9.ユタカの旋律4
「終わりを待つ感覚ってね、とても不思議なものよ」
いつだったか。ほのかがそんなことを不意に口にした。
まだ彼女が学校からいなくなってしまう前。だから九月の初め頃のことだったと思う。
残暑が厳しく、額には汗が浮かんでいた。彼女は纏わりつくような生ぬるい風を払うように髪を指で梳き、いつものようにステップを踏みながら帰り道を歩いていた。僕はそんな彼女の斜め後ろから、一人ヴァイオリンを手にゆっくりとした足取りで道に足跡を残していた。
ひぐらしが忙しなく鳴いていて、何かが終わってしまうような予感が空気にはあった。掌をぎゅっと握り締め軽く俯くと、柔らかく膝を曲げる彼女の細い足とそれに合わせてふわりと舞うスカートが視界に入った。
夢や幻のように、何故かそれは失われていくという実感を秘めていて、僕は目をそむけまいと必死に彼女を見ていた。
「なんだかね、勝負の決まったゲームみたいなものなの」
彼女は地面の汚れや影に視線を送りながら、起伏の無い口調で言った。
「スポーツとかで、もうどう考えても逆転出来ないっていう状況って、あるでしょう? 努力すればとか、奇跡は起こせるとか、そんな百回やれば一回起こるかもなんて夢物語は無視してね。だってそんなの、物理で言うところの、計算から外していい空気の摩擦のようなものでしょう?」
この物体が落下する時の最大速度を出しなさい。ただし、空気の摩擦は考えないことにする――そんな、未来。
「ほぼ間違いなく負ける試合なの。でね、その試合はまだ半分ぐらい時間が余ってるのよ。でもどうやったって勝てないことは分かってるの。そういう試合をしていると、どんどんやる気ばかりが失われていって、努力することもバカらしくて、今までやってきたこともくだらなく見えて、早く終わってくれればいいのにって思うでしょう?」
僕が黙っていると、彼女は立ち止まって振り返り、そんな僕の様子を見た。
それからにっこりと微笑んで、僕に寂しげな言葉を当然のように呟いた。
「私、終わったの。最後だったのよ、あれが。もう、おしまい。後はもう、待つだけなの」
「……くだらない」
「そうかもしれない。でももういいの。だって、ユタカだって分かってるでしょう? 私は……」
「関係ないんだよ、そんなの!」
僕は大きな声で彼女の言葉を跳ね除けた。彼女が驚いた表情で僕を見、手を胸の辺りへと近づけた。ぎゅっと握り締めた服、皺が作られる。それの、何が悪いんだ。
重苦しさを全て吐き出すように僕は一息で強く強く、苦々しげに言葉を吐き捨てた。
「そんなんじゃないんだよ、僕が君にヴァイオリンをやめて欲しくない理由は」
「……」
「僕は……僕はただ……」
不意に電車の轟音が耳に届き、掻き分けられた風の波が僕らを襲った。
僕と彼女はじっと見つめあい、街灯の作り出す光と影に支配された空間の中で何かを考え合っていた。それは決して同じものではないのに、なぜか今までずっと同じことを考えて生きてきた気がして、僕は少しだけ泣きたくなった。
「――」
僕は口を開いた。電車の走るけたたましい音でよく響かなかった。彼女が耳に手を当て、何、と口を動かした。
諦めてたまるか、と僕は思った。僕だけは諦めてたまるか。ずっとずっと彼女にヴァイオリンを弾いていて欲しい。それを聞かせて欲しい。どうしてそこまで思うのか、僕にはまだわからない。それだって知りたい。
僕は本当に、ほのかの演奏が好きなんだ――。
ゆっくりと視界を回し、空を見、コンクリートの汚れを見、街灯のぼんやりとした光に瞬きし、電車が通り過ぎる瞬間へと視線を移す。彼女が不安げに僕を見つめているのが視界の端で分かる。
轟音が遠ざかっていき、耳には静けさが戻り、自分の呼吸の音が少し聞こえた。彼女は胸の辺りの服を掴んだまま、懐かしい揺らぎを瞳の奥に湛えていた。
だからゆっくりと、僕は想いを口にした。
「僕が、君の分まで頑張ってやる。君はじっと待ってればいい。僕が君を諦めさせない」
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