも弾いていた曲がいいな」

「あれか。わかった」


 僕は弓を動かした。響きを体へと取り入れ、音の流れを放出した。

 ゆっくりとした時間を乱す音が、やがて時と一体化し、リズムを作る。僕の描いた世界と本来そこにある世界がひとつになり、美しさを浮き彫りにする。

 冬の空気の匂いや洗濯物をぱたぱたと揺らす音、かじかんだ手の感覚、いくつもの細い筋が伸びている青い空、コートをぎゅっと内側へと引き込んでいる彼女の様子、微笑の表情。

 そこから優しさや愛しさなどの感情が溢れ出して、内部が外部を包容する。僕の体を包む感情が少しだけ外へと伸び、叶うならば彼女に届けばいい。そう思って、弓を動かし続ける。なめらかに、柔らかに、ゆるやかに。

 不意に、こういった世界の為に頑張りたいんだなと僕はその時ふと思い、確信し、演奏を続けた。彼女が死なない限り世界は美しく、僕は頑張っていけるだろうと思った。そういった人を失わずにいられる為の技術を得たいと、僕はしっかりと望んだ。

 演奏をする手がスムーズに動く。何の迷いも無い。どう演奏すればいいのかも、どういった気持ちを込めて演奏するかも、その時の僕には分かりきっていることだった。

 僕の行く道は真っ直ぐですごく整えられているもののように、僕には思えていた。




 それから僕は二時間以上かけて大学まで行き、常に一番前の席で必死に勉強をし、サークルにも入らず、友人もあまり作らず、ただ医学に没頭した。

 時間の無い日々は連続し、彼女と会う暇もあまり無くなった。高い成績を確保しておかないと奨学金は得られないし、そうしたところで多少の金は必要になるからバイトもしなくちゃならない。月に三回程会うだけとなり、その時間も長くて一時間ほどに留められた。

 それでも僕は生活に不満など無く、やがて彼女が治った時、世界はきっと輝かしいとしか言いようの無い存在になるに違いないと思っていた。その為の我慢期間なのだから、多少の苦痛や空虚感は耐えなければいけないと僕は思っていた。

 やがて努力の日々は変わらぬ日常へと変化し、一年が過ぎようという頃。

 不意に込み上げる悲しみが時折僕を襲った。それは必ず疲れ切った日の夜に訪れ、僕を脅かし、心の中から何かを奪っていった。

 深夜のバイトを追え、静まった部屋に一人入ろうと深呼吸をする瞬間。

 扉のがちゃんという音だけが静寂を震わし、そのまままた静まり返る瞬間。

 冷蔵庫からビールを取り出して一口飲み、ふとがらんとした室内に目がいった瞬間。

 何もすることが無く、しかし眠気も無く、ぼんやりと部屋隅のベッドから天井にある蛍光灯の明りを見つめる瞬間。

 部屋を閉め切り携帯をぐっと掴み、そういったものだけで誰かと繋がろうとしてしまいそうになるその瞬間――。

 泣きそうになり、それをぐっと堪えるも、集中力を失い、全てに対してやる気が起きなくなる。大きな空洞を心に抱え、何を放り込んでも満たされず、ただ失うだけを待つ日々に焦燥感ばかりが募る。努力しても逃げても、幸せになれないという未来が手に取るように分かる一日が終わり、同じような明日が来ることに怯えを感じる。

 ここには僕しかいないという実感が、僕を殺しに来る……。

 日を追うごとにその回数は増え、このままではいけないと何かが僕の心に囁き、僕はひとつの決断をした。

 東京に行く。

 そうすることで彼女への強すぎる思いを一時的にでも断ち切り、さらに勉学に励む。そうするしか、このまま努力していく方法はないと思った。

 僕は彼女に手紙を書き、その旨を伝えて、東京へと出た。

 幸いなことに親が仕送りを出してくれた為、一人暮らしをするだけの金を稼ぐ必要は無かった。

 今まで通り勉強をし、力を身につけ、彼女の下へ帰る。それでいいんだ、と僕は自分に言い聞かせ、大学までの距離が近くなった分さらに勉学とバイトに打ち込み、日々を送った。

 そうして桜の降り注いだ春が過ぎ、暑い夏が終わり、静かな秋を経て、東京に久しぶりの雪が降った冬の日のこと。

 僕は、大学を辞めた。

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