7.ユタカの旋律2

 教室に入ると既に授業開始の時刻は回っていて、白髪の教授が無表情でこちらをちらっと一瞥したが、すぐさま何事も無かったかのように授業が再開された。

 僕は軽く肩を竦めた後、正面の席で小さく手を振っている友人の横へと移動し、席に着いた。


「よう、珍しいな、お前が遅刻なんて」

「あぁ、色々あってな」

「色々ってなんだ?」

「色々は色々だよ。だから色々って言うんだろ」

「む、そうか」


 僕は軽口を少しの笑みを混ぜて口にしたが、本当は自分自身、よく分かっていなかっただけのことだった。

 どうして遅刻してしまったのか。どうして急ごうとしなかったのか。なぜここにこうしているのか。全てがよくわからなくなっていた。

 僕はノートとシャーペンを取り出し、友人が取っといてくれていたプリントを感謝の言葉と共にもらい、すぐさま教授の言葉に耳を傾けた。

 しかし五分、十分と時間が回るに連れ、次第に強い眠気が僕を襲った。不思議なぐらい強烈なそれは、一番前の席に座っているという現実さえ飲み込み、僕の頭を机へと伏させた。

 おい、と友人が肘で僕の体を突っつく。僕はその度に頭を無理やりもたげて、プリントと教授と黒板に視線を行き来させる。だがどうしても抗うことの出来ないそれに対し、やがて僕は限界を感じ、途中から友人のありがたい忠告を無視した。

 ……最近はいつも、こんな調子だ。

 どうしてこんなに気だるいのか、なぜこんなに眠たいのか。そんなの去年もあったことだけれど、なぜ今年になってこんなにも粘って頑張ることが出来なくなってしまっているのか。

 腑抜けただけだろ、という言葉が頭の中に響く。しかしそれと同時に冷静な声色で頭の奥底から、本当にそう思っているのか、という声が聞こえる。

 努力しなければと思う一方で、そう思えば思うほどに嫌気が差してしまう現状が確かにそこにはある。しかしそんなの言い訳でしかないとも思うと、途端に自分がどうしようもない存在に思えてくる。

 しっかりしろ、という言葉で今まで自分を励ましてきたのに、そんな言葉でさえ今では悲鳴のように聞こえてならない。


 ――しっかりしろ。


 でも、僕が頑張らなければ……。

 その気持ちだけが、僕を何とか今日まで支えている。胸が軋んで痛いぐらいに、強く。

 僕はゆっくりと頭を持ち上げ、椅子に座り直し、頬をうるさくない程度に強く叩いた。眠気が消えることはないけれど、それで一瞬だけ意識がきっちりと覚醒する。その間にすかさずシャーペンを持ち、黒板に書いてあること、教授の話していることをしっかりとノートに書き写し始める。眠くなったらまた頬を叩き、しっかりしろと頭の中で叫ぶ。そうやって一時間半を過ごす。

 やがて長い長い時間は過ぎ、講義終了を告げるチャイムが講義室に鳴り響いた。教授がゆっくりと振り向いて時計を一瞥し、平坦な声で授業の一時的な終了を告げる。室内はゆっくりと話し声に満たされ始め、出て行く生徒が増える度にひっそりと静まり返っていく。


「飯は、どうする?」


 僕が黒板に書かれていたことを写し終えると同時に、隣で既に荷物を仕舞い終えていた友人がそう声をかけてきた。


「今日はもう授業ないし、俺はこれで帰るわ」

「何か用事でもあるのか?」

「特にないけど」


 普段は、そうか、で済ますはずの友人を僕は見つめ、何かあるのか、と尋ねた。


「いちおうに、な」

「何だよ。マジな話か?」


 僕が首を傾げると、彼はこくりと頷いた。


「かなりマジな話だ」

「……じゃあ、学食行くか」

「だな」


 支度を終え立ち上がり、友人と共に教室を出て階段を下りる。食堂は地下にあり、いつも騒々しいぐらいの声が木霊している。その声に近づいていくごとに、何だか自分が遠くへ来てしまったような、そんな錯覚をいつも感じる。


「ユタカ」

「うん?」


 不意にそれまで黙っていた友人が僕に呼びかけた後、どこか遠くを見つめるようにしてぽつりと呟いた。


「俺……大学をやめようと思う――」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る